第218話 土と蜘蛛(6)

 水色の光を浴びるアワ蜘蛛ぐもの身体は、傷が消えるのと同時に姿までが変わっていった。

 

「わっ、みなも、蜘蛛の姿が変わったよ」


 実菜穂みなほが瞳を大きくして驚くと、陽向ひなたかすみ琴美ことみも同じような表情をしていた。大蜘蛛の姿は、人の姿になっていた。キレのある深い瞳と整ったまつ毛が美しい顔立ちを印象づけた。髪は腰まで長く垂れており、黄色の着物に黒い髪が美しく見えた。歳の頃ならば二十代前半の青年である。


「アワ蜘蛛とはよく言ったものじゃな。実菜穂、これは神じゃ。長きにわたり呪を受け、蜘蛛の姿に変えられておった。あわの神じゃ。土の神のしもべの真の姿じゃ」


 自分の姿がもとに戻ったことを知った粟の神は、身体を見みながら、自分の顔を撫でていた。


「呪がとけた。もう二度と戻ることはないと、思っていたが‥‥‥」


 震え、涙を浮かべる粟の神を、みなもは、表情を崩さずに見つめていた。


「感慨深いところ、邪魔をするが。お主には、二つしてもらわねばならぬことがある。一つは、ゆうの御霊を死神に引き渡すこと。一つは、詩織しおりが御霊を奪われたわけを話せ」


 みなもの表情からは、笑みが消え、微かながら怒りを持った瞳をしていた。いつもの、みなもであれば、哀れ、慈しみ、憂いを持った安らぎのオーラを纏っているのだが、このときばかりは違っていた。何に怒りが向いているのか、実菜穂は、まだ分かっていなかった。だが、確かにみなもは、怒っているのだ。実菜穂にとって、初めて見るみなもの姿だった。


 みなもの瞳を見ながら、粟の神は優の御霊を胸から取り出すと、死神に差出した。死神は御霊を受け取ると、胸当ての中にそっと仕舞い込んだ。


「次じゃ。なぜ、詩織の御霊は奪われたのじゃ。その前に、奪った者じゃが、あやつが、大鉤おおかぎであろう。ハゲワシの神にして、沼の神から再び生を受けながら、随分ずいぶんひねくれておったのう。それも、かなりの邪気を含んでな」


 みなもが短冊を取り出すと、床にピッと放った。短冊はコールタールのように黒光りしながら、ドロドロの状態になって朽ちていた。


「大鉤は、儂が詩織の前に張っておった予防線を簡単に切り割いて、御霊を奪っていきおった。そのあとに残したのが、この恨みの塊じゃ。こやつ、本当に神か」

「お前の水の気がそこまでけがれるなど、いままで見たことないぞ」


 火の神が、朽ちた短冊を見ながら、みなもを心配してアチコチ眺めて無事を確認していた。みなもは、火の神を制するように粟の神の方にスルリと寄った。


「火の神、構うな。儂は何ともない。さあ、粟の神、話してもらおう」


 みなもの言葉に、粟の神は全てを語った。粟の神は、穀物こくもつの神であるオオゲツヒメが、天上神の誤解からから殺されたことにより、その体の一部から生まれた神であった。地に落ちた粟の神は、天上神から逃れるため、隠れていたところを土の神により、助けられた。以来、土の神の僕となった。土の神が孫であるハスナの神に代わっても、粟の神は僕としてついた。


 大鉤おおかぎは、一度はナナガシラを護る巫女たちにより討たれた。そして、囚われている沼の神により、再び生を受けた。生まれ変わったときは、人の為に尽くそうと尽力したが、人は、生まれ変わる前の大鉤の人への仕打ちを知っており、決して許さなかった。人に嫌われた大鉤であったが、唯一ゆいいつ、優しく接する者がいた。ハスナの神である。天上神のしもべと地上神から生を受けたハスナの神は、同じ境遇の大鉤をいたわった。大鉤がハスナの神に惹かれるのは、不思議ではなかった。だが、ハスナの神は大鉤の好意を受け止めることはなかった。天上神の呪いから人を護るために、ハスナの神は、自らを犠牲にしたのだ。このことに大鉤は、驚愕した。そして、愛情は嫉妬と憎悪に代わり、人とハスナ姫へ向けられた。ハスナ姫は、捉えられ、その御霊は裏鬼門うらきもんを護る六柱に分けられたのだ。粟の神もそのときに呪をかけられ、蜘蛛の姿に変えられた。


 その後、大鉤はナナガシラから姿を消した。次に姿を現したときは、右眼を失い、無数の傷がある身体と醜悪な瞳になっていた。


「私は、ハスナの神の力を取り戻すために、巫女となる者を連れてきた」

「それは、分かっておる。じゃから、れんにお主から、土の神の巫女を離すよう、頼んだのじゃ。お主、漣に会っておろう。お主が、この場に詩織を連れてこなければ、こうはならぬ」


 みなもの重く研ぎ澄まされた声が、体育館に響いた。ここにいる人と神は、まるで監督から注意を受ける選手のように固まって声を聞いていた。


 みなもの言葉は、人の命、人の御霊が無残に奪われようとしていることに対して、神に放たれていた。実菜穂、陽向、霞はおろか、火の神、シーナまでが身を固くした。


「申せ。人に呪をかけてまで消そうとしているのに、神の御霊を奪い、何ゆえ人の御霊まで奪ったのじゃ」

「理由は、この地の秘密を守るため。お前たちを消すためだ。ハスナの神の御霊をもつ六柱は、その巫女の御霊を持つことで、対抗する力を持とうとしている。大鉤に襲われ、そのことに気がついた」


 粟の神は、深く悲しみの眼をすると、みなもの前に手をついて。


「全ては、私の責め」


 悲しみに暮れる粟の神を前に、みなもは、それ以上、言葉を続けることはなかった。


「ねえ、まって。ハスナの神の御霊は六つに分けられているのよね。詩織ちゃんの御霊も、同じようになるの?」

「実菜穂さん、それはどういうことですか?」 


 実菜穂が口走ったことについて、霞は意味が分からずに聞いた。


「あっ、神様の御霊は、どうなのかよく分からないけど、人の御霊なんて分けたら元に戻せるのかなって思って」

「神の御霊はアサナミの神によって、欠けている所がなければ戻せます。ですが、人の御霊はユウナミの神の力をもってしても戻せません。人の御霊はそれほどもろいのです」


 実菜穂が慌てて説明すると、琴美が静かに目を伏せて答えた。神にとっては、周知のことなので、この場で驚いたのは実菜穂、陽向、霞であった。


「そんな。じゃあ、詩織さんは、もう戻らないの」


 実菜穂が叫んだ。このとき、みなもが怒っていた理由が分かった。


(みなもは、これを見通していたんだ。詩織さんが、目覚めることがないかもしれないことを、あのとき感じていたんだ)


 実菜穂が呆然とするなか、虚無の時間が体育館を覆った。



「大丈夫ですよ。御霊は、元に戻せます」


 虚無の時間を祓うように、破られた扉の方から声が聞こえた。

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