壱百満天原サロメ嬢のバイオ実況観ながら書いてました。バイオ実況以外ほぼ観てねえけど
3.
朝、目が覚めると、半裸のおっさんが空中に浮かんでいた。
目を見張るほどのシックスパックだった。
汗腺は機能していないのか濡れているようではなく、しかしおのずから発光しているようにてらてらと光っている。
その光は赤く、滲みだした血液のようであり、陽灼けをしたってまずそうはなるまい。
──肌が破けてそうなっていれば死んでいる。であれば、これはヒトではないのだろう。
というかそもそも浮いてる。足ついてない。オバケだこれ。
俺は転げるようにベッドから降りた。床とは距離があるので落ちるとだいぶいい音が出た。
受け身を取る技術はない。
よって、音そのままの衝撃が、落ちた側の腕にのしかかる。
腰も打った。
しばらく無様にうめきながら尺取り虫みたいに伸び縮みする。
そこで、ぬっ、と、視界にさかさになった顔が入り込んでくる。
……影は落ちない。実体はないのだろう。無精ひげを伸ばし、分厚いレンズのまるいめがねをかけている。
服は着ていないくせに妙なモノだ。鳥の巣みたいにごわごわ絡まった髪も、もしかしたらウィッグなのだろうか。
親父が注文を検討しているのを見たことがある。
検索履歴が育毛関連のワードで埋まっているのを見たときは涙を禁じ得なかった。
そんときの俺、十六なのに毛根の行く末を案じなきゃいけなかったのかわいそうすぎるだろ……。
いや、親父が片親で苦労したの知ってるから、もとをただせば原因は俺なのかもしれねえけどさ。
毛量の話を考えるとかなしくなってくるので俺はそいつから目を逸らし、横たわったままごろごろと出口まで移動した。
追ってくるかどうか確かめる余裕はない。とにかく広いところに出たかった。
ここは二階なので、階段にたどりつくまでには体勢を整えねばならぬ。
鍵なんてたいそうなモンは掛けていない。だから、半開きのドアは体当たりで全開になる。
這い蹲ったまま床をずりずりうごめくさまは端から見れば妖怪じみていたかもしれない。あれだ。ミイラ盗りがミイラ的な……いやそれぜんぜん違ぇな。
単純に、追われる立場のモノも、形相としては追う立場とさして変わらん様相を見せるということだろう。
必死な顔ってけっこう怖いからな。
俺は追われている。だから体を起こすのを忘れて階段に突入してしまったのは仕方ないことだったのだ。
仕方ないで済ませられるかバカ。
ズドドドドドド、と滑り落ちる俺。頭から落ちるところが、だいぶ勢いがついていたからだろう、先に手がつき、ストッパーがかかるかたちに作用する。
俺の腕・手指の筋骨は存外のところ丈夫で、全体重を受けてもどうにか持ちこたえ、そのまま逆立ちに移行するが俺の上腕二頭筋と背筋は脆弱だった。
姿勢を維持できず、かかとから床に激突して跳ね返りながらあおむけで止まる。
まいった……デっケェ。あちこち打って動く気力がわかないので大の字になっていると、
「さっきからどたばたうるさいが……なにを騒いでいるんだね、
眠そうに目を擦りながら見下ろしてくるのは下宿先の大家だった。
絹糸のような髪は金色で、目は水色。肌は白く、毛穴がまったく開いていないようにきめ細やか。
十代の俺よりスキンケアしっかりしてるってだけかもしれないが、二十七(六だったかもしれねェ)歳の肌年齢でないことはたしかだった。
この前怪我してるところを見たら血の色が青で、よくよく考えたら目ん玉も銅イオン水溶液みたいな色なので、もしかしたらイカとかそういう系の地球外生物が人間に擬態しているのかもしれない。
目の錯覚だよ、と言われたが。地球外生命体、だいたいそういうふうに言わない?
目元はきりっとして涼やかで、高潔な騎士を思わせるたたずまいだ。
が、ラーニングがどこかで狂ったみたいにサイズのあってない青地に星柄のパジャマにボンボンのついたナイトキャップをかぶっている。
いまどきジャンル:コメディーのドラマとかでしか見ねえだろそんなやつ。なので、騎士要素は名前だけかもしれない。
「先に、怪我がないか心配するのがオトナってもんじゃねえですかね」
俺が親切心から提言すると、星野は
「減らず口を叩くな、この子どもは」
という目をしてため息をこぼし、
「見たところ軽い打撲程度だろう。望みであれば手当てするが、どうやら急ぎらしいね?」
そうだった。
いまもそいつは腕組みをして、イライラと小刻みに二の腕を指で叩いている。なんで待ってくれてんの?
──星野にこいつの姿は見えていない。けれど状況から察して『そういうことなのだろう』と判断を下したところに場慣れを感じる。っていうかやっぱ追ってきてんな。
俺は
「退治できねえの?」
とアイコンタクトするが、アラサー男は
「手持ちがないよ」
と示すように両手をひらひらと振った。なので俺は痛む体中のあちこちに顔をしかめつつ、起き上がって逃走に戻ることにする。
「朝食までには帰ってきたまえよ。
ふわぁ、と小さく欠伸をすると、それきり興味を失ったように踵を返して部屋に戻る。
かかとにつきそうなくらい長い髪が、常夜灯の光を反射し、流水めいてさらさらとたなびいていた。
「……朝メシ、あんま食わねえんだけどな」
ゼリー飲料でじゅうぶんだった。俺は玄関のドアチェーンを外し、鍵を開けて外に出る。後ろ手に閉めると、合い鍵でロックした。
防犯意識は実家にいるときから高い方だった。自室はテキトーだったけど。っていうか部屋に鍵とかなかったし。今日はそれが逆に功を奏した感じだったが、明日から習慣づけよう。それで痛い目見たわけだしな。
考え事をして立ち止まっていれば、ドアをすり抜けておっさんがぬるりと顔を出す。鍵の意味ねえじゃん。
俺は「うぎゃあ!」と悲鳴を上げてから、踵を踏んづけたスニーカーに指を入れてかっちり履き直し、街中を走り出した。
見慣れない町並みが背後に流れていく。ここに越してきてようやく五日。着の身着のままで家出してきたからいま着てる服だって自前で用意したものではない。寝間着代わりのジャージは下ろしたてで少しごわついている。
一月の早朝。
少しぬるく、けれど冷えついた空気の中、ジャージで走っている人影は俺だけではない。ここは前住んでたところより辺境だが、道行くものは老人よりも若いもののほうが割合として多かった。
学術都市というんだったか。
近年になって発見された孤島を開発区として認定、居住民を積極的に受け入れている。本土からは海上橋が建設途中で、現在は船か空路を用いるほかないが、将来的には陸路を車両で移動できるようになる。
つまりはそれだけ領土同士が接しているのであり、なぜ近年になるまで見つからなかったのかといえば、この島には、魔法使いが棲んでいるからなのだという。
もとより無人島には非ず、先住民の奉じるところの、それは信仰対象──神なのだった。
神様が棲む島。そして、親父が生まれ育った土地でもある。家庭内でのいざこざから家出した俺は、親父とは絶縁状態にあるという親戚を頼ってこの街にやってきた。
……逃げた先で逃げている。そこにある種のアイロニーを感じないでもないが、厚顔無恥のつけを払ったと考えれば納得できないこともない。
いや嘘。オバケが見えるようになるとか聞いてねえ。
星野の家は地主……というより領主に近い形態をとっている。
自治権を有しているわけだ。
もともと、本国からは知られぬかたちで治世を──聞くところによれば四〇〇年ほど前から──敷いていたわけなので、自国の倫理に当てはめるより統治形態を流用したほうが折衝面での負担が軽い。
だから、この島はひとつのクニであり、統治する星野の当主・星野瑞騎は一国の王なのだった。
そして、島から出奔した
もともとは王と神子とは同一の存在であり、家系が分かれたのは方向性の違いだとか。
なんか学生バンドみたいな理由だな。
いま何年だっけ、二〇一四……や、年明けたから一五か。
中学時代、けいおんとハルヒの影響で周りがみんなギター始めてたの疎外感あってきつかった。アニメ見ねえし。もっぱら漫画派な俺である(けいおんもハルヒも原作あるじゃん)。
星野・火宮、双方ともに長たる資格は、『見鬼』──ようするにオバケが見れること。
神様もオバケには変わらない。
見えなきゃ声は届かない。
そして現在の当主はどちらもその資格を有していなかった。だから執政権を持ちながら、肩書きは当主代理となる。
慣例的に決まっているわけだから、見えないのがわりと当たり前、ってのが近年における島の事情らしかった。
なんか親父は見えてたそうだけど。体質的に素養があったらしく、俺も島についてわりとすぐソレが見えるようになった。
つまりは、渡りに船というわけだ。
表向きに立てる執政者は変わらないが、一〇〇年だかぶりに王と神子、両方を兼ねる立場を期待されて、俺は当主候補として島に留め置かれている。
星野か火宮、どちらの方向性に進むかは保留中。いやコンセプト教えてもらってねえけど。
それもぜんぶ神様にお目通りするまでのこと。
それまではわりかし自由に動いていいとかで、高校二年の三学期が始まる直前という中途半端な時期に編入をねじ込まれ、いまは冬休み。
どうも親父のとばっちりくさいが、決まってしまったもんはしょうがねえ。編入試験があるし部屋で勉学に勤しみたいところだが、現行でおっさんに追われている。まずはこいつをなんとかせねば。
息が切れてきた俺に対し、浮遊するそいつはつかず離れずの距離を保ちながら追跡してくる。
俺が止まればあちらも止まるし、俺が撒こうとすれば、家屋・ブロック塀を透過して直線距離で先回りする。
危害を加える意図はないのか、立ちはだかるだけでなにもしてこない。押しのけるために手を伸ばすと、氷みたいにひやりとして、けれど固形物でないのか水紋のようにゆらめきながら背後に退く。
こちらから干渉できるようだが、冷たいのは体温が奪われているということだろう。接触するのはなるたけ避けるのが無難か。
いざとなったらぶつかるしかないが、こちらが干渉できるということは、あちらにも同様のことが言えよう。
やはり刺激はしない方向で。ってか早朝でひとけが少ないとはいえ冬に半裸なのに俺以外誰も注目してねえの怖いんだよな。お近づきになりたくないぜ。
遠く、サイレンの音が聞こえてくる。救急車……いや消防車か。そういや近頃火災が多いとか聞いた気がする。
乾燥する冬場は火の巡りも早いから、燃え広がって予期せぬ大火事に発展することも多いと聞く。この島湿気すごいから条件違うかもしれんが。
そんなことを考えていたからか。
不意に風向きが変わり、焼き焦げた灰のにおいが鼻をつく。
それは、とても近くで嗅ぎとれた。
匂いの方向、そこは黄色と黒の縞模様のテープが張り巡らされた一角となっている。
『KEEP OUT』と書かれた看板が、玄関らしき空間に垂れ下がっている。
黒ずんだキッチン、灰が積もったフローリング。ドアがないのは、内側から弾け飛んだからか。
一戸建ての残骸が、洞穴めいて口を開けている。
あかいひとは背後から消えていた。……もしや俺に憑いてきたって話なのか? ここにくるために俺を媒介として利用・誘導し、目的を遂げたから消えた──そんな感じか。
……、だとしたら俺もう帰っていいのか。試験の準備しなきゃだしな。あいらぶべんきょー、と勇んで足を踏み出したとたん、頭上から逆さになった顔が降ってくるので俺は
「ぎゃばー!」
と声を発して海老よろしく尻からテープで仕切られた敷地に突っ込んだ。
俺たちはストレス社会で戦って生きていた。だがストレス要因が社会に拠らず、また死に直結する現象であれば抗せないのも無理からぬことである。
尻餅、どころか背中までついて転んだ床に、分厚く積もった灰塵が舞うのにげほげほ噎せながら俺はそんなことを考えた。
……最初に俺に憑いてきてるってことは、たぶん俺に由縁のあるモノなんだろうが、あいにく心当たりはさっぱりだ。俺の家系にこんなふさふさのやつはいない。
……言っててかなしくなってきたな。俺に住居を提供してくれてる親父の弟、ようするに叔父である
髪質が細いのだろう。白髪混じりのオールバックには隙間が多く、それはいいとして、四十路入りたてにして生え際が後退しかけているのは看過できかねる事象だ。
この人も親父が出てったせいで厄介な立場背負わされてるんだから大変なんだよな。やはりストレスは悪だ。滅ぶべし。
ストレスと抜け毛の蓋然性についてはともかく、こいつが悪しきモノであることは疑いようがないだろう。
俺にとって最大のストレス要因は、退路を塞ぎ、ぬっと仁王立ちして見下ろしてくる。
……行けってことか。不法侵入、っていうか立ち入り禁止区域に入るのそれよかもっとやばげな気がするが、もう入ってるからいまさら気にするのもおかしな話ではある。
まあ、いざとなったら星野に泣きつけばいいか。法的な問題はクリアしたとして、残る問題点は心情によるものだが、マジで行きたくない。
絶対なんかいるじゃん。
ぜーーーーーったいなんかいるじゃん。
火災現場であることは間違いないだろう。しかもガスに引火して爆発したっぽい。
それが人為的に引き起こされたものか事故なのかは俺の視点で判別は不可能だが、この廃墟の住人が無事であると考えるのは希望的観測がすぎるというものだろう。
家具は残されたままで、デカめの冷蔵庫がドアの表皮を焦がしたまま据え置かれている。
単身赴任者のものではないだろう。世帯丸ごと……何人かは知らんが、ひとり以上の人間がこの家屋で被害に遭っている可能性が高い。
肉が焼けたにおいとかはしないが、ひにちが経っているだけかもしれん。……いや。
俺は背中に埃と灰といきものの死骸を感じながら玄関のすぐ前にある階段を見た。
爆発が起こったのが一階で、煙に巻かれたとするなら、被害者は二階に上がったのではないか。
だとすれば……こいつが見せたいものとは、その先にあるものなのか。
分厚いレンズに遮られた目は表情を欠片も反映しない。だが意思は伝わってくる。
とっとといけよ、へたれ。と。
は?
「いってやろうじゃねえか!!!!!!」
俺は靴のまま家に上がり込んだ。まるきり火事場泥棒の様相だが、なに転がってるかわかんねえしな。
侵入ついでに汗かいたし水でも飲もう。冷蔵庫に手をかけると、密閉された冷気が外に排出された。
電気系統が逝ってるのに温度が保たれているということは、どうやら、火災が発生してからのち、一度も開けられていなかったらしい。
なら、ここがこうなってからさほど時間が経過していないわけか。
……酒とつまみしか入ってねえな。買い出し前だったのかもしれない。牛乳は……さすがに避けたほうがいいな。サラミでも失敬しておくか。塩分補給は大事だね。
扉を閉めた。まあ密閉状態は損なわれたから食材は全滅の憂き目を免れないだろうが、なんというか、モノを滅ぼすのって不思議な爽快感があるな……。
もちろん指紋がつかないように手袋をはめている。最初から意図してのことでなく、寒がりだからふだんから寝るときもつけてるってだけだが。
手袋を外し、袋詰めのスライスサラミをもぐもぐしつつ、俺は階段をのぼる。
口の中がからい。
なので一本持ち出しておいた缶のジンジャーエールを煽る。
……味薄いな。割り材だからって安物使ってんのか。なっちゃいないぜ。
階段をのぼりきると同時、ざざーっ、と残りを口の中に入れ、リスみたいに頬を膨れさせる。
高速で噛んで細かくすると、そのままジンジャーエールで一気に流し込んだ。滋味……。
油でべとべとになった手を手袋に収め、口許を手の甲で拭う。
二階も巻き上がった灰で煤けている。燻された床には虫の死骸があちこちに散らばっている。
もとは分厚いカーテンだったろう布の燃え滓が窓枠の横に垂れていた。
残った生地がずたずたなのは、熱膨張で窓ガラスが割れた拍子に裂けたのか。
ガラス片を避けながら廊下を進んだ。
蛍光灯も割れて薄暗い。
朝陽が昇っていなければなにも見えなかっただろう。……爆発が起きたわりに階段とか無事なんだな。
二階の床も表面が焦げてはいるが踏んだ感じしっかりとした手応えで、とりあえず抜けるような心配はなさそうだ。
「うえええあ!?」
……踏んだ床から顔が飛び出してきた。
冷水のように抵抗があり、靴底を抜けてすねのあたりでずぼりと止まる。止まるな。すんごいひんやりするぅ……。
蹴倒す勢いで前に出る。
千切れるような感触とともに足が抜けた。
干渉はできたが特に霧散する様子はない。濡れた気配はなく、ただただ骨身が軋むように凍えている。
冷感は痛みに似ていた。人体は刺激に強いようにできていない。だから俺は逃げるように歩を進める。
目許が見えないまま、にやりと口が歪ませたそいつの、きっと思惑通りに。
廊下は階段から右手側と縦一直線に伸びた二本に分かれている。
俺は曲がらず真っ直ぐに進んだ。
二本の廊下に挟まれた中央は子どもの寝室なのか、ふたつの学習机と、焦げて支柱が折れ、二段ではなくなった二段ベッドとが配置されていた。
布団の上にくろくこんもりと積もったのは灰か、炭化した人体なのか。
さすがに現場保全にも限度があるだろうから、遺体であれば運び出されていると思いたいところだ。
確認する手間は惜しむとして……いや、マジモンだったら泣くじゃん(怖すぎて)。
俺は曙光の明るくなりつつある窓辺から離れ、いそいそと順路を消化する。
いまさらだが、ご近所さんに顔見られでもしたらマズげだしな。
突き当たりのドアには『WC』と記されたドアプレートが設置されている。催してはないので無視。
まあ使おうとしたところでどうせ配管とか悲惨なことになってるだろうし……
右手側の部屋は、これは、物置だろうか。
うずたかく積み上げられた段ボールはところどころ焦げて灰になっていて、中に入ったプラモデルや超合金のロボットが熱によって熔解していた。
いよいよ床が抜けてねえのが不気味になってきたな。床材なに使ってんだ、実際のところ。フローリングにしか見えないが。
かかとをつけたまま右足を上げ、靴底の前らへんでとん、と床を鳴らす。
反響は伝播して折り重なった荷物を揺らし、不安定になっていた箇所からなだれを打って倒壊する。
……。そんなつもりは……。足場確かめるためにしただけなんだよな。
よっこらせ。足下に落ちた玩具の欠片を膝を曲げて拾いかけて、ふと、散らばったプラスチック片の中に混じるモノがあるのに気づいた。
取り上げて眺めてみる。指触りはかさついていた。関節がふたつ。先端に爪がひとつ。くろい、かりんとうみたいに見えるそれは、骨まで炭化した人間の人差し指だった。
指が落ちていた床から一〇センチと離れていない場所には平たい段ボールの束が折り重なって置かれ、その中央が下から押し上げられるように膨らんでいる。
見た感じ水気は帯びておらず、ひどく燃えやすそうに乾いている。
束は多少焦げてはいるが燃え残りのようでなく、床や壁、階段の様相と同様、難燃性の素材で編まれているのかと思わされる。
俺は……これ見なきゃダメか? ダメですよね。おっさん、こっちこなくていいから。背筋がぞわぞわする。
あかいひとが醸し出す“圧”にびびりながら、俺はへっぴり腰で近づき、覆いを取り去った。
鉄分を多く含んだ、タンパク質の焦げたにおいが広がる。
内には実寸大の模型……トルソーに似て下半身と両肩から先がない、黒焦げの人体がある。
水分が蒸発し、罅割れた皮膚の隙間から、まだ瑞々しく鮮度を保った肉の赤身が幾筋か垣間見える。
蓄えた脂肪分が文字通り燃焼しているので判別が難しいが、ところどころ破けた皮膚を透かして浮き彫りになった骨格からしておそらくは女、十代のなかばといったところか。
導火線として真っ先に燃え尽きそうな長い、茨のような黒髪がショールのように肩口と胸元を隠している。
顔も両側から垂れた前髪に遮られて口許しか見えていない。
乾燥し、破けたくちびるから流れでた血液は蒸発のち焦げて口の周りに黒々と貼りついている。
「ねぇ、きみ」
声がした。
炭だらけの口許が、内側から裂けるように開いている。
実際、裂けている。熱で溶けて、上くちびると下くちびるの区別はつかなくなっていた。
組織が癒着したことが功を奏したのか、開いた口の中はあかあかと濡れていて、声帯が機能している。
蛇みたいにぬらりと蠢いた長い舌が、凝固した血で詰まった鼻をぺろりと舐めとる。
「息できなくて、しんじゃうかと思った」
炎に蹂躙されつくされ、顔筋は断裂している。
髪が覆った裏側のまぶたは灼け、剥き出しになった眼窩に収まっているべき眼球は破裂して、まくれ上がった残骸が目許に広がり、多少は水分が残っていたのか、肉色の膜をかたちづくっている。
だから、感情を訴えかけるのは声のみである。
あどけない口振りで、そいつは俺に言った。
「わたしの体を。さがしてくれる?」
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