第3話

「辛い」


 まさかの、エスニック料理。

 立原の地味な印象から、しっとりした飲み屋かと思っていたら、連れて来られたのは派手なオレンジ色の店構えのタイ料理店。「何を頼んでもだいたい辛いですよ」と言われて試しにいくつかオーダーしてみたら、たしかに何を食べても辛かった。

 普段はちびちび飲む甘めのカクテルを、ぐいぐい飲んでしまう。


「お酒はほどほどに。コーラでも飲んでいてくださいよ。年下の後輩女性を潰すつもりはありません」


 あくまで紳士的に距離を置いた立原に、控えめながらもしっかり注意された。

 葉月は少しばつの悪い思いで、豚肉の炒めものをつつく。


「辛いです」

「パットキーマオ。唐辛子炒めです。ドリンクどうします。コーラ? オレンジジュース?」

「カシスオレンジで」


 メニューを手にしていた立原が、眼鏡の奥から視線をくれる。


「それで最後にしてくださいね。飲みたい気分なのかもしれませんけど、相手は選びましょう。上司として悩みがあるなら聞くのもやぶさかではないですし、大滝さんの家がこの近くなら送っていくのも構いませんけど。会社の人間と、個人的に付き合うのは苦痛ではないですか」


 葉月はすでに若干酔っていた。

 普段なら自制がきくところだったが、いまだに受け止め兼ねている先程の事件のせいで、ついこぼしてしまう。


「本当にそうです。会社の人が帰ったら家にいるなんて、かなり最悪の部類だと思います」


 のんびりとジンジャーエールに口をつけていた立原は、グラスをテーブルに戻しながら言った。


「大滝さんは、笹原さんとルームシェアしていませんでしたっけ。入社一年で社員寮廃止になって、この春から」

「ご存知でしたか。べつに会社のひとでも美沙緒、ええと笹原さんが家にいることは良いんですけど」


(危ない)


 口がすべりかけた。家に美沙緒の上司である冴島がいた、と。

 現場を押さえてしまった以上「不倫」であるのは動かしがたい事実だと思うのだが、さすがに他人には言えない。特に、立原は社内の人間だ。


(私にバレても構わない、っていうあの二人の態度はいただけないけど、美沙緒とは友達だし。本人の言い分も聞いていないのにべらべらと吹聴するわけには)


 なぜ自分の方が圧倒的に気を使わせられているのかは、腑に落ちていないのだが。ひとまず。

 それを見透かしたかのように、立原にさらりと言われてしまった。


「冴島?」


 手持ち無沙汰で空のグラスを手にしていた葉月は、そのまま取り落とすところであった。立原は通りすがりの店員に、追加のカシスオレンジとジンジャーエールを注文する。

 それから、深く椅子に座り直して言った。


「ここ、もともと社員寮があったくらいで、会社まで電車で一本だから便利なんですよね。それで、入社三年くらいして社員寮を出た社員も、結構な人数がそのままこの駅近くに部屋を借りて住んでいます。俺はもとから家がここにあるんですが。コンビニとかスーパーで会社の人間に会うことは多いですね。注意していないと、どこで見られているかわかったものじゃない。冴島は結婚して、いまは全然べつの場所に住んでいるはずなのに、最近この路線や駅で何回か見かけていました。笹原さんとのことは、状況証拠からの推測。あと、今日の大滝さんの不審な行動。会社にいたときと靴が違うから、一度家に帰ったんだと思いますが。いつまでもウロウロしているし『時間を潰す』って。家にいられない事情でもあるのかなと。それで、少々お節介を」


 一切の淀みなく言われて、葉月は弱々しく笑った。


(びっくりしたけど、社内的には以前から知られていた話なのかな、不倫。私、鈍いから。いつも誰かと誰かが付き合っている話、だいたい最後に知るタイプ)


 入店してからずっと、さりげなくテーブルの隅にスマホを置いているのだが、やはり連絡はない。言い訳するつもりはないのか、必要がないと考えているのか、引き続き二人の時間を過ごしているのか。

 滅入る。帰って良いのかどうかもわからない。自分の家なのに。


「笹原さん、冴島さんをうちに何度か連れ込んでいたみたいなんです。今日も。もう信頼関係もないですし、一緒に暮らせないと思うんですけど。出て行く場合の引越し費用をどうしたら良いのか、悩み中です」

「ルームメイトの約束反故、有責ということで、笹原さんに慰謝料を請求してみては?」

「できたら良いですけど、同じ会社の二年目社員同士、給料事情はわかります。しかも不倫がバレたら、奥さんからの慰謝料もあるんじゃないでしょうか。本当に、なんで不倫なんか……」

「冴島のところ、たしかいま奥さん妊娠中です。だからじゃないですか」


 さらりと言われて、葉月は一瞬頭の中が真っ白になった。あまりにも、あっさりと。

 テーブルに届いたカシスオレンジを一息に飲み干してから、だん、と置く。


「最低ですね」

「俺に言われても」

「男は最低です」

「大きな声で言わない」

「男は!! 最低です!! 完全にもうそれはただの性欲処理じゃないですか!!」

「大滝さん……」


 困りきった顔の立原相手に、その後も散々管を巻いた覚えはある。

 店を出るときには、すっかり酔いがまわっていた。

 家に送ります、と立原が言っているのは気づいていたが「家などありません」と突っぱねて、帰らないとごねまくった。

 帰れない事情は立原もよくわかっているだけに、結局折れた。「うち、部屋を余しているので、ひとまず今晩だけどうぞ」と。

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