第5話

 物の少ない家だが、リビングの掃き出し窓の周りにはアロエの鉢植え等の観葉植物が並んでいる。祖父母のもので、処分するにしきれなかったもののひとつらしい。きちんと世話をしているようで、とげとげの葉が生き生きと茂っている。

 先にソファに座って、見るとはなしにその観葉植物たちを眺めていると、ぐ、とソファが沈み込んだ。リモコンを手にした立原が隣に腰をおろしている。テレビの画面にはオンライン配信サービスを表示させている。


「眠くならないアクションでホラーといえば、ゾンビものが良いと思います」


 葉月が提案すると、立原がそのまま検索に文字を入力した。ゾ、ン、ビ。


「映画も良いけど、海外ドラマはどうですか。一日二話くらいずつ見ても二、三ヶ月かかりそうですが」

「そのドラマ、聞いたことありますけど、シーズン十作こえてません? 全部見終えるまで私、この家を出て行かなくなるかも」


 笑いに紛れさせて、つい試すようなことを言ってしまう。

 立原はリモコンを手にしたまま、ちらっと視線をくれた。


「それが目的。出て行けないようにしているんです」


 またもや、駆け引きせずに答えられた。


(胸が痛い。嬉しくて、好きになりそう。もうなってるかも)


「見終わる頃には季節が変わってそうです」


 動揺を押し隠して会話を続ける。立原は、かすかに小首を傾げて言った。


「この長さですから、そうでしょうね。その頃には大滝さんはもう、ゾンビ無しでは生きられない体になってしまっていればいいと思います」


 口の端をつり上げて笑ってから、シーズン1の一話目をスタートさせる。

 始まってしまえば、緊迫した画面の連続に、二人共無駄口を叩くこともなくなった。

 葉月は集中しすぎて、すべての動きを止めてのめりこむように画面を見ていた。やがて、静寂を打ち破るように大きな物音が響いた瞬間、悲鳴を上げてソファの上で飛び上がる。

 隣に座っていた立原の肩に肩がガツンとぶつかってしまい、はっと顔を見合わせたときには、何もかもが近かった。

 距離を置かないといけない。頭ではわかっていたのに、体がいうことをきかない。すがりつくように、腕に掴みかかった。

 立原のもう一方の腕が背に伸びてきて、軽く抱き寄せられた。


「恐がりなんだ」

「恐がりですよ! 怖いことや嫌なことがあったら、布団かぶってやり過ごすんです!」

「そう。それじゃあ今は俺が布団代わり。目を瞑って。シーンが変わったら教えるから、少しの間このままで」


 腕のあたたかさと重みが、背中に伝わってくる。

 ふわっとラベンダーのような石鹸の残り香が立ち上った。

 耳を澄ませて、テレビの音を真剣に聞いて、呟く。


「……長い」


 目を開けて見上げると、見下ろしてきた目と視線が絡んだ。立原は滲むような笑みを浮かべて言った。


「終わっちゃった」

「長いと思いました」


 会話はそれで終わるはずなのに、目を逸らせない。変に思われる前に何か言わないと。焦りかけたそのとき、立原が口を開いた。


「キスしても良いですか」


 キス。

 確認。


 冗談ではすまなくなる。いまのこの関係が、変わってしまう。

 悩んだのは数秒。

 背中にまわされた腕の感触がひどく心地よくて、それがすべてだと腹をくくった。

 はい、と掠れた声で答えて目を閉ざす。

 腕に力が込められて強く引き寄せられる。

 唇に、唇が触れた。


 やがて、葉月は立原の胸に腕を突っ張って、押しのける。

 腕の力はすぐに弱められて、唇も離れていった。


「大滝さん」


 耳元で囁かれたらもうだめだった。身を任せてしまいたいという衝動が強すぎて、咄嗟に葉月は立ち上がった。

 次の瞬間、手首を掴まれた。

 自分でも思いがけない動作だったのか、立原はすぐにぱっと離す。葉月はその手首をかばうように胸元まで持ってきて、立原を見下ろした。

 ドキドキと心臓が鳴っている。

 立原は自分自身の手首をもう片方の手でおさえながら、見上げてきた。


「俺は年上で、上司で、先輩で、男です。今は家主でもあって、行き場のない大滝さんにとってはものすごく逆らいにくい相手です。だから本当は、俺から何かしてはいけなかった」

「コンプライアンス的に」

「力関係を利用した形になりますから」


 しまった、という苦い思いが立原の顔にありありと浮かんでいる。

 キスしていいですかと聞かれて、はい、と答えた。その事実を葉月はしっかりと覚えている。成人女性として、自分の判断で受け入れた認識でいた。


(キスより先の覚悟がなかっただけで。立原さんに強要されたわけではなく、私の意志もきちんとあった。それが伝わっていないから、後悔させてしまっている)


 両手を伸ばして、立原の両頬を包み込む。上向かせて、額に唇を押し付けた。数秒そのままで静止。身を翻す。

 おやすみなさい、とだけ言ってその場から逃げ出した。


 その次の朝も、その次の日も、二人はその話題に触れることはなかった。

 決定打は数日後のことだった。

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