第21話 夜に逢う

 夜気がしっとりと路地を埋めていた。

 女の呼気に似た生温かい、湿った匂いがする。

 俺は迷宮の中を彷徨う気分でそこを歩いていた。

 寧々との連絡は取れない。

 見棄てられたとは思いたくはない。

 スマホを開きデジタル通貨の残高を調べてみる。

 離婚保険からの弁済金取立ては容赦ない。円満だった頃から夫婦の将来に備えて蓄えたものが、憐憫もなく割られて砕かれて吸い込まれていく。


 寧々との出会いが間違いだった。

 人生が粉塵のように消滅に至っているのも、あの女との邂逅が発端だと思う。しかも保険貴族の部類だった。

 今や自分の影しか、連れ立つ相手はいない。

 手には安いアルコールを下げている。安くて度数の高さだけに価値がある。それでも酔えない。酔って誤魔化すには、あまりにも現実が砂を噛むように辛いだけだ。それで瓶を上げて一口啜る。喉がカッと焼ける。その熱が引く前に、現実が否応なく突き付けられる。

 

 幻でも見たようだ。

 こんな場末に相応しくない後ろ姿を見た。

 紺のワンピースで優雅に歩いている。ふくらはぎが鍛えられている。こんな女は得てして、具合がいい。

 首から肩が露出している。デコルテという奴らしい。この場所でひとり歩きは無防備にも過ぎる。左肩の肩甲骨の大きめの黒子が誘うように揺れている。

 猫の砂箱のような悪臭の中に、柑橘系の香りが尾を引いている。見えない彗星のような芳香の尾が宙に浮かんでいる。

 彼女のものだ。

 声を、掛けた。

「不用心だよ。こんな場所にその格好じゃ」

 振り返ったその顔に困惑の色はない。

「あ。すみません。友達のパーティなんですけど。ちょっと地下鉄の出口を間違ったみたいで」

「場所はどこなんです」

 彼女のいう店へは、確かにこの道は近道だと思った。スマホの指示だとは思うが、路地裏に棲む悪意は数値でカウントされていない。

「俺も暇なので、まあ方向も同じですから、送りますよ」

 よかった、と彼女が笑顔を見せた。蕾がほぐれて花弁が開いたように見えた。

「ご一緒させて下さい」

 肩を並べた。

 果実の香りがする。

 その匂いがむっと強くなった。

 左手に冷たい感触がする。するりと肘から絡み取られた。サラサラの黒髪が俺の腕に触れている。こうなると安酒臭い自身に引け目を感じてしまう。

「こうして歩けば、安全ですよね」

 潤いのある声が耳元でした。

 それでも俺は、左腕にまるで大蛇が巻きついたかのような悪寒が走っていた。

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