20230123

保坂和志『季節の記憶』を読む。私たちの生活と「哲学」の関係とは何だろう、と考えてみる。私は哲学研究者ではなく、ましてや哲学者を名乗れるとも思わないが私なりの「哲学」というものなら持っていると思う。それは私自身が日々を生きる上でマイルールやこだわりを持っており、そのこだわりをベースに日々の生活について考えるといった営為の延長線上にあるもの、と言えばいいだろうか。例えば私にとってはこうして言葉を書くこと、それが意味を持つことは十二分に不思議なことであり、ゆえに自分なりに考えるに値すると思っているからしつこく考えている。そうしてしつこく、どこまでも徒手空拳で自分が納得いくように考え抜き、問いを生きること。それが「哲学する」ということではないかと思う。


保坂和志の作品世界では、人がしばしば深い思索を開陳する。時間とは何か、言葉とは何か、恋とは何か。もちろんこれらに関して私たちは出来合いの答えを先人たちが出し尽くした答えの中から、つまりアーカイヴから提示することもできる。それは何ら悪いことではないだろう。だが、保坂の筆に導かれて「クイちゃん」や「松井さん」、「美紗ちゃん」が登場する作品世界の中にこれらの問いが落とし込まれると、にわかに様相が変わってくる。そうしたアーカイヴから答えを手軽に取り出す所作を拒否し、そこにいる人たち同士で切実に対話を重ねる。そうした、「考え抜く態度」を重んじて生きていながら彼らの生き方は同時に市井の生活者として、地に足が着いている。そうしたところに私は魅力的な成熟を見出す。


そこで起こることと言えば、なんてことはない。劇的な恋愛が語られるわけでもなく、人が情欲をみなぎらせて生きて官能的に生きるわけでもない。劇的な死もない。ただ、実に素朴に時間は過去から未来に流れ鎌倉の豊かな自然が描写され、その中をそれぞれの登場人物たちが生き、上述した会話を交わすだけだ。何かに似ていないだろうか。つまり私たちの人生に……私たちだって日々さほど劇的なことを体感して生き続けているわけではない。日々は散文的/即物的に流れ、その中で日々仕事をし(あるいは学校で学ぶかぼんやり過ごすかして)、そして暇を楽しみ眠る。そうした日々の歩調と実にうまくシンクロした時間の流れに合わせて綴られる作品世界を私は今回の読書でも楽しむことができた。


保坂和志の作品世界に私は憧れを抱く。彼らはおそらくそう金持ちではないだろう。貧乏だけどぜいたくにあり余る時間を用いて、日々読書をしたり散歩をしたり自分なりの生活を楽しんでいるに違いない。今で言えば「スローライフ」ということになろうか。こうした生活ぶりにある種の退廃を見出すのは容易い。若いのだからもっと野心をみなぎらせて生きなさい、と言いたくなる人もいるかもしれない。だが、私はむしろ彼らの生き方の中に「理想」を見出す。一見すると何も先のことなんて考えていない、ノンシャランとした生き方。だが、そうした生き方を貫きその時その時を味わい楽しみ抜く、そうした姿勢をあながち責めるのはお門違いではないだろうか。私もまた保坂作品のように生きたいと思っている。


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