第26話 The die is cast
「何、これ……何なのよ、これは……」
鏡を見つめるリリカの全身は震えっぱなしだった。
頭から髪と同じ桃色の、柔らかい毛の三角形が二つ生えてきている。
結局あの後リリカはあっけなく捕まって、屋敷に強制送還されて外出禁止令が出された。
その間に鉱脈の問題も“第二の聖典”も、全部いつものリリカのイタズラだと片付けられた。特に“第二の聖典”は二年前にも学会に偽物だと認定されていたのを掘り起こしたのが、大衆の心証を悪くした。一連の流れは母親の名誉を回復したいリリカを、抗議団体の過激派が唆したのが原因だと結論づけられた。
「こっちの聖典が本物だって証拠はあるもん!」と言い張るリリカに、スタンツたちは「出してみなさい」と迫ったが、
「スタンツには教えてやらない!」の一点張りで終わった。
いつもだったらフラルを使って窓から簡単に抜け出すのだが、今日はレースのカーテンに守られた金縁窓も、庭園の野原も糸杉も東屋もはるか遠くに感じる。
広い広い、どこを歩いても視線が鬱陶しい屋敷の隅、聖典の主となるべく誇り高く煌びやかに飾られた自室にリリカは籠城し、鏡からも目を背けてさらにベッドの中に潜り込んだ。
きっとアムリタが足りないだけよ。
いっぱい食べて寝たら明日にはまたフラルが出せるはず。
そう、きっとそう……。
昨日も自分にそう言い聞かせて孤独な眠りに就いた。
だが朝起きてみてもフラルは出せず、代わりに自分の身体に獣の耳のような得体の知れない変化が起きていた。
獣の耳が生えた人間を、リリカはもっと小さい頃に絵本で見たことがある。
数百年前ラプセルの人々と移民たちが争ったときに、移民たちに降りかかった神罰の一つが獣や虫もどきになる病だった。
それは単に移民たちが持ち込んだ食べ物とラプセルの性質が相反したことによる風土病であり、神の意思によるものではないと後に否定されたが、伝説として根付いたそれは今でも「お菓子ばっかり食べてたら虫になるよ!」という子供への偏食の脅し文句にしばしば使われる。
なんで?なんでフラウシュトラス家の跡取りの私が移民の病に?
今の地下神殿の聖典を否定したから?いつもお父様やレトリアの言うことを聞かないから?
違う、これは神罰なんかじゃない。
じゃあ何?何なの……?
「リリカ……父さんだ、ドアを開けてくれないか?」
「……」
「大事な話なんだ。お前の顔を見て話がしたい」
「……」
お父様がこの耳を見たらどうしよう。
どんな顔をしてダンテに会えばいいか分からず、リリカは枕を被って獣の耳を抑え込んだ。
「そうか……今はまだダメか……。もうすぐしたら父さんは出かけなくてはならない。帰ってきたらきっと、それについて話をしよう。直接話すべきだが……お前がテレビを見てしまう前に、どうか写真を見てほしい。それじゃあ、いってきます」
そう言い残してダンテはドアの下の隙間から何かを差し込んだ。
数時間後、意を決してベッドから降りたリリカが見たのは二枚の写真と、一枚のメモ書きだった。
一つはリリカもアルバムで見たことがある、生まれてきた赤子の自分を幸福そうに抱きかかえるダンテとマリヒの写真。
もう一枚はシャツにジーンズのラフな格好で荒野に立つダンテとマリヒと、二人の肩に腕を回すバンダナ頭の輝いた瞳の青年。
親子の写真が穏やかな幸福の象徴だとしたら、若き三人組のその写真は荒々しい未来を象徴するかのようだった。
メモにはこう書かれている。
『お前がもう少し大きくなったら、話すつもりでいた。写真の人は父さんの親友で、母さんの……恋人だった。アスラ・ゾンネターク。お前の、本当の父にあたる人だ。』
〇 〇 〇
聖典:フラウシュトラス本家が所有する、神の教えと過去の歴史を記し、未来の出来事をも預言する地下神殿。
聖典、と聞くと普通は紙の書物を思い浮かべるし、礼拝堂等施設や一般家庭にあるコピーは全部紙の本だ。
しかしその原本は神殿の壁そのものだと言う。
2378年前に、神により過去と未来を見せられたとされる当時の長老が仲間たちとともに壁に刻んで書き記したと言い伝えられている。
その最後はレトリアと人が力を合わせて
宇宙に隔てられていた人の国と天の国は繋がり、魂の行き来は自由になる……と締めくくられている。
神樹:人類有史以前からラプセルの中央にそびえ立っていた巨大な白い柱。
聖典によれば人の国に直接関わることのできない“形をもたない”神が、レトリア同様に地上への恵みとして授けたという。
だから始まりの神樹と、その対になる終わりのレトリアとして神学上よく並べられている。
柱は地面の下に延々と根を張り巡らせ、柱によって清められた水はアムリタとして特別な力を持ちラプセルの動植物を潤してきた。
十年前、蕾紀2368年のラトー襲撃時に大群が積み重なって神樹をへし折ったが、地下の根とアムリタは無事だった。
ポソネム・フラウシュトラス:フラウシュトラス分家の御曹司の一人。
北首都大学在籍当時から数々の工学論文を発表して名を馳せ、ウロヌスの紹介……優秀な実績があったとはいえほぼ縁故採用で、エンデエルデ開発チームに加わったがエド曰くその実態は惨憺たる有り様だった。
ポソネムが持ってきた設計図に、エドが何か意見を言ったり修正を加えるだけで露骨に嫌そうな態度になったという。
そのくせ自分がエドや他人より改良できそうな箇所を見つけたときは、悪魔の首根っこを摑まえたように喜色満面で粗を叩き出す。
優れた才能の持ち主なのは認めるが、その場の雰囲気や人によってころころ態度が変わり、お偉いさんの前では澄ました顔のくせに職場では威張りくさって空気を悪くする問題児……というのがエドの感想だった。
神樹跡への道中、車中で俺は聖典と神樹についての基礎知識と、エドから聞いたエンデエルデ建設着工当時のポソネム・フラウシュトラスについてもう一度おさらいした。
神樹跡へはまずモノレールで向かい、砂漠前の湿地に着いてからは船で進む。
都会の入り組んだビルの青、大平原の緑とカラフルな花畑の色。
だったのが、一晩寝たら車窓の景色も外の植物の種類もがらりと変わってた。
冬空の雪をまとった白や灰色は消え失せ、黄色黄緑色桃色オレンジの絵の具をそのまま絞り出したようなビビッドカラーな世界に突入した。
草も木も花も伸び放題で、野生でも冬とは思えないほど艶々しい。果実が成ってるものも多く、窓越しでも芳醇な香りがしてきそうだ。
つられて俺は食堂でバナナ、パパイヤ、キウイを一気に注文して食った。
砂漠の中心は赤道にあり、真冬でも昼間は猛暑だ。寝台車から降りる前に俺は半袖の夏服と、日焼け炎症防止用のマントに着替える。
やがてジャングルの気配は段々静まり、見晴らしのいい開けたサバンナ地帯に出た。草原を闊歩する獣たちの姿が、水飲み場でくつろぐ姿に変わっていった頃、モノレールが終点に着いた。
サバンナには場違いな近代的なガラス張りのターミナルと、サバンナに合わせたかのようなフラルだらけの草いきれの船着き場を右往左往し、湿地を渡る船に乗り込む。
最後に蓮の池を抜けて、ジュハロを出て二日目の夕方ようやくツピラ砂漠が見えてきた。
池の向こうの視界一面の砂地が黒くひび割れている。黒いひびに見えるのは細かく裂けて焦げて倒れた神樹だ。砂に埋もれるどころか深く喰いこみ、どす黒い存在感を放っている。
池が終わると船が俺たち客を乗せたままトランスフォームし、船底が左右に分かれて足になった。そのままずしんずしんと神樹跡に沿う形で歩き出す。
……すごい技術だとは思うが船よりめっちゃ酔うわ、これ。生粋のラプセル人でも慣れようがないらしく、何人かぐったりしていた。
神樹跡周囲には円形に十二個の停留所がある。ニーナたちが調査しているエリアのぺメ停は時計で言うと三時の位置だ。
船から降りると、青とオレンジとピンクのラプセルの夕方が砂漠の果てをより一層幻の如く霞ませて、際限なく広く見せている。
見渡す中で一角だけ木々と灯りが並ぶオアシスがあったので、長旅でぐったりした腰をうんと伸ばして俺はホテルに向かった。
ホテルに着くと、ちょうどロビーにいたニーナ一行が出迎えてくれた。
「お、お疲れ様ですマツバさん……」
「は~お疲れ~。夕方でもあっちいな~これで夜になると今度は一気に冷えるんだろ?早いとこキリのいい結論出したいけど……フラル枯死現象、どうにかなりそう?」
「うぅ~まだ仮説の検証ができてなくって……でも明日一段落する予定ですっ……」
ニーナたちから現地の情報を聞きながら、俺はキッチンエリアでハリドララーメンを沸かして冷やして冷麺を作ってみた。
南方や赤道直下や夏用に、冷たくても美味い商品を開発しなくてはならない。ハリドラの特徴は独特な出汁の旨味なので、冷たくすると香りが広がりにくくて不利だがメンツユだって冷やしても美味しいから十分戦えるはずだ。
「ん~!ちょっと辛すぎだけど、すっきりして美味しいです~……!」
水をがぶ飲みしながらもつるつるとニーナが満足げに麺をすする。素人の俺が作ってもこれだから現場の店員が作った分ならもっと美味く、もっと値段も上乗せできるだろう。
「うんうん、ハリドラの出汁は冷たいとまたキレがあって舌にさっぱり、かつガツンと来るな。野菜の酸味やゴマとも相性抜群!」
コップと丼を置いて一息、食べ疲れたニーナが髪をかき上げた。三白眼が露わになり、興味津々に瞳が動いている。
「ふぅ……ところでっ、ま、前から気になってたんですけど~……マツバさんがよく言ってる“ダシ”って……何なんですか?」
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