第5話 champagne

 琥珀色の気泡に紅が落ちていた。

 シャンパンにラズベリーが落としてある。

 ボーイにそっと耳打ちした格別の一杯だ。

 それを彼女はストローで突いて口に含む。

 不躾な音も立てずにそっと液体が上がる。

 琥珀色の中に紅い霧が立っているようだ。

「・・美味しいわ」とハスキーな声でそう呟いた。

 長い黒髪を今日は後ろに纏めている。それでいて右こめかみから胸元まで一条の束を流している。筆ですっと引いた線のようだ。

 唇はまた果実よりも紅い。しかも甘そうだ。

「ご機嫌斜めは治った?」

「ピサの斜塔程度には安定したわ」

「よかった。それではあと600年は大丈夫だ」

 なぜだろうか。おれはこの女に惹かれてしまっている。

 りょうという女の、この空気感がいい。

 物腰の落ち着きが、またいい。

 そしておれの琴線に触れる言葉を紡ぐ。

 まだ抱いていないのが不思議なくらいだ。理由はある。時間を置きたいのだ。女に不自由をしている訳ではないし、今すぐにこの女を手折ることを避けているのだ。恋愛はその過程で胸を焦がすのが愉しい。

 見るべきものを見て食べれるものを食べると、何も残らず立ち去るだけのカタログ通りの旅なんて、つまらない。

 旅も恋愛も明日が知れないものがいい。


 会社に戻る頃には陽が落ちかけていた。

 無理もない、ランチには遅い時間だった。夕食はまたデリで済まそうと駅前の地下街に寄った。

 横浜の中華街にある店の惣菜を下げて、事務所のあるビルに入る。

レンタルオフィスが雨後の筍のように密生しているビルだ。

 エントランスにはレセプション嬢が座っている。

 それがこのビルの利点で、歴代の嬢は優秀でかつ美形な女性が選ばれている。この女性は望月という。胸に掲げたIDがそう語っている。

 オーナァの慧眼だろう。そのIDを確認することで、その隆起を眼を逸らさずに堪能できる、そんな位置に置かれている。

「お帰りなさいませ」

「遅くなった。何か文書とか来てない?」

「ええ、今日はも来てません」

 それじゃ、と手を振ろうとする小声で「メッセージがございます」と付箋を渡されてきた。二つ折になっているが粘着力が弱いので、エレベーターで開いた。

 その文面を眺めながらも、想いが飛ぶのは紅い唇だ。

 あの唇は、離婚保険に加入せずに婚約を申し込んでも柔らかく動くだろうか。

 今時は無保険なんてあり得ない。

 しかしながらそれでも微笑みを返してくれるなら、それこそ純粋な伴侶に辿りつけるではと思った。

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