中継点

一ヶ村銀三郎

中継点

 陰湿な緑を湛える森の中を明確な目標もなく突っ切って行くのにも疲れてきた。私の出身地である片田舎から例の大都市に向かう行程を机上で決定するのは数本の街道から一つ選べば済む事なので容易かったが、いずれの経路も闇を潜ませた濃い緑の木々を貫いていく区間を有していた。保護区だか国定地帯だか分からないが、平均的な俗物が長居のできる場所でない事は、不注意で道を外れて、十分の一仞の深さもない小さな崖に迷い込んで転んだ時に身をもって知った。

 複数の街道が互いに干渉せず独立する形で原生森林の広がる丘陵地帯を横断していたのならば、ここまで問題にはならなかっただろう。しかしリンパ管のように網目状に敷設された脇道が多く、中には行き止りの林道や農道、一周回ってくるだけの獣道まで接続していた。ようやく最近になって拡幅計画が組まれ始めた街道筋は交通量が多い筈なのに、旅人にとっては無益な支線と見分けが付かない。

 そんな不親切な環境にも問題の一端はあったが、最大の要因は不慮の事故で古びた羅針盤を固い地面に落としてしまった事だろう。そのせいもあって磁気を帯びた金属製の針は直角に折れ曲がり、傷の入った方位盤の中をグルグルと漂って、まともに四方八方を指せないでいた。脚が痛む。断面が紙ヤスリで整えられ、滑らかで綺麗な切り株があるので、そこに腰を据えて碌でもない今までの事を思い返した。

 転落してから林道と思しき小径を彷徨っているように思われる。できる事なら先の不可抗力で損壊してしまった磁針を修理して、少なくとも己が何処に居るのか正確にしたかった。けれども私は器械に関して全くズブの素人で、そればかりか都市を拠点に吟遊を志そうとする無力で不埒な童貞に過ぎなかった。僅かばかりの金銭で鍛冶職人を振り向かせる事くらいしかできないのだ。

 そんな物に頼らずとも地図を持っているから、ある程度の検討が付くと思うかもしれないが、俄かな地理的知識に基づいて書いた略図でしかない。最低限度の目印と交差点を描いただけの線分群しかない。一応は北上南下の原則を適用してはいるものの、肝腎の磁針が壊れていては話にならない。やはり闇雲に歩いているも同然であった。

 しかし私一人で出奔して良かった。仮に付き添いが一人でもいたならば、この徒労に等しい現状を見て呆れるか、痺れを切らすかして、村に帰って行ってしまった事だろう。もっとも私が崖に近い段差に気が付かずに転落して旧式の羅針盤を壊すどころか、さらには脛を軽く打撲して、未だに治癒せず歩調に支障を来たすような事もなかったろう。

 痛みが若干引いてきたので立ち上がり、来た道に背を向けて進む。最低限度の荷物だけなので機動性は良い。脚だって出血に至っていないのが不幸中の幸いだった。ただ足並みがもつれ、乱れが生じている。ゆっくりと着実に足を接地して歩いていくしかなかった。もどかしい。ただでさえ未舗装の路面だというのに、おぼつかない足取りしかできなかった。

 断崖の淵とも言うべき箇所を街道は通過する。だいたい森林は人間のために存在している訳じゃない。それ故、人類の利便を追求すべく造られた街道は、傍若無人にも地面から脱出した木々の幹と葉と枝と根を避けていくような線形にせざるを得ない。直線的に伐採しようにもまず間伐の手間が発生する。こればかりは出身地の財政難を嘆く他に成す術もなかろう。

 小高い丘に差しかかり、疲弊した両脚で緩やかな傾斜を登っていく。長い坂だ。肩幅程の小さな荷車が通行可能な道である。打撲する前、実際に何台か通り過ぎたのを見た。この道は牛馬で行くにはやや狭く、もっと北にある新道を行く方が圧倒的に速いし、不意に高低差が出現する事もない。ただ徒歩人にとって、あのルートは遠回りで峠も多い。車輪を持つ乗り物であれば、ものの数日で到着するだろうが、人力では辛いものがあった。そして何より通行料が掛かるし、乗り合いでは運賃が割高だった。

 足を引きずりかけながら、緑が生い茂って前方の見通しが悪い下り道を歩く。対向者が来たら、路肩に寄るしかないだろう。どちらにせよ打撲した脚に負荷が掛かる。そう考えると、荷物が少なくて良かった。だが傷薬の一つでも持ち歩いていれば、もっと良かった。

 平坦な道に転じても、行き違いは生じなかった。人影の代わりに、丸太で出来た小屋や、その隣に積まれた丸太、断続的に存在する切り株、そこに刺さった斧には盗難防止のためか南京錠と鎖が丁寧に取り付けられていた。この道が主流ではないと薄々勘付いていたが、これで確信に変わった。欅や檜、杉、白樺など、目を凝らしてみると、平坦な地面を利用して計画的に植樹されて整然と並んでいるようだった。

 落葉樹と常緑樹の入り乱れた単調な区域を進んで行くと、黒く変色した看板が現れた。そこには白い字で「これより先、村営林野。一般人立入禁止」と書かれていた。まずい事をしたなと思ったが、裏を返せばこの看板の奥に何らかの集落があるという事の証左と思われる。ありがたいものだ。鈍い痛みを発する両脚を前進させながら、私は黒い板を複数用いた工作物を通り過ぎていった。

 天を覆うほどに繁茂した深緑を貫く林道の先には、木々の間隔が比較的広い空間が存在していた。間伐事業で切り開かれた林とでも呼ぼうか、青一つない曇り空が認められる場所だった。天候こそ今までの森林と同様の雰囲気を醸し出しているが、それでも明度が違う。先々の色彩や輪郭の区別ができるし、何よりも地面に穴がなく、石も置かれていなかった。開拓地のようだ。

 その証拠に土煙を被って劣化した色彩を放つ木造二階建ての建物が見えてきた。こんな所に集落があったとは都合が良い、道を尋ねよう。私は僅かな鈍痛をこらえながら、目標に据えた近くの建造物に歩いて行った。その間、今いる道の先に目をやった。眼前の建物に似た構築物が十数件あった。規模の小さい集落であったが期待できそうだ。

 どこか古ぼけた玄関先に構えられたポーチは、地面から数十センチ程度上げられた所にある。未舗装の乾いた土から板張りのステップに足を乗せると、築三十年は下らない板が悲鳴を上げた。乾燥して強度を失いつつある老体は、靴に踏み躙られても折れる事はなかった。私は打撲した脚を動かしながら、傍から見れば可愛らしい段差を登って行き、ようやく玄関先に着いた。

 木材で造られたポーチは平地に設けられるデッキも兼ねていて、歪んだベンチや錆び付いたロッカー、それから雑多な屋外の日用品などが置かれていた。座って脚を休めたかったが、玄関の戸を叩く方を優先した。樫の木で出来た堅そうな扉だった。特に飾りはないので、そのまま戸の上部をノックした。

 呼びかけてみるも、旅行の疲れがあるせいか、声に張りがなかった。結局、返事がなかった。街道を歩くだけで疲労する自分という肉塊が憎らしく思われて仕方ない。また声を出す。応答がない。三度目のノックを敢行しようと思った時、後ろから声がした。

「そこは留守ですよ」

 非常に若い訳じゃないが、素人でもはっきりと分かるメゾソプラノだ。振り返ると白いブラウスの上に黒く光沢がありながらも硬い印象を受ける長いジャンパードレスを身に着けた人物が立っていた。鉄粉でも塗りたくったのだろうか。おそらくは、ここの住民だろう。林業を営む地区に来ているから、たぶん関係者だろう。怪訝な眼差しで私をジロジロと観察している。

 滅多に見られない奇異な代物を鑑賞するような視線を投げてくる彼女に道を尋ねたい旨を話しながら、まずは現状の一部だけを話すことにした。どうしても打撲した両脚を診てもらいたかった。

「ここは無医村です。八百リール先にある隣の村まで行かないと在りませんよ。どうしてもと言うなら、まあ村の人総出で運んでいく事になりそうですけど……」

 聞き慣れない単位を言いながら、私の足元に視線を落とすためか俯いてきた。きっと林道から出てきた余所者を怪しんでいるのだろう。無理もない事だ。その上、木材を盗ろうとする不逞の輩としては、あまりに不自然な軽装備である事も、不審点となっていよう。しかし医院までの道程は遠すぎる。

「……案内しましょうか?」

 だから目の前の女性がそう言った時、恐縮しながらも正気かと疑った。それに不細工である以上、本来ならば誘いを辞退する英断をしなければならない。だいたい林道の入口に来たのには何らかの理由、用事があっての事であろう。林業従事者並びに関係者の貴重な時間を奪う訳にもいかない。元来あった仕事を優先してしかるべきだろう。それを理由に私は断った。

「あなた、道に迷ったのでしょう? 一人で行ける状態には見えませんが……」

 おそらく私の恰好を見て判断したのだろう。傷ついて古ぼけたトランクケース、鈍い光沢を出す金属製の水筒、泥の付いた革のブーツ、疲弊した緑のジャケット、黒い汚れの付いた白いシャツ、茶色のズボンは裾に土埃が付着していた。そこら辺で転倒したのは目に見えていただろう。

 普段使っているせいか、若干くすんで見えるドレスを着た相手が言うには、出かける筈が忘れ物を取りに来る羽目になって、それで戻ったそうだ。村の中心部へ買い物に行かなければならないそうだから、別に問題ないと言う。

 この村にも雑貨屋はあるだろう。そこで市販の薬品を買いたいから管内してくれ。という事を彼女に言ってみると、思った通りあるようだった。向こうの方にあるから付いて来てくれと言われ、女性の後を追いかけていく。こうなったら止むを得なかろう。一切の恥を捨てて私は彼女の案内に従った。集落が形成されるだけあって、造成された土地だった。

 私が林道に迷い込んだと分かるとは、随分頭の切れる方だ、という風に他愛ない話をしようと務めたが、あまり良い感触はなかった。私の服装が旅行者のそれだっただけの事で、深い洞察力があった訳でないと言ってきた。あまり長々と喋っても迷惑がられるだけだ。そこで会話は途切れ、ささやかな村の喧騒に置き換わる筈だったが、物音の一つもなく、人が存在しないくらい不自然に静寂だった。

 今歩いている通りは、ちょうど村の中心地に当たる場所のようであったが寂れている印象を受けた。並んでいる物と言えば、実に標準的な食料品、玉石混淆で価値の低い書籍群、一昔前に流行していた家財道具、どうにも如何わしい司教、屠殺間もなく癖のある香辛料を塗した猪肉、どことも分からぬ不動産、得体の知れぬ求人票、砂嵐のせいで魅力が薄れている広告の群れ……。土埃を被って鄙びてはいるが、実に平均的な街並みで、家には明かりも灯っている。まばらながらも定住している村人たちは、必要以上の接触と干渉を避けているようだった。

 どこか行動力が奇妙に映るジャンパードレスの彼女が言う通り、雑貨店もあった。ベランダが付いている二階建ての木造住宅で、そこに付いている歪んだ緑の看板が茶色や黄土色主体の周辺に映えて印象的であった。

「ここです」

 彼女はどこか誇らしげに言ってきた。しかし薬剤が置いてあるかは分からない事である。場合によっては、彼女の行為は徒労に過ぎないと評されても弁明できない。私は念のため口を開けて発言した。

 直接的に薬剤の有無を尋ねて言質を得るような真似はしたくなかった。自己保身に走る己を卑怯だと感じつつ独り言のように呟いた。そうして賎しくも彼女の発言に耳を傾けたが、芳しい情報は得られなかった。要は分からないそうだ。茶褐色な地面の中央で、現実的でない事を思案している場合はない。早くしないと予約した宿との契約が反故になってしまう。そんな焦燥感もあったのだ。

 意を決して雑貨屋の戸を開ける。思ったよりも軽やかに開いた。中は広く、様々な品物が暖かみのある光源で照らされていた。その光は木材と調和しており、全く網膜を疲弊させない。人類を全く考慮しない暗い森林とは大違いであった。種々の人工物が多く陳列されていて、テーブルと棚からは豊かな色彩が放たれていた。奥のカウンターに店主と思しき老女がいる。

「それじゃあ、わたしはこれで失礼します」

 地味な色彩を放つドレスの女性は、そう言って雑貨屋の出入口に入らず急いで立ち去っていった。その間に例を言う暇もない。店の奥にいる店員と思しきご婦人は、ちっとも気が付かなかったようだ。気を取り直して、私はレジスターに近づいていき、軽く挨拶をした。

 不慣れな土地である故、たどたどしい話し方となってしまったが、相手は私の顔面をジロジロと見て、マニュアル的な商売上の決まり文句を言ってきた。よく来たとか、元気かとか、天気が良いとか、今日はまけてやるとか、気休めにはなるだろう。打撲した両方の脚は治癒している訳じゃない。さっさと本題に入ろう。果たして、この店に傷薬があるだろうか。

 老女は、あると思うと言った。実に不安の残る返答だった。まだ無いと言ってくれた方が、ストレスを感じずに精神衛生も保たれる。それを目の前の店主は暫く待てと言って、カウンターの向こうにある控え室の入口であろう暖簾に身を投じて、その奥に消えて行った。一時的な消失である。在庫の確認も兼ねているから、すぐに済む事であろう。

 脚の痛みを気にしながら待っていると、予想した通り店主が戻ってきた。しかし薬剤が山積みに入っている木箱を持って来たのは想定外の事であった。老女は少し申し訳なさそうな顔をして話してきた。

「お客さん。傷薬ですけどね、たくさんあり過ぎて困っているんですよ。実は、この村はお医者様がいないのでして、こういった薬を充実させる必要があるんですよ。すみませんが、お客さんの症状をお教えくださいませんか」

 この村に医療の面でハンディキャップがある事は、既に先の女性が語ってくれたので承知していた。よくよく考えれば、軟膏、丸薬、坐剤、湿布などが雑貨店で扱われるのも道理である。種類としても様々ありそうに見えるので、期待しても良さそうだ。私は現在の症状を言った。

「脚の打撲ねぇ、どれだったかしら……」

 頭痛薬、睡眠薬、食欲増進剤、下剤、精力剤、利尿薬、カンフル剤、傷薬、劇物、飲み薬、絆創膏、虫下し、松葉杖、包帯、生薬、原液、液剤、食塩水、薬草、精神安定剤、発酵薬品、各種錠剤、アルコール含有剤、嗜好品との区別が付かないもの……。店主が物色する薬品の一切が、人体と病原の双方を騙す道具に見えてきた。

「……ごめんなさいね、どうも鎮痛剤くらいしかないみたいなの」

 今も発生している打撲の痛みを軽減できるなら何でも良かった。それを聞いた私は即決で、鎮痛剤を購入しようとした。しかし期限切れの問題があると言って商談を遮ってきた。確かに不安ではあるが、老女の話を整理するとどうも既に切れている薬もあるようなのだ。契約を締結する前に彼女は暖簾の奥に頭を突っ込んで叫んだ。脛骨を覆う皮膚に響いてくるような声だった。

「ちょっと、あんた。ここから使えるの探して」

 低く皺がれた曖昧な返事が返ってきて、軽い足音が近づいた。かつての看板娘は手に持った薬品の箱を手早く暖簾の先に突き入れた。

「すみませんね、主人に探させますから」

 お構いなくとのみ話した。ついでに損壊した中古の羅針盤の件を相談してみた。すると彼女は、少し戸惑ったような表情を浮かべて話してきた。

「……少し前まで、この村にも鍛冶屋が数件くらい居たんですよ。居たんですけどね、今はもう一軒しかないんです。伐採には斧が必要だって言うのに……」

 単に価格交渉が困難になるだけなので面倒に感じてはいたが、問題はそこだけで終わらなかった。店主は続けてこう言った。たった一軒の鍛冶屋は不在との事である。何でも良質な酸化鉄が出土したらしく、二日ほど留守にするようだった。

「ちょうど今日が初日でね……」

 やはり私という者には運がないと感じた。目の前が暗くなりかけた。脛に弱い電気が走り、注意力に支障を与えたからだろう。それでも弟子の一人くらいはいる筈だ。留守を任されている人に会って話がしたい。その旨を伝えると老女は難色を示した。

「いない訳じゃないんですけどね、……ちょっと不思議な人なんですよ」

 変人には慣れている。そんな発言をすれば、私の程度が知れてしまうから言わないが、それとなく平気そうな素振りをしてみた。ただ脚が思うように動かないので鈍い動きとなってしまった。それ故、老女は全く無視をした。と言うよりは感知できなかったのだ。

「おおい、できたぞ。三つも見つかった」

 これで鬱血しかけている両脚の脛も救われよう。薬剤を塗付すればいいと思ったが、見つかったと言う薬の使用法は、いずれも一週間ほど継続して使用する事が必要条件だった。即効性がないのは当然の事だったが、今いる村から都に向かうとして、一体どれ程の日数が掛かるだろうか。

 傷薬は買うことにしたが、直ちに使おうか迷った。確かに脚は痛む。しかし律儀に七日間も薬剤を塗付し続ける根気が私には無いように思われた。

 社交辞令的に礼を言い、鍛冶屋の場所を聞いてみると、相手は頭を右手で軽く押さえながら、ゆっくりと話してきた。店を出たら両脚に薬でも塗ろうと考えながら、老女の発言に注意深く耳を傾けた。

「店番しているのは、若い娘でしてね。なんでも店主の姪らしいですけど、暇な時は村の中心地に来て、品物を物色しては何も買わずに帰っていく変なお嬢さんなんですよ」

 単に先立つ物がないのだろう。そんな風に反論すると、老練な相手はケチなだけだと言ってきて、さらに見ず知らずの人に声をかけるような性格だと付け加えた。その人物に心当たりがある。

 予想通り町外れにある人工林の近くに鍛冶屋はあると店主は言った。引き返す道になるが、時流から取り残された羅針盤の修理ができるのであれば構わない。私は薬液を手に礼を言って老夫婦のいる店舗から立ち去った。外は相変わらず風が砂を運んでいた。村の周囲にある防風しない木々は一体何をしているのだろうか。家畜のごとく肥料を根で貪り、ただ突っ立って伐採されるのを待っているだけなのか。微動だにしない植物の考えは、せわしなく生きる動物には解せぬ事柄だった。

 通りから一歩、路地裏に入り込んで建物の影に隠れた。そこでズボンの裾を捲り上げ、脛を露出した。出血こそなかったが、内出血だろうか鬱血していた。ただの打撲で済めばいいが、あいにくと応急処置をするしかなかった。買ってきた薬剤の蓋を開け、瓶の中身をオマケで付いてきた脱脂綿に吸わせる。そうして両脚の脛に塗っていった。

 粗末で安易な処置を終わらせて路地裏から出た。それでも痛みは残る。林業を生業とする村のメインストリートにも関わらず、人影のまばらな通りを歩いていく。建物の外に取り付けられた照明などを見ると、雑貨屋に到着した時よりも明度が落ちているように感じた。さっき案内してくれた女性は今、どこで何をしているだろう。考えるだけ野暮な事を思いながら、村と林の境界を示す先の黒い看板に程近い一帯に遡って行った。

 数十分前に尋ねた留守中の家の前に着いたが、やはり人が少ない。脚が痺れる。生乾きの洗濯物や赤茶色の植木鉢に植樹された若い木、乾燥して固くなった丸太の束、崩れかけた廃屋、放棄された人工林。村の中心部と比べて寂しい所だった。未舗装の地面なので雨が降ればぬかるみができよう、もっとも雑貨屋の周辺も似たような路面であったが。

 しかし、この辺りに鍛冶屋があっただろうか。そう思いながら私は、村外れに位置する界隈を探索していった。伐採場に近い事もあって、大量の丸太が山積された家屋が多い。中には細長い木材や幅の広い板などが所狭しと並べられた倉庫もあった。

 基本的には火災を恐れているため、カンテラの一つも設置されていない地域であった。負傷した脚で歩行していく。管理が行き届いてないようで、施錠の甘い半開きの扉を通じて蔵の中が見えてしまう。確かに林業や材木加工を行うとなると、鍜治の一人、二人がいないと成立しない。

 砂っぽい地面を踏み躙りながら移動を続け、その途中で鍛冶屋の看板を見つけた。「すぐそこ」とあった。どこまで近いかは分からないが、信じる他なかった。手垢が付いて壊れてしまった羅針盤を直しさえすれば、後は村人から周辺の集落の名を尋ねて、持っている地図で検討を付ければ良い。脚も治れば猶の事良い。

 鍛冶屋は林業業者の多く住む地区から、やや外れた奥まった所にあった。村の建築物と同様に木造で、黒い塗料を身に纏った煙突付きの二階建てだった。玄関付近に白いボードがあり、その中で「休業中」という赤い字が浮かんでいた。

 懐中時計を出して今の時間を確認した。この季節であれば日没まで四時間掛かる。宿泊先の事もあるので、あまり余裕はなかった。それに立ち尽くしては脚に負荷も掛かる。しかし待つしか方法もなかろう。そうして良い意味で期待は裏切られた。彼女が帰って来たのだ。

「ここに来ると思った」

 黒金の粉が付いた雑用用のドレスを払いながら、そんな風に言ってきた。どういう事か聞いてみた。

「雑貨屋の御婆さんに言われたから。……羅針盤でしょう」

 知っているなら話が早いと思った。実際に店主不在である現在、おそらく姪であるとされる眼前の人物を頼るのが先決なのは当然だ。しかし年季の入った羅針盤の修復が、その能力を大幅に超えてしまうような仕事となってしまっては意味がない。

「磁針の修理ですよね。ここで立ち話するのもなんですので上がって下さい」

 作業場も屋内であろう。私は招かれるままに開かれた鍛冶屋の玄関へ向かって行った。痛みこそないが、平然たる動作ではなかった。中の明度は高くなかったが、低すぎる程でもない。白熱灯が放つ暖色系の光が、溶鉱炉の内部を彷彿とさせる気がしたが、これも考え過ぎだろう。

 激しい動作がないから脛の痛みも少ない。店内には鋳物で出来たヤカンや小物、鋭利な鋼鉄の刃物、鍛えられた金属細工、光沢の美しい民芸品、勝手が分かる物もあれば、用途不明な代物も存在していて不思議な空間であった。

「それで、問題の羅針盤を見せて欲しいんですが、よろしいですか」

 店内のレイアウトに見とれてしまった。我に返り、ジャケットのポケットから前時代的な羅針盤を取り出した。しかし酷い有り様だった。四方八方が刻まれた方角盤には数ヶ所も傷がついているし、アクリル製の風防にもヒビが入っていた。八角形を模した形をしていたが、その角の一つ一つに土埃や泥が付着していた。ケースは木製で木目に入り込んでは、どうしようもない。

 そして何より方位を示す磁針は直線的でなければ用を為さない。にも関わらず磁気を帯びている針は捻じ曲がっていた。みすぼらしい物だった。

「随分と使い込んだようですね……」

 そうした感想を言ってきた。至極一般的な感覚に基づく発言だと感じながら、先程の雑貨屋で老女が言った事を思い返した。変な人物と評していたが、実際どうだろうか。私のごとき汚らしい見ず知らずの人間に話しかけてくる時点で、ある種の特殊性が認められるのは賛同できる。しかし発言そのものは実に一般的であった。そうした点で彼女は認められた人物と推測しても良いだろう。だいたい鍛冶屋が一件しかないのに、そこの店主の姪を蔑ろにする事は単なる自殺行為に過ぎない。

「……少し良いですか」

 唐突に彼女が話してきた。断る理由もない、状況をについて聞いてみた。

「この羅針盤ですけど、見ての通り磁針が直角よりも大きく歪んで、とんでもない方向を指してますね。その事なんですが、素人のわたしが見る限りでは、どうも直せそうもないと思うんです」

 そんな心もとない事を言ってきた。だが、ここは鍛冶屋だ。直せない筈はない。多種多様な金属、磁気を帯びた金物、鋳物、鋳鉄、型無しの工芸品……それでも貴金属の類いはないだろう。しかし実用的な金属類であれば揃えている筈だ。そう聞いてみた。

「……伯父さんが戻ってくればできるけど、それでも一週間くらいは欲しいわ。ほら、磁石って熱に弱いの。特に磁針を造るってなると、余計に神経を使うからコストも掛かるから……」

 頬を膨らまし赤らめながら、難題を押し付けてくる私を非難するかのように言ってきた。考えて見れば、あの羅針盤も購入して幾星霜が経つ。旅行の際に発生する不慮の事故でも耐久性を発揮できないようになってしまったら、もう買い替えの時期に差し掛かっていると言えよう。そんな事情もあって、思い切って購入する準備がある事を告げた。

「まあ、商品なら置いてありますよ。確か、あの辺りにあった筈です」

 気を取り直したように、はっきりした口調で指をさしてきた。多分、こういう商法なのだろう。人差し指の向く位置には、確かに角張った木製の箱が無造作に置かれた鋼鉄製のワゴンがあった。近づいて見てみると、色々な色彩を放つ場所だった。ある物は機能性に優れ、ある物は装飾が華美であった。他の物では方向盤の字に細工がしてあったり、風防が滑らかな物もあった。

 この全てが店主の手に依るものかと尋ねると相手は、かぶりを振ってきた。木材から造った物もあるそうだが高く付く。別の場所から買い上げた物が大半を占めていると言うのが、仕事着のドレスを着た彼女の意見であった。

 予算にも限りがある。この冷たい金属製の檻で編み込まれたワゴンの中に埋もれた格安な羅針盤を探すべく手を入れた。吟味したいと、もっともらしい事を言ってセコい真似をしていくと、様々な品物が見つかる。今持っている物よりも小さく、磁針の動きも機敏な商品もあった。無論、値段も比例して増大するようだが。

 それにしても迷う。ここで古臭い羅針盤を処分してしまって良い物だろうか。汚いから、きっと下取りもされなかろう。二束三文の値が付いても美味しくないし、そもそも金の問題がある。やはり一番安いのを探し当てるしかない。

 その羅針盤が良かったが、宿に行かないとならない。いっその事、新調してしまおうかと思うと彼女に言った。実際に思い入れは僅かな物だった。ただ金が浮いたから所有していただけだ。若干の虚偽を含みつつ、そんな事を喋った。作業台で虫眼鏡を覗いていた彼女は、私が物色している売り場に近づいてきた。

「そうですね、あの羅針盤は年代物ですから、部品もなさそうなんですよね。ですから、買い取るのは難しいですね」

 やはり危惧していた事が的中した。旧型であるし、土を被って汚いから、引き取るのにも料金が発生しそうだ。そこの事を聞くと「とんでもない」とだけ言ってきた。役立たずの方位磁針を引き取ってもらう事にして、ワゴンに埋没していた小型のコンパスを見つけた。値札の示す数値は破格だったが、よく見ると磁針を留める中央の部品がズレていた。これを買うと言うと、僅かに顔をしかめたが、承諾してきた。

「伯父さんめ……。良いですよ、会計しましょう。でないと今後の信用に関わりかねませんからね」

 何か引っかかる物の言い方だったが、客の与り知る事でもなかろう。代金を支払うと、紙袋に梱包してくれた。そこで思い出した。彼女に予約した宿がある村への道を尋ねよう。

「……それでしたら、さっき通った村の中心地へ行く道を進んで、川を越えた先にありますよ」

 随分あっけない行程だ。そんな簡単な道順だったのか。私の所有する地図では確認もできない。ケチらず印刷所の出した地図を買えばよかった。しかし嘆くだけ時間の無駄である。レジスターを操作し、金銭を整理する彼女に礼を言って、私は鍛冶屋を後にした。もう夕方だった。照明の少ない地域は、暗がりに溶けていく。

 夕日に照らされて、相変わらず土煙が漂う街並みである事が辛うじて分かる。林業を営むには、不毛な土地のように見えて不思議に感じた。元来た道に戻り、雑貨屋の方向に進んで行く。鈍痛こそなかったが、両脚は完全に自由とはいかなかった。不安的な足取りで中心地を歩いていく。さっき来た時には灯っていた筈の人家の明かりは、なぜか消えていた。人気もない。さっき尋ねた雑貨屋の玄関先には、「閉店」の看板がぶら下がっていた。

 鍛冶屋に、そこまで長居していただろうか。奇妙に思ったが先を急ぐ。それに、この村はあくまで通過地点である。というよりも予定では素通りしていた筈の空白地帯だった。このままでは明日の日程が狂ってしまう。中心地を抜けると閑静な家屋の並ぶ一角に出た。しかし古びた街並みだ。一度、地図を出して見る。略図なので詳しくは言えないが、おそらく今の私は、深い森林の真ん中にいるのだろう。

 宿に着いたら新しく地図を買おう。こんな手書きで稚拙な物体では駄目だ。脚の痛みが再発しない事を願いつつ歩みを進めると、町外れを表す黒い看板に出くわした。文字が擦れて「ここから先……」という文字しか認識できなかった。そこから先に歩いて行った。再び緑のトンネルに入っていくこととなった。暗黒と化した森の中を通り抜けて行くと、だだっ広い河原に辿り着いた。その中央に川が流れている。

 夕焼けが空に広がっている。大河ではあったが幸い水深が低く、浅かった。ブーツと両脚の調子を犠牲にしながら川を渡っていくと、またしても鬱屈たる万緑叢中の闇が私の目の前に展開する。軟膏でも塗っておけば良かったが夜も近かったし、一点の明かりすらない中だったので、持ってきたカンテラを灯す他に無駄な動作はしたくなかった。

 些細な光源の下で地図を開き、無機質なコンパスを用いて検討を付ける。どこか磁針のうごきが不審であったが、たぶん宿は近かろう。少し歩いていくと向こうから旅人らしき服装の人影が近づいてきた。一瞬の事で、ほとんど記憶がない。とにかく彼に道順を尋ねれば、約束も反古とせずに済むかも知れない。

 僅かな望みを持ちながら旅人に話しかけてみると、確かに道を進めば目的の集落に着くが、まだ少し時間が掛かるという。やや落胆しながらも、世間話として今までの事を話してみた。すると不気味な存在にでも遭遇したかのような面持ちで私を見てきた。

「あなたも見たんですか」

 耳を疑った。詳しく話を聞いてみた。

「いや、この辺りに林業を主とする村は無いんですよ。ただ、古い祠があるんですよ」

 そんな物は見た事がない。詳しく聞いてみた。

「ええ、黒い祠です。かつて開拓しようとした入植者がいて、栽培こそ失敗してしまったんですが鉄鉱石が採れたそうです。ですが鉱石を取るのに手間取って落盤があったらしいんですよ……」

 その結末について彼は良く知らないと言った。しかしこの界隈には、羅針盤を持った少女が、黒い木造の祠に祀られて、彷徨う旅人を見つけては当人の行きたい方向――つまり心の欲する所だと、その旅人は言うが――を教えるという事を言ってくる不気味な人々多くいると教えてくれた。その他にも、よそよそしい態度をとると呪われるだの、羅針盤を無下にしない方が良いだのという伝説まがいの事を色々と教えてくれたが、私はさっきまで話していた彼女らの存在が何なのか気になっているばかりで、そのほとんどを聞き漏らしてしまった。

 あの場所で私が知覚した事は幻覚なのだろうか。いずれにせよ脚は未だに治っていないし、宿にも辿り着けていない。道の途中に何か道標があったような気がしたが、手元の光源が乏しいために凝視できなかった。鬱蒼とした森が広がる中を突っ切って行くと目の前には地面が存在しなかった。両脚は立ち止まってくれなかったし、あまりにも突然の事で身動きが取れなかった。

 ――そう言えば旅人が近くに崖があったと言っていた事と、今度は千尋と形容される程に深い絶壁である事に気が付いたのは、自由落下を始めてからの事である。

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中継点 一ヶ村銀三郎 @istutaka-oozore

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