第31話 神の林檎に巣食う虫




 ……私がアスラとマリヒの二人に出会ったのは、十一年前の難民保護区でした。当時の私は見聞を広める一環として、難民のノルマ管理職に就いていました。それまで鎖国を続けていたラプセルが、離れ小島に保護区を設けたというニュースを聞いて何万もの難民が押し寄せました。申請が通るのはほんの一握り、難民たちは衣食住の保護を受ける代わりに防御壁セキュリティ補助の仕事をします。少しでもミスをすればすぐ舟に戻される……そんな難民たちを幾人も見てきました。


 ある日、痩せこけた病人が私にノルマ達成を示すタイムスタンプを提出しました。病人でも働ける限りはごく僅かですがノルマはあります。でもその人の達成量は多すぎました、通常の量の倍はあったのです。とてもそんなことができるような体調には見えません。カードを見るとアスラ・ゾンネターク、と違う名前が書いてありました。私は言いました。

「これは違うカードですね。病気が悪化したようでしたら、医務室に行けば免除してもらえますから一緒に……」

 すると遠くの方から体格のいい男が一人走ってきました。

「職員さん悪い悪い!そいつが俺のカードを間違えて持っていっちまった!そいつのはこっちだ、はい!」

 そこで私はピンと来ました。この男が病人の肩代わりをしたんだな、と。

 しかし黙ってそのカードを受け取ると、隣で心配そうにチラチラ見ていた同じ職員の視線に気づきました。私が振り向くと、その職員女性はにっこり笑って手を振りました。それがマリヒでした。


 私たち三人はすぐ意気投合しました。正確にはアスラとマリヒは先に知り合っていて、既に互いを想い合う仲でした。私はマリヒに惹かれると同時に身を引きましたが、相手がアスラだったから耐えることができました。


 アスラは私たちに故郷のシャトン国の話をしてくれました。彼が生まれた頃にはとっくに戦火で荒れ果てていたけど、それでも綺麗な深い森が残っていて、鳥のさえずりを聞いて育ったこと。ラプセルの離れ小島でも同じ鳥を見つけられて嬉しかった、いつかラプセルの居住権を得られたら、鳥に関する仕事がしたい……よくそう言っていました。


 そして、あの日が……ラトーが来ました。離れ小島はラトーの触手に覆われました。職員用の救命ボートが出ましたが、先に出て行ったボートは皆直ちに沈められました。私とマリヒは海の色を見て全てを諦めました。人の血の赤とラトーの黒い毒、決して混ざり合うことのない色でぐちゃぐちゃになった醜い海に入って、到底助かるとは思えません。


「ダンテ!マリヒ!」

 崖の方からアスラの声がしました。


「こっちへ来い!小さいから全員は無理だが、お前ら二人ならきっと入れる!」


 安全な脱出路でもあるのか?それとも避難壕?考える暇もなく、私たちはアスラについていきました。

 辿り着いたのは崖の下にあった祠でした。しかしアスラがその戸を開けると、中には極彩色の光の束が詰まっていて、アスラがその中に手を突っ込んでも吸い込まれるばかりで底が分かりません。


「アスラ……なんだ、これは?」

「分からん。分からんが、恐らくこの祠はどこかと繋がっている。だがどうやら外から誰かが閉めない限り、完全には行けないみたいだ。いいか、外から俺が戸を閉める。お前ら二人で中に入れ」

「そんな……」

「何を言ってるのアスラ!」


「早くしろ。こうしてる間にもあの化け物たちが迫ってきている。俺は何もお前たちの身代わりになろうって訳じゃない。この祠の先に繋がってるのは、ここよりもっと酷い場所かもしれない。安全の保障はできない。だが俺は、お前たち二人に賭けたいんだ。お前らならきっとどんな場所でも、俺の分まで頑張って生きてくれる……。頼む!ここでこうして三人死ぬより、お前らだけでも逃げてくれ!」

「アスラ、それなら僕が戸を……」


 私の提案を無視して、アスラは私とマリヒを祠の中に押し込めました。その超空間の感触は今でも覚えています。水底の泥のようにひんやりとしていて、じわじわと力が奪われていくような……身が竦む思いでした。

「マリヒのことを頼む、ダンテ」


 マリヒに聞こえないような小声で……それがアスラの最期の言葉でした。そして戸が閉まり、私たちは光の中で意識を失いました。




 目が覚めると浜辺に流れ着いていました。それはよく知っているラプセルの光景でした。ラトーに荒らされてはいましたが、それも私たちが住んでいた世界と一緒です。私とマリヒはすぐにアスラのその後を調べました。

 そして驚嘆しました。難民保護区のどこにも、ラプセル中のどこにも、彼を証明するものは残っていなかったのです。あるのはマリヒが懐に入れていた私たち三人の写真のみ。


 それだけなら襲撃の際に記録が破壊し尽くされてしまった、で済むかもしれません。離れ小島の出来事ですし、ラプセルで彼をよく知っている人なんて私とマリヒぐらいのものです。

 しかし、もう一つ気になることがありました。

 地図のどこにもシャトン国なんて存在せず、ラプセル領土のシャトン区域があるだけだったのです。

 難民という言葉の意味も、神を信じない異端者、に置き換わっていました。

 難民が舟でよその国から押し寄せたなんて話はなく、当時のニュースの映像も人々がラプセル本土から島へ舟で移っていく真逆の様子でした。

 私とマリヒの全く知らない世界です。



 混乱した私たちは話し合い、一つの仮説を立てました。この世界Aとは別に、もう一つのそっくりな並行世界A´がかつて存在していた。私たちはラトー襲撃時まではA´の世界に存在していたが、謎の祠を経由してこの世界Aに移ってしまった。しかしそっくりというのはどの程度を指すのか?たとえばAにもA´にも両方私は存在するのか?けれど私もマリヒも、もう一人の自分に会ったことはありません。A´の私がAに来た途端に、Aの私は消えてしまい、存在ごと成り替わってしまうのだろうか……。


 マリヒが考案した説はこうでした。今私たちがいる世界Aは、A´に何かあったときのために神が用意されたコピーである。コピーされるのは無生物だけで、生物はオリジナルA´しか存在しない。

 他に生き残った人たちは神の手により移されたから、何の疑問もなく今の世界が元の世界だと信じられるが、私たちは正規のルートを通っていないために記憶にエラーが生じ、元の世界A´を一部覚えたままAに移ってしまった……。


 それから私とマリヒは不安を払拭するために、ひたすら考古学の研究と海底探索に打ち込みました。

 私たちの知っている人たちが、もしかしたら別人かもしれない……。この世界は私たちが幼い頃を過ごしたラプセルとは違うのかもしれない……。

 そんな足元がぐらつくような不安を抱えたまま生きるなんて、到底耐えられませんでした。

 それに、私はこれでもフラウシュトラス家の当代です。親からは聖典の教えを疑ってはならん、と叩き込まれて育ちましたが、私は逆に疑って検証にかかる心こそが聖典の正しさを証明できると信じています。

 そして、いつかリリカに実の父親について話す日が来たとき、その存在を証明することができなかったら、アスラにもリリカにも申し訳ないです。




 ……以上が今まで私が黙っていた理由になります。

 レトリア様にありのまま正直に話すことができて、もう思い残すことはございません。私たちの研究が間違いだったとしても、神の裁きであれば喜んで受け入れます。ただ一つ、願いを言えるのだとしたら、どうかリリカだけはお守りください……。こうなる前に正直に話してやれなかったことだけが心残りですが、あの子は本当に何も知らなかったのです……。

 血の繋がりなんてなくても、私はずっとあの子の父親でありたいんです……。




「……」





 〇 〇 〇





『今はまだ、お前が死んだりする必要はない。お前の一番の罪はラプセル中を不安に陥れたことだ。研究からはしばらく離れて、ただ忘れろ。その中途半端さは弱き人心を惑わすだけだ。人が探したところで見つからないものは、いずれ天が明らかにする。焦るな、他の人間を巻き込むな。リリカにもう一度会いたければ、それだけは約束しろ』


 警視庁内最奥の聖壇から出てきたダンテは、数歩歩いてもまだ自分が生きているという実感を取り戻せなかった。

 世界を揺るがしかねない仮説を話したというのに何も罰せられなかったのは、自分たちが、マリヒが命を懸けてまで追った研究が相手にするまでもない、取るに足りない子供騙しだったということか。

 ……いや、そんな筈はない。果てしなく長い階段を、それでも一歩ずつ踏みしめていくような、確かな手ごたえがあの研究にはあった。

 研究は捨てよう。だが完全に捨てるのではない。

 いつか天の赦しが来るそのときを待って、宙に浮かべておこう。

 マリヒとアスラとの思い出がある限り、どれだけ離れていてもきっと戻って来られるだろうから。


「リリカはすごいな……。レトリア様のあの目を睨み返せるなんて、さすが母さんの子だ……」


 そうだ、アスラがいたことを証明できるのは写真だけではない。

 リリカなら……この世と彼の世をきっと結びつけてくれるかもしれない。

 いや、そんなに多くは望まない。どうか無事に、元気でいてくれれば……。





 ティルノグに戻ったレトリアは即座にレーダーを確かめた。

 一時間以内に近隣エリアの上空にラトーが出現する。毎日毎日、変わり映えのない殲滅作業が続く。

「神樹が枯れたときからこうなることは分かっていたが、よりによってフラウシュトラス家から穴が開いたか。運任せのワームホールも大したものだ」


「申し訳ございません。私の眼が至らぬばかりに……」

 頭を下げるユークに、レトリアは露骨に眉をひそめた。

「無駄な謝罪はやめろ、ダンテの話は神樹の機能がお前に移る前だ。それより問題はスタンツだ、奴の企みは明らかに穴を広げようとしている。お前の眼に映る大きさになったら直ちに軍も動かせ」


「スタンツ氏も召喚しますか?」

「今は泳がせておく。私とお前の指示だと悟られないように、間接的に双方の周辺を洗い流せ。マリヒのこともだ。人の世のいざこざなど放っておくべきだが、ラトが関わるとなると話は別になる」

「承知いたしました」


「この世界にガタが来ているうちにケリをつけるつもりだろうが、そうはさせない。ダンテかスタンツか──」


 窓の外をどす黒い雪雲が通り、レトリアの顔が影にはっきりと映った。

 永遠に十歳の子供の姿をした、決して壊れることのない不死身の人形。


「どちらか、あるいは両方にラトがこびりついている」


 血の繋がりなんて……。



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