第5話 風の神と濡れた服(4)

 シーナは霞の顎を軽く持ち上げると瞳を合わせた。シーナの緑色の世界に取り込まれていく自分を霞は感じていた。逃げようとは思わない。なぜかは分からないが、あえて言えばシーナが見せる世界に引き込まれ、包まれていくことを本能が求めているのだ。淡い緑色に光り輝く風、それを一身に受けている瞬間が何より心地よかった。うっとりと見つめる顔をシーナは優しく撫でながら、スルリと霞の手をとった。


「ちょっと、試してみようか」


 悪戯な笑みを見せると、トイレの窓が全開になり風が通り抜けていった。シーナの身体がフワリと浮き上がり、手を繋いでいる霞の周りにも風が集まってきた。霞の髪が風で逆立つと同時に身体がゆっくりと押し上げられていく。


「えっ、えっ。なに!!!!!!」


 霞が驚きの声を上げながら周りを見渡していくうちに、身体は完全に宙に浮いた状態になった。自分がどうなっているのか分からないという表情でシーナを見ると、シーナはニヤリと笑った。


「いい調子。ねえ、絶対に手を離さないでよ」


 シーナの声に霞は「えっ」という顔をしたが、すぐにウンウンと頷いた。それが合図とばかり、シーナは窓から外へと霞を連れ出していく。あまりの速さに霞はどうなったのか分からなかった。ただ、一気に青い空に向かっているということは理解できた。まるでおとぎ話の主人公に連れ出された少女のように、手を繋がれ空へと昇っているのだ。足下に目を落とすと校舎どころか学校の敷地、いや、あたり一帯を見下ろすほどの高さにいた。一瞬、背筋がゾォーッとしたが、シーナが楽しそうに飛び回る姿が目にはいると、なぜが霞自身も楽しくなっていた。怖いのに楽しいのだ。


「じゃあ、行ってみようか」


 シーナはかけ声とともにさらに上昇していく。到底、人では耐えられるはずのない環境であるのに霞は平気であった。足下は、もはやどこが学校なのか一目では分からないほどの高さにいる。青の世界、雲一つない天に霞は立っている。光、音、香、空気、風の感触、五感がアンテナを張り出すように敏感いなっていく。


(気持ちいい。この世界、好き)


 頭の中がスッキリとしていく。全ての嫌な思い出が飛ばされていく。


「霞、この世界を思いのままにさせてあげる。あなたの思いのままに人を支配する力を与えてあげる。霞に逆らえる人は誰もいない」

「それは・・・・・・」


 霞は足下の世界を見つめた。誰の手も届かぬ場所から見つめる小さな世界。自分がそこで何を悩んでいたのかすら忘れてしまうほど、今はイジメられていたことはどうでもよくなっていた。青の世界が霞の心を落ち着けていた。


「私、どうしていいのか分からないよ。でも、いまの感じ好きだよ。なんだか今までのことがくらい好き。人がどうのって、正直、どうでもいいかな。シーナ・・・・・・私はどうすればいいの?」


 霞は自分で何を言っているのか理解できなかった。ただ、青の世界に立ち、五感を伝わり湧き上がってきた思いをそのまま口にしていた。


「いいね!『どうでもいい』その言葉、私もけっこう好きだよ。やっぱり、霞とはわたしは合うのかもしれない。やってみようか。どうしたらいいかって?じゃあ、この言葉を言って。『神霊同体しんれいどうたい』」


 シーナが手を取り向かい合って口を開ける。霞はその言霊の響きを真似ていく。


「し ん れ い ど う た い 」


 目の前にいたシーナの姿が消え、霞は青の世界からスッと力が抜けたように落ちていった。

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