第6話 風の神と濡れた服(5)

 天高くまで舞い上がっていた霞の身体はみるみる落ちていく。だが、気持ちは高揚していた。怖さなどはなかった。頭が下になり、飛び込みのように下降していく。尋常じゃないスピードだ。本当ならゴーグルでもしていなければ、目など開けていられるはずないが、視界は良好で、呼吸もできている。風が身体と一体化しているように感じる。画面が拡大されていくように学校が見えてくる。屋上が目の前に近づくと、フワリと足下から降りた。あれほどのスピードで降りる、いや、落ちてきたはずなのに何事も無く平気で屋上に立っていた。


 当然、屋上には誰もいない。いまは補講の時間であるし、何より屋上の扉は施錠されており、勝手に出入りできないようになっている。霞がゆっくりと歩くとあたりの空気が渦を巻き、風となって埃を祓い足下を清めていった。フェンスに手をかけると運動場が見える。トラックのラインやバックネットのフェンスが夏の日差しにさらされていた。


(あれ、不思議。なにかいつもと違う色に見える気がする。何だろうこれ。暑さのせいかな。分からないけど、空気が見えている感じ)


 霞の見ている景色は、いつもの運動場であるはずなのだが、少し違和感があった。色を感じるのだ。見えている景色の細部にいたる色が全て違って見える。表現が難しいのだが、景色の中の全ての部分に同じ色を認識できないのである。例えば、グランドのライン一つを見ても白は白なのだが、粒子の一つ一つが同じ白ではない。それを感じているのだ。


『霞は、やはり感がいいね。そう、霞はいま私の眼で世界を見ている。全てを識別できる眼。神の眼だよ。もっとも、これはわたしの力の一つだけど』


 頭の中でシーナの声が響く。


「シーナ、神様だったの」

『えーっ、言わなかった?わたしは風の神、級長戸乃女神しなとのめかみ。風神て呼ばれたりもするよ」

「風神様!?えーっ、シーナ、わー」


 霞が急に慌てふためきオロオロ飛び跳ねる。


『こら、静まれ。いま、わたしと霞は一体となっているんだ。見苦しい』


 シーナの声とともに霞の心は落ち着いていった。呼吸が整い、シーナを受け入れていく。身体の奥に静かでそれで心地よい気が満ちていく。明るく、爽やかで、それでいて無邪気で可愛い感情が押し寄せてくる。霞はそれらを全部受け入れていた。


『霞、お試しついでにちょっと面白いことしてあげるよ。二度とあなたに逆らえないよう、さっきの子にお仕置きをしてあげる』

「えっ?」

『お試しよ。あなたを助けてあげる。神と人の違いを見せてあげる』


 驚く霞の声をよそに顔がニヤリと笑う。霞の瞳が緑色に輝いた。


 校舎には1時間目の補講終了のチャイムが鳴った。



早瀬はやせのやつ、授業出てこなかったね」

「出られるわけないっしょ。ずぶ濡れで思いっきり諸肌出してるし」


 女子トイレに笑い声が響く。霞をイジメていたグループだ。他の生徒はとばっちりを受けないようトイレを出ていく。


「早瀬、帰ったのかなあ」

「案外そのあたりで泣いてたりして」

 

 女子の笑い声が漏れる。そのカラカラと響く声に明るい声が応えた。 


「あっ、分かる~」


 声とともに使用中だったトイレのドアが開く。グループの一人が開いたドアを見て、「ゲッ」と唸った次の瞬間、五人はずぶ濡れになった。個室には霞がバケツを持って立っている。驚く女子に向け、水をぶちまけたバケツを投げつけた。

 プラ製のバケツは壁に当たると破裂音とともに粉々に砕けてしまった。悲鳴を上げる間もなく風が辺りを吹き抜けていく。


 五人と霞の姿は消えていた。

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