第4話 風の神と濡れた服(3)

 霞は顔を上げた瞬間、驚きのあまりり、おもいきり壁に頭をぶつけてしまった。


(イタイッ!えっ、夢じゃないよ???私いま何を見た?)


 頭の中が混乱していた。さっきまでの理不尽な仕打ちも吹き飛ぶほどの衝撃である。もう一度見ようとする勇気はなかったが、現実ではあり得ないという考えが霞に顔を上げる力を与えた。霞の目に映ったのは、紛れもなく女の子である。女の子が隣の個室の壁を乗り越え、頬杖をついて霞を見つめているのだ。淡い緑色のフワットした髪と大きな瞳、口元に笑みを浮かべ霞を見下ろしている。しかも身につけているのは淡いオレンジ色のセーラー服。そう、城東門高校の制服だ。容姿もそうであるが状況も現実にはあり得ない。なんせ宙に浮いているのだから、夢でなければ自分の頭がどうにかなったのかと霞は固まった。


(これは、夢だよね。そうだ、きっと全部夢なんだ。あー、なーんだ早く覚めれば)


 霞が安堵の表情を浮かべると、さきに殴られた頬に痛みがはしった。


「やっぱ、痛い!」


 びっくりして頬に手を当てる霞を見て女の子はプッと吹き出した。その顔は可愛く、そして爽やかな空気を運んだ。自分よりも年下に見える幼い笑顔であるが、なぜか腹が立つということはなかった。


「アハハ、おもしろい。いいなあ。好きだなあ、その抜けているところが」


 女の子が仕切を乗り越え、ゆっくりと霞の前に降りてきた。霞はまばたきすることなく見ている。女の子の緑色の瞳が包むように霞を眺めると、身動きがとれないまま瞳の光を受け入れていく。イジメていた女子の目つきとは違い、怖さなど微塵も感じない。それよりも、女の子の瞳の奥にとてつもなく広い世界を見ていた。どんなに駆けても『果てになどたどり着くことなどできない』と実感できる広々とした世界、風が吹き抜けていく緑あふれる世界だ。人ではない。さりとて怪物でも妖怪でも、ましてや幽霊でもない。目の前の女の子に霞は抗うことなく惹かれていくだけであった。


「良い子ね。すごく可愛いよ」


 女の子の言葉に霞はフルフルと首を振る。


(そんなこといままで言われたことがない。地味な髪型、とりわけ目立つことない顔。自分でも分かってる)


「可愛いよ。私が言うのだから間違いない。あなたは、もっと可愛くなるよ」


 女の子は霞の心の内を読み笑っている。


「ウソだ。誰も私なんか可愛いとなんか思ってないよ。他にたくさん可愛い子いるよ」

「他に?だれ?いたら教えて。私ね、見てきたのよ。色々な学校っていうところを。だけどね。あなたほどの光を持った子はいなかったよ。いたとしても先約ありだから。それでもあなたは負けてない。私、凄く好きだよ」


 女の子が霞の頬を優しく撫でる。フワッとした感触と同時に痛みが消えていった。


「これくらいの傷なら私にも治せるよ。それに」


 続けて霞の髪を一撫ですると、滴を垂らしていたずぶぬれの髪が瞬時に乾きフワリとボリュームのある髪型になる。頭が軽くなり髪もサラリとなった。破れて濡れたブラウスは何事もなかったかのようにもとどおりになり、すっかり乾いている。霞は固めていた手足の力が徐々に抜けていることに気がついた。少しずつ状況を理解する余裕が出てきたのだ。自分の足の先から腕、肩へと目を移していく。最後には目の前にいる女の子を見ていた。


「逃げもしなければ、声を上げることもない。逆に心を落ち着けていくなんて。やっぱり、あなたは良い子だ。私の名前は級長乃神しなのかみ。でもね、この名前、ちょっと堅苦しいからあまり好きじゃないの。シーナって呼んでもらえる」


 シーナの言葉に霞はゆっくりと口を開ける。


「シーナ?」

「やっぱり、あなたは良い子ね」


 シーナがは優しくも魅了的な笑みを見せた。霞はただその笑顔に見とれるだけであった。

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