第72話 風と言葉(8)
霞は青の世界にたどり着いていた。
世界と世界には繋がることのない壁がある。人であれ物の怪であれ、簡単にはこの壁を越えることは出来ない。この壁を越えるには、シーナが言ったように莫大な力が必要であった。例えるならこの壁は激流すさまじい大河である。神でもないものが世界を超えることは、大河を橋や船を使わずに泳いで渡るようなものである。いま、霞は風の巫女の力を振り絞り、青の世界へと渡ったのだ。
空の青色が一面に広がる世界。光が美しく透き通ってどこまでも見渡すことができた。シーナに見せてもらった青の世界。色だけではなく、空気も音も感覚も全てが無に収縮し、際限なく拡散していく感覚。生まれ変わるという感覚がこの世界にはあった。ならば、この世界は何のためにあるのか。その理由は簡単なこと。人が存在する世界を創るまでにいくつも創られた世界の一つである。いわば、神が作った世界の試作品なのだ。ただ、この世界が失敗か完成したものなのかは、いまとなっては分からない。
(ああ、これだあ。この心が洗われるような気持ち、全てを越えたような気持ち。ここに来ることが出来ただけで、わたしは幸せだ)
霞の瞳から涙が溢れ、滴は緑の神の頬へと落ちた。だが、既に緑の神の頬には濡れた跡があった。瞳は青の世界を見つめ続けている。姿そのものが青の世界に取り込まれていくような感覚が緑の神を優しく包み込んでいた。
風がフワリと吹き上げ、熱くなっていた肌が冷めていく。恐怖で固まり、傷ついていた御霊は青の色と優しい風に揺り起こされ、癒されていった。
霞が温かく緑の神を抱きしめる。もう、感覚すらなくなった腕に緑の神の腕が重なる。癒されていく御霊に霞の温もりが加わると、緑の神の口のベールがハラリと剥がれていった。醜く口を塞いでいた髪の毛が消え、可愛らしい口が開いていく。
「きれい・・・・・・霞、ありがとう」
その言葉が霞に聞こえていたのか分からない。霞を苦しめていた首巻の絞めつけは治まったが、もはや霞の意識は無かった。
フラリと後ろに倒れていくと、そのまま真っ逆さまに降下をしていった。
◇◇◇
「霞が青の世界から落ちる。とうに意識はないぞ。このままだと壁を破るときに霞が消し飛ぶぞ」
みなもが空を見上げ眼を光らせた。
シーナが瞳を輝かせ、なりふり構わずに飛び上がった。
「かすみーっ」
白い大きな翼を広げ、小さな身体が垂直に昇ると、緑色の流星となり空へと消えた。
「やれやれ。『三人で危機を乗り切れ』と言い出しっぺが真っ先に行きおった。じゃが、死神のほうが早いの」
みなもが纏かけた羽衣を消すと、火の神に苦笑いを投げかけた。
(おまえが真っ先に助けに行くつもりだったか)
火の神も苦笑いで返した。
「おまえ、ここに来たときからこうなることが分かっていたのか」
火の神の言葉に、みなもは頷きも首を振ることもなかった。問うまでもないことである。みなもの反応で全てを見通していたこと、この建物がなぜ不遇な状態にあるのかその理由は分かっていたのだと火の神は自分で納得して頷いていた。
「卯の神は地上神じゃ。それなのに放浪神とはいえ、なぜ龍の神が従っていたかじゃ」
「龍の神は天上神。力をなくした理由が卯の神に関係があるのか」
「直接ではないが、元凶は同じであろう。神、邪鬼、人が同じ場所にいるのじゃ。ここを祓えば、理由もわかるじゃろ」
みなもが見上げる空には、緑と紫の流星が流れていた。
◇◇◇
霞の身体が加速して落ちていく。意識はないが、緑の神を全身で庇いながら流星のように流れ、止まることない勢いで青の世界の壁に身体が触れる寸前、柔らかい白い手が霞の身体を受け止めた。
燃え尽きるほどの勢いで流れていた霞は紫色の光に包まれた。光のなかで、意識がない霞の唇にもう一つ唇が重なっていく。潤いのある
小さく柔らかな腕に抱き抱えられ、霞が唇を合わせたまま壁を突き抜けていく。緑の神は二人に包まれて護られていた。
(あれ、何だろう。私、まだ生きている?感覚も何もないけど。何だろう色が見える。柔らかい紫色。可愛い色。それに甘い香・・・・・・)
シーナが青の世界の入口にたどり着くと、世界の壁を通り抜ける光を見つけた。その光が徐々に輝きを静めていき、霞を抱きかかえた少女が姿を現した。
「あなたは死神の巫女。琴美!」
シーナの前に現れたのは琴美であった。
琴美は一年前に自分の居場所がこの世界に無いことに失望し、自ら命を絶とうとしたときに死神と出会った。死神は交換条件として、琴美の願いである姉の真奈美が迎えに来ることを叶える代わりに、死神の巫女になることを持ち掛けた。琴美はこれを承知して御霊を死神に預けた。その御霊を取り戻すために実菜穂、陽向、真奈美の三人が奮闘したのがつい一月前のこと。願いが叶ったことから、琴美は死神の巫女となったのだ。
この場に突如現れた死神の巫女を警戒するシーナに、琴美は髪を束ねている大きなリボンが見えるほど深々とお辞儀をして敬意を示した。琴美の瞳に偽りのない思いを感じたことから、シーナは瞳を光らせて応えた。
この場の振る舞いについてシーナの許しを得たことを理解した琴美は、紫色の大きな美しい蝶の羽を広げるとビルの方へ飛び立っていった。
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