20230123 part2

永井玲衣『水中の哲学者たち』を読む。哲学とは何だろう。この本の中では哲学対話ないしは哲学カフェにおける著者の試みが多数書かれており、そこから哲学者のタマゴたちと著者が織り成した会話を読み取ることができる。そこにおいては出来合いの「答え」などないこと、ゆえに自分自身がこれが正解だと思ったことを考え抜き語ることが重視される。私もふと、なぜ私が私の人生を歩んでいるのか考えてしまった。会社に行けば私は私として扱われる。私のために用意された仕事をあてがわれ、そしてボスが私の仕事ぶりを見る。そして仕事が終わると私は私だけの時間を楽しむ。これらにいちいち免許書などの私の身分証明を見せる必要などなく、事態は緩やかに流れていく。それ自体が奇跡のようなことかなと思ってしまう。


そうした「私」を取り囲む実感。それが幼いものであるとしても、勇気を出して語ること。永井が行おうとしているのはそうした自己の中にある哲学的な実感をつぶさに確かめることであり、それをしかしやみくもにサルトルやヤスパースといった哲学者につなげるのではなく、手堅く彼らを引用しながらあくまで自分の言いたいことを損なわないように務めること。そうした礼儀正しいマナーを感じる。この本は有り体に言えば非常にライトで幼い印象を受ける。そんなことで立ち止まらず、さっさとウィトゲンシュタインを読みなさい、と言ってしまう「大人」も少なからずいるだろう。だが、そのウィトゲンシュタインなら永井が「水中」で見出したこうした問いを決して軽んじないと、あくまで私の勘から思う。


私自身は哲学的な営為に至るのは、決してそうしたいからではない。いくつかの選択肢があって(「文学」「批評」というように)、その中に「哲学」があったというような悠長なものではなかった。私自身がどう取り繕おうと、私の考え方は哲学的と呼ばれる類のものであることを思い知らされそれゆえに「ならば」と思って道を分け入ることにしたのだった。そして永井均を読み中島義道を読み、野矢茂樹やウィトゲンシュタインを齧ってみて今に至るのだけれど「わかった」という実感はない。一生わからないまま終わるのかもしれない。昨今のタイムパフォーマンスを重視する風潮から見ればこれは大いなる時間の無駄ではあると思う。でも、決して全貌を見出し得ない「わからない哲学」と向き合って人生を過ごすのも悪くない。


ああ、それにしてもこうした哲学入門的な本を読むたびに私は自分が失っていたものに気づかされる。「紙に書いた絵でしかないドラえもんを自分が親しく感じるのはなぜなのだろう」といったことを子ども心に考えたことを思い出し、その問いが決してトンチンカンなものではなく別の角度から哲学的に割り出せたことかもしれないと唸ってしまう。その意味では私は進歩したのかもしれない。保坂和志や高橋源一郎の小説にも似た、「今・ここ」で確かに息をしている人が書いたものという実感を味わわせてくれる本だと思う……こうして書いてみて、私が書くことの内側にだって謎が存在することに気づく。私の言葉がスムーズに伝わり得ないことを考える。しかし、「哲学対話」はむしろそこから始まる。

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