第178話 巫女と鬼(4)

 実菜穂みなほとみなもが、川の地を歩いている。土手を通り、診療所を過ぎて行く。


「実菜穂、ちと待っていてくれるかのう」


 みなもがスッと診療所へと向かった。


「みなも……」


 実菜穂は話したいと思いながら言葉にできずにいたが、みなもが先に動いた。


 みなもは、診療所の前に立つと建物を見上げている。ただそれだけなのであるが、実菜穂の眼には、ここで無残にも命を奪われた人の思念がきよめられ、光を取り戻していく光景が見えてた。


「行こうかのう」


 実菜穂は「うん」と頷き、みなもの横について歩いた。


 みなもは、何も変わっていない。川辺の祠に迎えられたときから、明るく、美しく、頼もしく、そして何より優しさが溢れていた。いまもそうだ。診療所で無残に命を奪われた御霊の想いのことを、実菜穂は相談したいと考えていた。それを当たり前のように汲みとり、サラリと行動するのだ。


(みなもは、私が考えていなくても、きっとこの診療所を気にかけただろうな。私は、みなもの役に立つ巫女になれるだろうか)


 実菜穂がチラリとみなもを見た。みなもは、真っすぐ前を向いて歩いている。実菜穂の視線に気がついたのか、実菜穂と眼を合わせた。その眼は、神のものではなく、一人の少女のものであった。


「実菜穂、気にするでない。お主が側にいることで、儂は心強い」


 みなもの言葉が実菜穂を奮い立たせ、笑顔に変えた。


(やっぱり、みななもは変わっていない)


 実菜穂とみなもは、川の神のやしろに着いた。


「神はおらぬな。鬼門きもんは、この社の裏手じゃな」


 みなもが鳥居をくぐり、社の裏にある小道に入った。鬼門を前にして、みなもは足を止めた。


「実菜穂、鬼門に入る前に申しておく。お主はわしであり、儂はお主じゃ。儂のもてる力は、そのままお主に宿っておる。あとは、お主の心持次第じゃ」


 みなもが、ほんの僅かだが笑みを見せた。実菜穂は、その意味をすぐに理解した。


(みなもは、巫女になれば「神にも悪鬼あっきにもなれる」と言った。だけど、私はどちらも選ぶつもりは無いよ。だって、私は、みなものために巫女になったのだから)


 実菜穂がみなもに笑みを返した。


「まいろうか」


 みなもが鬼門に入ると、実菜穂があとに続いた。


 鬼門のなかは水が流れているような空間が広がっていた。ユラリと視界が揺れるときがあり、川や流水プールに潜っているときのような感じである。


 みなもが足を止めた。


「どうやら、出迎えておるようじゃ。実菜穂、あそこにおるのう」


 みなもが見つめる先を実菜穂も目を細めて見てみた。らぐ視界の中に影が浮かび上がると、その姿がはっきりと見えてきた。

 見かけは青い肌を持つ鬼そのものの姿だった。ただ、その肌にはうろこのような模様があった。川の鬼門を護る鬼というイメージに合う姿といえば、頷けた。


「実菜穂、あやつ土の神の御霊を持っておるぞ。ちょうど胸の真ん中じゃ」


 実菜穂は鬼の胸に注目すると、小さく金色に光る部分を見つけた。


「あれが、土の神の御霊なの?」

「そうじゃ。この地を治める天上神ともあろうものが、やってくれたのう」

「なんて酷い。みなも、あそこに御霊があるってことは、土の神は、御神体があってもよみがえれないってことよね」

「そうじゃ」

「じゃあ、私があの御霊を取り返せばいいんだね」

「頼めるか」

「もちろん。それが、みなもの願いなら」


 実菜穂が頷くと、鬼の方に歩いていく。


「なぜ、あなたが土の神の御霊を持っているのか分からないけど、早々に返してもらえますか」

「私に言っているのですか。どこの巫女が来たのかと思えば、よその地のまだヒヨッコな神ではないですか。この川の地に太古たいこからいる私の前によくも乗り込んできたものです」


 鬼がゆらりと立っている。距離は50mほど離れているが、実菜穂の眼にはしっかりと土の神の御霊が捉えられていた。


「いまからこの鬼門を封じます。その前に御霊は返してもらいます」

「大口はそこまでです」


 鬼が地面に手をかざすと、濁流だくりゅう轟音ごうおんとともに実菜穂を目掛めがけて襲ってきた。凄まじい勢いに押されながら、実菜穂が足に力を入れてグッと耐えた。油断すれば足元をすくい取られ、そのまま濁流にのみ込まれてしまうだろう。そうなれば、命はない。


(駄目だ。足が取られて抜け出せない)


「ふん。大したことありませんでしたね。これで終わりです」


 鬼の声とともに濁流から巨大なナマズが姿を現すと、大口を開けて上から実菜穂を飲み込もうとしていた。


 実菜穂は動くことができず、見上げた瞳に襲い来る大ナマズを映すだけであった。 

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