第39話 逃走

 部屋に入ってすぐ、アッキちゃんはウィッグを外しながら、「安いビジネスホテルみたい」と言った。

 安いビジネスホテルというものを知らないけれど、アッキちゃんが言うならそうなんだろう。

 真っ白なシーツのかけられた、そっけないベッドが二台並んだだけの部屋には、見張りがついている。

 舞火の式神の蝶と、部屋の外に立つ男がそれだ。

 

 アッキちゃんのウィッグから離れた赤い蝶と、あたしの頭から離れた赤い蝶が、部屋のなかをカラスが遊ぶみたいにして戯れて飛ぶ。螺旋らせんを描いたかと思うと、ひらひらと落ち、それからまた天井へと上っていく。

 電灯で焼かれてしまえばいいのに、と忌々しい気持ちでそれを見つめた。


「ご用があれば、お申し付けください」


 と言ってきた無骨な大男が、今も部屋の外で仁王立ちしているだろう。

 例えば「ハニーバターミックスナッツを頂戴ちょうだい」なんてご用を申し付けても、目を白黒させそうな感じの男。あるいは、トイレについていって聞き耳を立てるか、逃げようとしたあたし達の腕を折るかくらいしか能がなさそうな感じでもある。

 トイレに関しては部屋につく前に一度あたしが行ったので、感じっていうより、事実そう。

 

「儀式を待つしかないのかな。セーマンの看板になんて、なりたくないな」


 窓から紫に染まる空を見上げて、アッキちゃんが言った。完全な夜に切り替わる前の、一瞬の空の色。

 引き寄せられるみたいにして、隣に立つ。

 窓は開くけれど柵がついていて、脱走は出来ない。

 構わず窓を細く開けると、磯の香りを乗せたぬるい風が吹き込んできた。


「大丈夫。連中の思い通りにはさせない」

「あたし、もえとは離れたくないよ?」

「うん、離れないよ。だから――」


 右腕をアッキちゃんの目の高さまで掲げて、浮かび上がったアザを見せた。


「イヤかもしれないけど、力を使わせてね」

 

 紫色の毒蛾を三匹、放つ。蛾のうちの一匹は風に煽られてブサイクに部屋のなかを羽ばたいたあと、ドアの下の方にそっと張り付いた。

 あとの二匹は、ベッドのシーツに大人しくとまった。それだけの動きでも、おぞましい鱗粉が白いシーツに散る。

 アッキちゃんが小さく息を飲んだ。

 

「もえは黄泉返りじゃないんだから、無理はしないでね」

「ちょっとの無理はしてもいい場面じゃない? あたし達の未来のためにね」

 

 そう答えて、見つめ合ったときだった。

 階下から騒がしい音が響いてきた。


「ああ、始まったみたいだね。アッキちゃん、一服しておいたらどう?」

「部屋で?」

「そんなの気にする? 教団の本部施設がどうなっても、知ったこっちゃないでしょ」

 

 それもそうか、と呟いたアッキちゃんが、ライターを取り出して煙草に火をつける。

 そのライターを借りて、あたしはベッドに止まった二匹の蛾の羽根に、ライターの火を近づけて――燃やした。

 腕のアザに鋭い痛みが走る。


「な、なにしてんの?!」

「いいから、見てて。赤い蝶は、物理的にあたし達を追うことしか出来ないショボい式神。追い払うには物理攻撃で十分っていうのは、傘で払った時に分かった」


 心配げなアッキちゃんをよそに、あたしは毒蛾を赤い蝶のもとに向かわせる。腕の痛みは好戦的な気分を煽るだけ。

 逃げ惑う蝶を、炎を背負った蛾が追いかける。抱きつき、一緒に燃えてきりきり舞いをして、落ちる。

 一つ目の塊は床に落ちた。もう一つはシーツの上に落ちた。

 火種がシーツのうえで赤々と光り、穴をあけていく。これはきっと長くくすぶる。

 

 ぼうっと顛末を眺めているアッキちゃんの持つ煙草から、灰が落ちる。

 セーマンに用意された部屋が少しずつ、火に汚されていくのが愉快だ。


「ね、それ吸い終わったら、準備するよ」

「あ、う、うん」

 

 怒鳴り声、物が割れる音、なにかが壁にぶつかる音、また物が割れる音、階段を駆け上がる足音とそれを止めようとする声……。

 様々な音がうねって、こんがらがった蛇玉へびだまみたいになって近づいてくる。

 

「来たみたいだね」


 あたしの言葉と同時に、ドアが開いた。


「おい! お前ら出……ろ!?」


 毒蛾が男の顔面に張り付いた。

 男は自分の顔を叩いて蛾を潰そうとするが、蛾はたくみにその手をかいくぐって飛んでは、別の場所にとまる。鱗粉に侵された男の皮膚が腫れ上がり、男がくにゃくにゃと悶えはじめる。


「行こ!」

「行くって、どこ?」

「とにかく着いてきて!」


 アッキちゃんの手から取った煙草を、消しもしないで部屋に投げる。

 それから手を取って、男の横をすり抜ける。男が何か叫ぼうとしたところで、大きくせた。

 振り返りはしないけど、おおかた蛾が喉に飛び込みでもしたんだろう。男の喉ちんこが腫れ上がろうと、あたし達には関係ないことだ。

 階段では複数の人間が争っている気配がある。

 部屋を出て、建物の中心にある階段とは逆に走る。トイレがある。ちなみにトイレのとなりにランドリールームがあるっていうのも、確認済み。誰もいないランドリールームを、ちょこっと覗いてみる。

 

「もえ! なにしてんの? 逃げなきゃ!」

 

 トイレの窓を開けたアッキちゃんが、声を掛けてくる。

 窓は、一人ずつなら通れる。そして窓から飛び降りれば、建物の裏に出られる。

 飛び降りたあとで目指す場所は――決めてある。

 問題は、あたしが無事飛び降りることが出来るかってことなんだけど。


「もえ、大丈夫?」


 アッキちゃんが窓の下を覗き込みながら、言う。

 

「ここまで来たら、やるしかないじゃん」


 そう言ってあたしも窓の外に頭を突き出す。

 襟元から夜の空気が忍び込んできて、そう言えば自分は入院着のままだったんだって思い出す。

 衣服の布地なんか大した防御力もないんだけど、気分の問題。膝が震えるくらいには、緊張している。


「もえ、あたしが先に飛び降りるから。地面じゃなくて、あたしの伸ばした手を見るんだよ。そうしたら、意外高くないって思えるから」


 そう言って、アッキちゃんが窓に足をかける。


「うん。ビビってる暇なんて無いからね」


 あたしの言葉を待たないで、アッキちゃんがひらりと飛び降りる。海にただようくらげみたいに、白髪のショートヘアが闇に沈んでいく。

 全身白っぽいアッキちゃんが、夜の庭に着地する。上から眺めていると、海にうつった月を覗き込んでいるような気分になる。

 あたしにむかって伸ばされた白い手を取るために、水面の月に飛び込むみたいにして窓から飛び降りた。

 飛ぶ瞬間は、アッキちゃんの言った通り、高さを感じずにいられた。

 

「いったたたた……」

「も、もえ……?」

 

 足の裏での着地には成功したものの、下からあがってくる痺れにうめいた。

 飛び込んだ先は水なんかじゃなくて硬い地面なんだって、膝に受けたダメージで実感する。

 とは言え、アッキちゃんをおろおろさせている場合じゃない。

 

「……こだ! 探せ! 間抜けどもが!」

 

 背後の建物からマキ論の声が聞こえてくる。

 建物から漏れる明かりから隠れるように、アッキちゃんの腕をとって身を低くする。

 

「走ろう」

 

 そう言うと、アッキちゃんの白い頭が縦に揺れた。

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