ソーダライフ
踊る猫
20230122
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を読み返した。思えば私が一番初めに出会った哲学者といえば、それはこの永井均ではなかったかと記憶している。大学生の頃のことだ。それ以前の十代の頃の私はせいぜい背伸びして村上春樹や島田雅彦に手を伸ばすぐらいで、つまりはそれだけオクテな青年だったのだ……だが、そんな怠惰な読者であった私にも永井均の著作『〈子ども〉のための哲学』や『子どものための哲学対話』、そしてこの『翔太と猫のインサイトの夏休み』は訴えかけてくるものがあり、この本(と、もう片手に中島義道が記した啓蒙書)を携えて私は我流で自分なりの思索の生活に入ることになったのだった(ウィトゲンシュタインや野矢茂樹といった哲学者と出会うのはもっと後になってのことだ)。
私が興味があることと言えば、結局縮めて言えば「なぜ私は私なのか」ということに尽きる。そしてそれはどれだけ科学が原理を解明するとしても納得できない類のものになる。私がもうひとりこの世に(例えばドッペルゲンガーのような形で)居るということが原理的にありえないからであり、これからそういう事態がアンドロイドや人工意識を造り自分の自我を移植させるというような形で起こりうるとも思えないからだ。仮に起こったとしてもこの私自身はこの肉体を備えた存在としてしかイメージできない。私とはすでにそのような形としてこの不健全な肉体、時に欲望に溺れて現世をさ迷う肉体と不可分な形で結びついている。私が具体的に思うより先に動くこの指や、あるいは私の股間にある性器などを省いた純粋意識の私を私は想像できない。
閑話休題。永井の件の著作を読みながらこんなことを考えた(永井均に倣って自分も小説という形で展開させようかと思い、書いてみて才能のなさを思い知り諦めた)。自分は「今」になって「今」を感じる。その私の「今」は、ある人にとっては実は1秒前か1秒後かもしれない。敢えてこんな書き方をすると私が「17:06:59」に感じている「今」が他の人には「17:07:00」かもしれない、と。そこでズレが起きている……もちろんこのズレが深刻な波乱を巻き起こすことが考えにくい以上、単なる暇人の戯れ言ではあるだろう。だがここから、最近読んだ井手正和『発達障害の人には世界がどう見えるのか』の「時間分解能」をめぐる議論に持っていくのも面白いのではないかと思った。
それにしても、永井の本は実に鮮やかにこちらを哲学に誘ってくれる。さすがに「なぜ私は私なのか」という問いは日常的に私が考えている問題なのでシンクロできたのだけれど、それ以外にある「夢と現実の相違」「もし私が誰かであったなら」「なぜ言葉は通じるのだろうか」「死とは何だろうか」といった問いについても私自身子ども心に抱いていた問いだったなと思い出させられた。大江健三郎的に言えば、私はしょせん「遅れてきた哲学青年」かもしれない。だが、誰かと競うために哲学をしたいとは思わない(競うとしたら、読書量においてなのかそれともアウトプットの量なのか)。オールマイティーな哲学研究者になれるとも思っていないので、この本から思い出させられた「子ども」の自分と一緒にまた哲学に挑んでみたいと思った。
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