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「青の瞬間」という気象がある。


 日の入りと日の出に空が一瞬青く染まる現象で、ブルーモーメントとも言われている。


 黄昏時のいま、ちょうど空は「青の瞬間」だった。空は昼間のように澄んだ青なのに、下を見れば暮れ色ににじんでいて薄暗い。


 薄暗闇の中、桜の白い一房は不気味なほど明るく見えた。


 古いフェンスにもたれながら、瑞希は桜の白を眺める。青い空の下、薄暗闇の中で光る一房を眺めていると、いまが朝なのか昼なのか夜なのかわからなくなってしまう。


 熱に浮かされたような気分になり、夢と現実の境界線が曖昧になる。その緩みの隙間に入り込むように、いつの間にかひとりの少女が、桜の前に置かれたベンチに座っていた。


 どこかの学校の制服だろうか、ネイビーブルーのジャンパースカートと白色のシャツを着て、赤い紐タイを締めた少女は、静かに目を閉じている。顔立ちは大人びていて、茶色がかった髪は肩まで伸ばされている。


 この季節のこの時間にこの場所で瑞希が少女を見つけて以来、いつも少女は同じ恰好でベンチに座り、まるで町の静かさを聞いているように、そっと目を閉じている。


 外ではまだ穏やかな風が吹いている。しかし町工場の倉庫とトタンの家に囲まれた空き地では、桜の枝は少しも揺れない。粗大ゴミが打ち捨てられた空間の中、一本の弱々しい桜の木とベンチに座る少女の構図は、まるで等身大のプロジェクションマッピングを見ているようだった。


「サクラさんは相変わらずだな」


 瑞希は少女が何者なのかを知らない。なのでこの空き地で印象深いもうひとつの存在にかけて、少女のことを呼んでいた。人付き合いが苦手な瑞希にとって、人に声をかけて名前を聞くようなことは苦行に近い。


 そもそも声をかけられるようなものではないと、瑞希は前から気付いていた。


 空の青はどんどん濃く、暗くなっていく。その中で桜とサクラの輝きは、この空間の中で唯一生命力を感じさせる。


「青の瞬間」はもうすぐおわる。サクラの姿は暗闇に隠れるように見えなくなってきた。しかし隠れるというより、輪郭が闇に溶けているようだった。


「夕方に外に出てはいけない」


「よくないモノに出会ってしまうから」


 ベンチの背もたれには、飲料メーカーの古いロゴが描かれていた。


 無人のベンチと、その上に垂れる桜の花を、まだ熱に浮かされたような気分で眺めながら、瑞希は大人たちが子どもだった自分たちに言い聞かせた言葉を思い出していた。

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