20230209
昨日・今日とぼくは実家に戻っていた。自分の部屋でひさびさにくつろいでいて、ふと本棚に宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』という本があるのを見つけた。実はこの本、もう新刊では手に入らず何度もAmazonかどこかで買おうかなと思って、でも踏ん切りがつかないままで過ごしていたのだった。過去に自分が買ったことさえ忘れてしまっていたことに恥を感じながら、今回読み返してそして自分自身のことを考えた。いや、自分自身とこの世界の関係について考え、世界の中に置かれている単なる1人の人間であるだけにすぎないこのぼくが、にもかかわらずぼくにとっては特別な存在であるということ、裏を返せばぼくがぼくであって他の誰でもありえないことについて考えたのだった。
宮台・速水は社会学や哲学、科学などのフィールドを縦横無尽に横断しなおかつ日本の文化を社会学の見地から分析する。その分析は濃くてなかなか短くまとめられないのだけれど(ぼくの理解が覚束なかったということもあるので)、ざっくり言えば2人はぼくたちが織り成す「社会」と、その「社会」を内包した「世界」を区別している。そして「社会」、つまり既知のものに満ちた分野で生きづらさを抱えているぼくたちに「世界」があることを示唆している。「世界」はさまざまな形で開かれる。「非日常」と言えばわかりやすくなるのだろうか(その分2人の語りからはずれていくことになるけれど)。例えば桜が満開である景色、あるいは宮台真司なら崇高な天皇がそうした存在である、と。
そうした言葉を追いかけて読んでいると、2人はそうした外部にある崇高な存在を通して自分自身の神秘について目覚めよと説いているように読める。つまり、ぼくならぼくはソニー・ロリンズのサックスやア・トライブ・コールド・クエストのグルーヴに感動を覚えるのだけれど、そうした感動を覚えている主体はこのぼくである。ぼくが外部と触れ合って感動を味わっている。論理的にはそうなる。ぼく抜きではそうした感動はありえず、それどころかジャズやヒップホップを聴くという経験そのものだってぼくがいなかったらできなかったわけだ。そう考えを敷衍していくとぼくという存在そのものも「非日常」なもの、このぼくこそが入口と出口として「世界」と触れ合っているということも言えるのではないかと思った。
そうしてみると、このぼくという人間をぼくが授かったということは奇跡のようなことでもあると思った。ぼくが地球に生まれて、日本に生まれて、兵庫県、昔の家に住む今の両親……といった条件のもとに生まれるまでにどれほどの奇跡的な出会いを必要としただろう。そうした自分の偶有性、「世界」の奇跡に対して自分を開くこと。その奇跡の意味を噛みしめること……それはしかし理屈であれこれ考えるものではないと思った。感情あるいは情動を伴って、この全身で体感するべきことなのだろうと。何かに没頭している時、あるいはふと外を見た時、そこにある何気ないものに心が動かされる……そうした経験が彼らの言葉である「サイファ」、自分自身という奇跡の意味を教えてくれるのかな、と(こうした読みが正解かどうかはわからないのだけれど)。
ソーダライフ 踊る猫 @throbbingdiscocat
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