第14話 蜂の部屋

 風を巻いて現れた。

 その女はホールからカウンターへヒールを鳴らして入ってゆく。

 知己の顔立ちをしていた。

 直接の面識はない。

 りょう、とかいう離婚調査員のレポートに添付された写真と、webで送信された動画と静止画データで見知っているだけだ。およそ個人的に親睦を深めようという間柄ではない。

 夫、と呼んでいた不良物件と付き合っていた女。

 夫は私の使い古しで、その残滓を舐めていた女。

 つまり佐伯という元夫との不倫時期を明確にするだけで、私の取り分を加算してくれる程度には存在価値のある女だ。

 それが背を向けてカウンターに付いた。

 独りのようだ。

 ここに佐伯という名の屑が来ると、目前のワインの味が多少落ちようとも、晴れて祝杯をあげるためにはいい渋みであるかもしれない。それなら許容できるわ。呑み下してあげる。

 確か寧々というのが、女の名前。

 ヒールで甲高く床を小突いて歩いてくる。

 それはドレスを着て、スツールに陣取って背中が空いたドレスでカウンターに両肘をついて、くみ合わせた指に顎をのせている。

「ご注文は?」

「あなたのお勧めでイイわ。それが正解だと思うから」

 言い草がいちいち燗に触る。

「どうしたの?」と怪訝な面立ちで神崎氏が尋ねてきた。

 いけない。それほど表情に出ているのかな。表情に薄くヴェールをかけてみる。女子ならできる。猫を被るともいうわね。

「昔、見知ってた女が来ているの。私を覚えてはいないと思うんだけど。ちょっと苦手なのよ」

「席を変わろうか?」

 神崎氏は指を鳴らして、奥の小部屋を開かせた。

 そこは白木の枠が鮮やかな六角形の形をした、このバーでも特別の空間だった。壁の一部はガラス張りになっていて、そこから隣室のワインセラーが見えている。鋳鉄のストッカーにボトルが埃も被らずにそこで鎮座して眠っている。

 その姿を楽しむ席に私は座った。

 六角形の部屋なので円卓になっている。

 神崎氏は上座の壁を背にした位置に座った。

「そこでいいの?」

「ああ、この部屋は格別だね」

 私はクスリと笑った。

「どうかしたの」

「覚悟はあるのかしら」

 神崎氏は鷹揚に両手を拡げて、首を傾げて見せた。いちいちモーションが大きい。英語圏にでも暮らしていた経験値でもあるのだろうか。

「その位置に座ったら、貴方の視界には私しか見えないのよ」

 吐息が届く範囲で、こっそりと呟いてやった。

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