第4話
一晩だけのつもりが、思いがけず長引いた。
葉月と立原の間で情熱の炎が燃え上がったのではなく、美沙緒が完全に居直り、冴島と一緒に暮らし始めてしまったのだ。
「使うのは私の部屋だし、光熱費も家賃も今まで通りに払う。冴島さん、いま奥さんと不仲で家に帰れないんですって。追い出すわけにも行かないでしょう?」
因果関係が違う。
不仲の理由は二人の不倫だろうし、冴島は大の大人なのだから追い出して一向に構わない。
葉月はなんとか主張したが、美沙緒は一切聞き入れることなく、冴島も出ていかない。
結果的に家に暮らせなくなった葉月が頼る相手は、すでに事情を知っている上に、近所に住んでいて、「部屋を余している」立原である。
幸か不幸か立原は、もともと祖父母の家だったという古びた一軒家に住んでいて、葉月が転がり込んできても受け入れる余裕はあったのだ。
「美沙緒、自分でおかしいこと言っているの、わかっていないのかな。話が全然通じないんです。『冴島さんが家にいたら私が困る』という話をしているのに、『ここに住めなかったら、冴島さんが困る』と話をすり替えられてしまう。もう私が出ていくしかないんですけど、敷金礼金引っ越し費用を考えると、無理。契約者が美沙緒だったのは幸いでしたけどね。私が出て行ったあとはもう、好きにしてくれればいい」
葉月と立原は、会社を出るときは、別。
ただし、帰る場所は同じ。
立原が「やむを得ない」と合鍵を渡してくれたので、先に帰り着いた方が夕食の支度をして、一緒に食卓を囲む仲になっている。
すでに家があるので家賃が浮いていること、先輩社員として給料に差があること、何より「大滝さんは引っ越しに向けてお金を貯めないといけないはずなので」と生活費は要求されていない。そればかりか、さりげなく冷蔵庫の中身も充実しており「あるものは好きに使って料理して良いですし、食べても良いです」と言われている。
(立原さん、良いひとすぎるのでは)
会社で働いている分には「普通に親切」「地味なひと」という印象であったが、一緒に暮らしはじめてわかったのは、家も本人も清潔、気遣いが細やかということ。葉月自身、同僚とルームシェアをしていたくらいなので、共同生活はできるつもりであったが、美沙緒と暮らしていたときより快適なくらいだった。
食べるものに関しても、最初のタイ料理のおかげで「立原さんは辛いもの・少し変わった料理が好き」と思い込んでいたが、実際は幅広いレシピを作るタイプ。
本日の晩ごはんは、ほうれん草ときのこのキッシュ、ミネストローネ。サーモンステーキにはオリーブとレモンのソース。綺麗な皿に盛られて、テーブルいっぱいに並べられたそれを、向かい合ってワインを飲みつつ食べる。
「料理、びっくりするくらいお上手ですよね。いつもすごく美味しい」
葉月が言うと、コンタクトをしている立原が、爽やかに微笑んだ。会社では眼鏡を外した顔を見たことがなかったので、見るたびにいつも新鮮に感じる。食事中も、ブルーのチェックのエプロンはつけたまま。いかにも気を許しているような空気。
「大学時代からこの家に居候していて、よく作っていました。その後祖父母が相次いで亡くなりまして。しばらく独りだったので、どうにもやる気が起きなかったんですが。いまは、食べてくれるひとがいるので。毎日の料理が楽しいです」
気負った様子もなく答えるところも好感度が高く、その素直さに葉月はいまだに慣れない。スプーンを持ったまま固まってしまう。
そんな場合ではないと自分に言い聞かせ、はっきりしておかねばと思っていたことを、このときようやく口にした。
「立原さん。すごくお世話になってしまっているんですけど、彼女さんとか、大丈夫ですか。その、つまり私がこの家に転がり込んできて、何か不都合なことになっていませんか」
ワインを口にしていた立原は、面白そうに微笑んで見返してきた。
「俺は料理も家事も好きです。古い家だけど、この家賃の高いエリアで持ち家もあります。彼女がいたらさっさと声をかけて、一緒に暮らしていると思いませんか」
「なるほど」
にこ、という笑みに妙に力を感じつつ、葉月はいま一度「なるほど」と繰り返してから頷いてみせた。
「一緒に暮らしているのは、ただの会社の後輩で迷惑な食客ですね。つまり、いま現在立原さんには彼女がいないと。よくわかりました。でも、彼女ができて私が邪魔になったら遠慮せず言ってください。出ていく方法は、探しているんです。シェアハウスなら費用はそんなにかからないなーとか。ただ、シェアハウスにはトラウマが」
「うん。大滝さん、俺の言っていること、わかっていないみたいですね」
ごちゃごちゃ言い募ったものの、さっくりと否定されてしまった。何かを。
「わかっていないですか?」
「まずは冷めないうちに食べましょう。ワインももう少し飲みますか?」
「いただきます」
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