第71話 風と言葉(7)

 霞は緑の神を抱き抱えると、瞬間移動でビルの外に出た。街の光がほぼ消えかけた夜とも朝とも言えぬ時間に、微な光が霞たちの陰を映していた。


 緑の神は霞の行動が理解できぬまま抱き抱えられている。ただ、霞が痛みや苦しみを与える意志がないことは感じていた。


(大丈夫だよ。大人しくしてて、わたしが今までで一番感動したものを見せてあげる)


 緑の神を抱き抱えて霞は空に向かい飛び出していった。霞の姿を青の神はフロアから見通し、想像もしていないとばかりに声を上げた。


「ありえません。私の作った壁を人が通り抜けました。たとえ神でもそう簡単には越せるはずがないのです」


 霞のオーラを感じとりながら実菜穂が天井を見上げる。美しい緑色のオーラが空に昇るのが見えていた。そのオーラは、霞の強さと優しさが込められた光を宝石を散りばめるように空へと昇っている。


「霞ちゃんは風の神様の巫女。聞いたことがあります。風はひとたび吹き荒れれば全てをぎ払い破壊する。けれど優しく吹けば作物の豊穣をもたらし、夏を和らげ、春を呼ぶ。強さと優しさを持った神様。それが風の神様。その神様の巫女ならば、緑の神様に言葉を与える手段を持っている。霞ちゃんは、強さを優しさに変えてその手段をとったのです」

「強さを優しさに変えてですか。手段ですか」

「はい。霞ちゃんは、陽向や私よりも強いのです。人であれば痛みや苦しみから逃れたい。たとえそれが他の者を傷つけることであったとしても、それでも逃れたいのです。だけど、霞ちゃんはそれを選ばなかった。そこに苦しみの元凶を見たから。その元凶を消さぬ限り負の連鎖は永遠に続く。違いますか」


 実菜穂の瞳は潤いをたたえ、水色の光を放っていた。青の神は実菜穂の顔から視線を逸らさずにいた。


(陽向が姉に光を与えたこと。霞が私が築いた壁を越えたこと。どれも驚くことです。これほどの力を持つ巫女がいるとは想像しなかった。だけど何より驚くことは、実菜穂という巫女の力。いったいどこまで見通しているのでしょう。この瞳の光は、キナと同じ輝きを感じます。とにかくいまは、霞を見守ることにしましょう)


 青の神が空へと意識傾けると、実菜穂も天井を見上げた。



 霞の身体の限界はとうに超えていた。眼もろくに見えない。微かに色を感じるだけだった。気力だけで動いている状態だ。だが、その状態も長くは続かなかった。息が切れ、飛ぶ気力も尽き、降下を始める前に宙で止まるその瞬間、霞の背の肩口が美しい緑色の光に包まれ、大きな白い翼が現れた。翼が左右に伸びて一回羽ばたくと落ちかけていた身体が上に向きを変え加速をして上昇を続けた。


◇◇◇


「ほーう。風の巫女の姿じゃな。風が巫女をとることも珍しいのじゃが、その巫女が神霊同体もせずに風の姿に成るのは見たことも聞いたこともないのう。お主、霞がこうなるのを見越しておったか」


 みなもが空を昇る霞を眼で追いながらシーナに問う。シーナは瞳を大きく開き、霞の美しい姿に口を震わせた。さらに、足はいまにも飛び上がろうとグッと地面を踏みしめている。


「霞が・・・・・・霞は何をするつもりよ」

「分からぬのか。お主、霞に何を与えた。霞が風の巫女になるのに、何を与えたのじゃ」

「力・・・・・・いえ、違うよ・・・・・・世界。青の世界。まさか!?」

「まさかじゃ。お主が見せた青の世界。その世界こそが霞が巫女になる切っ掛けじゃ。お主からもろうた感性を緑の神に与えるつもりじゃ。いまの霞が青の世界に行けば、どうなるか。簡単に想像がつこう」

「世界を越える!?無理よ。世界の壁を越えるには莫大な力がいるのよ。あの状態で行けば霞が保たないよ。どうして霞は」

「それじゃ!己の身を可愛がる者もおる。じゃが、己の身と引き替えに他の者を助けようとする者もおる。それが人というものじゃ。霞はその人なのじゃ。神のままの考えでは、分かるまい。霞の身体はとうにまいっておる。たとえ世界の壁を越えたとしても、戻るときは無事ではあるまい。『行きはよいよい。帰りは怖い』じゃ」

 

 みなもの視線がシーナへと移された。みなもの顔は覚悟を問うものであった。みなもの瞳の光を受け、シーナは自分の疑問が自分に問われていることに気がついた。


 巫女をとる覚悟。人と関わること。その答をシーナは考えていた。


◇◇◇


 霞がグングンと空に昇っていく。上昇する霞の姿はまさに天に舞う風の巫女であった。美しい白い翼が風を切り、まっすぐに大空を駆け上がっていく。緑のオーラが天へと向かい伸びていく。それはまるで道しるべのように霞を運んでいった。そのオーラが霞たちが存在していた世界とは別の世界に導いた。人ではけしてたどり着くことができない世界、いや、神でさえ力の低い柱では見ることができない青の世界。いま、人である霞が世界の壁を越えてたどり着いた。


(ああ、この色だ)


 満足に見えない眼であったが、霞は青の色を全身で感じていた。

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