第20話 πの迷宮

 蜃気楼をみた気分だった。

 タブレットに残ったデータが壊れている。

 ばかりかワームが強殖侵蝕しているのがわかる。

 寧々の家を出てセーフハウスのひとつに入った。職業柄で調査対象者から逆恨みされたり、探偵から逆調査されることがある。

 会社から支給されたのと、別に個人で準備したものがある。

 今いるのは会社が準備したものだ。

 これらのセーフルームではネット回線を遮断しているのが常識だし、wifiやクラウド環境などは利用できないようにASURAが制限している。

 それは先の世界大戦で大規模なデータ撹乱攻撃を、日本の金融機関は受けている。国民ばかりでなく政府機関も、銀行通帳の電子データの多くが、打ち込まれたウィルスのワームに喰い破られた。その対策で世界共通のOSに変わり、日本ではASURAという独自OSを活用している。日本語を基にしたタグ言語が基本形となっている。

 いつものようにセーフハウスに入室して、照明をつけてその横にある電磁防壁のスイッチを入れる。それからタブレットを再起動するのは習慣になっている。

 ボクの仕事柄で、電源を入れたまま持ち歩くことなんて自殺行為に近い。いつも、どこからかの敵性攻撃者の刃が刺さってくるかを警戒している。

 それから昨日のワインバーで盗撮した画像を確認しようとした。画像ファイルの中に日時順にサムネイルがある。

 それをクイックした途端に、画面が変わった。

 画面いっぱいに、カウント中の数字が現れる。

 しかもその演算をフルスペックで行っている。

 π、円周率の計算をしているようだ。慌ててその画像を停止しようとしたが止まらない。ホームボタンからアプリの停止を求めても消えない。小ウィンドウの中で計算を止めようとはしない。

 電源を落として再起動してもその演算を停止しない。

 最終的にはタブレットのリセットスイッチをピンで押して、ようやく画面が固まった。何万桁まで計算を進めたかはわからない。乱数表のような数字群が今は凍りついているが、電源を戻せば恐らく暴走を続けるだろう。


 よかった。

 これをオフィスで開いたらどこまで感染が進んだことか。

 身体の芯に冷たいもので突き通されたような、痛みを帯びた感覚で肌が怖気に泡立った。この肉体が男性を受け入れたことはないのに。

 その感触はわかる。

 自分自身が失なったもので貫かれている、そんな痛みにも思えた。

 恐らくはこのタブレットを通して、ボクの行動は監視下にある。

 神崎という男性の、背後に浮かぶ影を推察した。

 あるいは。

 彼の接近は、逆調査であったのかもしれない。

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