第2話
海近くの山間にある採石場は、今日も盛況であった。暑い中、沢山の作業員が、あくせく行き来し、持ち込まれた重機もせわしなく動いている。
涼やかな風が工事現場を通過し、汗だくの作業員たちをわずかに癒やす。風は、採石場を見下ろす位置にある、山の展望広場にいる青年までとどいた。
上下黒のピッチリとしたスーツに赤いネクタイ。色の濃いサングラスをかけた青年が、工事現場を見下ろしている。風が手にした写真を揺らす。
頬には、古い十字傷の痕が残っている。十年の歳月は、傷を古傷とし、少年を青年へと成長させた。
「あの男か……」
青年は、白い枠線付きの色あせた写真と、工事現場で黙々と働く一人の人物を見比べる。
双眼鏡を使い、しばし観察した後、青年は答えを口にする。
「当たりだ」
青年は口元を満足そうに歪ませた。
◇
採石場に、作業員たちが今か今かと待ち構えていた声が響く。
「休憩ー! 休憩ー!」
現場リーダーの言葉を聞き、作業員たちはそれぞれ持ち場を離れる。それぞれの作業員がなんとなしにグループを作って涼しい休憩室に向かっていく中、手近な岩に腰掛け、一人を貫く若者がいた。
軽く立った無造作な髪に、精悍な顔。この現場の中でも、一際若く見え、社会人と言うより大学生、もしくは卒業間際の高校三年生くらいに見える。シャツを着ていてもわかるくらいに鍛えられて引き締まった身体つきは、わかる者が見れば感嘆の声を漏らすだろう。
だが、その顔には妙に活力がなかった。まるで長い人生を経て達観した老人、もしくは悟りを開いた僧侶のように大人しい。それでいて、現場の誰よりも黙々と働くのである。
名は、池水壱馬。この採石場にやって来た、臨時のバイト作業員であった。
「おーお! そんなところに居たか! ペットボトルが余っているから、おかしいと思ったぞ!」
そんな壱馬に、事務所からペットボトルを持って出てきた老作業員が声をかけてきた。人当たりも良くこの採石場も長く務めている彼は、こうして常に孤独を選ぶ壱馬のことを気にかけていた。
「ほれ! お前も、水飲んどけ! なんじゃ、あまり汗かいとらんのう!」
老作業員は壱馬に冷たいペットボトルを渡そうとし、壱馬が汗をかいていないことに気づいた。今日の暑さは、老いて汗も出にくくなった老作業員ですら汗まみれになる域だ。
「体質的に、汗をあまりかかないもので」
「ふーん。そうか! でもまあ、水は飲んどけ! あとでぶっ倒れても困るしの!」
壱馬の必要最低限かつ嘘くさい返答を聞いても、老作業員の態度は変わらなかった。細かいことを気にしない、と言うより、本質がやはり善人なのだろう。
「……ありがとう」
軽く頭を下げ、礼をいった後、壱馬はペットボトルの水を口にする。いくら無愛想でも、ここまで好意をあけすけにされると、礼を言うしかなかった。
壱馬にペットボトルを渡した老作業員は、皆が涼んでいる事務所に戻る。事務所に入ったところで、現場リーダーが老作業員の元に駆け寄ってきた。
「どうでした?」
「何が」
「あの人、池水さんですよ」
現場リーダーは耳打ちするような小声で、老作業員に尋ねる。
「んー……悪いやつじゃないの! なに、ああいう周りに溶け込めないヤツは、何処の現場にもいるもんよ。リーダーなら、ビクビクせずドンと構えておけ!」
そう言って、ドン! と現場リーダーの肩を叩く老作業員。その地声の大きさは、探るような小声で聞かれても変わらなかった。
「そんなもんですかねえ……」
まだ少し納得のいっていない様子の現場リーダー。作業員をまとめる立場として、ああいう輪に入ってこない人間を気にしてしまうのは、仕方のないことかもしれない。
老作業員は、そんな不安を払拭するように、さらなるフォローを重ねた。
「それに池水のヤツは、しっかり言われた仕事はこなすし、道具の使い方もちゃんとしとるどころか、やたら上手い! なんとも、ワシが務め始めた頃の同僚によく似とるの。じっくり取り組む職人気質に、底なしの体力。まっことよう似とる! ハハハ!」
「ははは……」
明るく笑い飛ばす老作業員と、不安さが隠しきれていない愛想笑いの現場リーダー。経験のあるベテランが、慎重な現場リーダーをサポートする。なかなか上手い構図である。
そんな事務所の様子など気にせず、壱馬は目をつむり瞑想するように身体を休めていた。
そんな壱馬の足に、風に流されてきた新聞が引っかかる。新聞を手に取る壱馬、自然とその内容が目に入ってきた。
『九日前から行方不明の二人の高校生 未だ見つからず。鈴木尚弘さん(十六) 斎藤ゆかりさん(十六) 家族の懸命な捜索が続く』
そこに載っていたのは、顔写真入りの記事であった。僅かな情報と家族の声をメインとした、捜索願いとしての色合いが濃い記事である。
「作業再開ー!」
現場リーダーの声が響き、事務所で涼んでいた作業員たちもぞろぞろと出てくる。
壱馬も新聞を捨てて、作業に戻るため立ち上がる。
「……?」
ふと何者かの視線が気になり、顔を上げる壱馬。だが、その先には誰もおらず、気のせいかと視線を外す。
壱馬の目は、肉眼ではとても見えぬはずの、採石場を見下ろす山の広場をしっかりと捕らえていた。
◇
山の展望広場。
ベンチの影に飛び込んだ青年は、危なかったと冷や汗を拭う。
「まさか、あの距離で気がつくだなんて……」
相手を見積もり損ねていたと、青年は自身の油断を認めた。
青年が手にした古い写真。日付は約三十年前になっている。
写真には、今と変わらぬ格好で採石場で働く壱馬の姿が。その背後には、若き日の老作業員が小さく写っていた。
◇
採石場から車で十五分。海岸までの距離である。
その海岸にある、ごつごつとした岩に囲まれた名無しの入り江。心霊スポットの噂が古くからあり、地元の人間も寄り付かない場所だ。
星あかりしか照らさぬ、人気のない夜の心霊スポット。そんな場所に、採石場での仕事を終えた壱馬はいた。
壱馬は岩に腰掛け、真っ暗な海をじっと見ている。何が楽しいのか、というより、闇に染まり底が見えぬ夜の海を見ることは恐ろしいことに思える。
だが、壱馬の瞳には退屈も恐れもなかった。むしろ、そこにわずかながら宿るのは、亡き故郷を見るような郷愁であった。
「なぜここが、心霊スポット扱いされているか知ってますか?」
壱馬は跳ね上がるように立ち上がると、即座に後ろを向く。
突然壱馬に話しかけてきたのは、昼間、山の見晴広場から壱馬を見ていた青年であった。
青年は壱馬の方に近づきつつ、話し続ける。
「それは、四十年前、この入り江から突如大きな音がして、海岸に多数の死体が漂着したからだとか。全員、おそろいのコスチュームを着た。謎の集団の死体。だが、数時間後、警察が死体の回収に来てみれば、入り江を埋め尽くすほどの死体はすべて消えていた。見ていた地元の人間いわく、死体が全部、泡となって消えたそうです。まったく、なんとも荒唐無稽な話です。でもそれからというもの、ここには誰も近づかなくなった」
壱馬の脇に立つ、青年。青年は、海を見ながら語る。
「この怪談話とは、多少趣の違う……いわば都市伝説ですが、かつて昭和の時代、なんでも世界征服を企む悪の組織が存在したとか。テロ、強盗、誘拐、バスジャック、その組織はまさに犯罪の総合商社。昭和に起こった大事件の裏には、必ず彼らがいたとか。なんともフザケている」
「黙れ」
壱馬の声に、敵意を通り越した殺意が込められる。だが、青年の口が止まることはなかった。
「そんな犯罪組織を、警察が止められなかった理由。それはなんでも、その悪の組織は多大な権力、そして科学力を持っていたとか。構成員は皆、現代科学を凌駕した超科学を持った改造人間。改造人間……怪人が持つのは、超人的な力と不老同然の身体。人類誰もが欲しがるものですね」
「黙れ」
言われずとも、よく知っている。
その悪の組織の実在も、改造人間の優秀さも、組織に忠実な戦闘員がいたことも、壱馬はすべてを知っていた。
「だが、組織の噂は、この海で謎の爆発があった日から、とんと聞かなくなった。あくまで私の想像ですが、その組織の本拠地はこの入り江、海底にでもあり、爆発が起こったその日に爆発霧散した。公権力が敵わぬ以上、組織を壊滅に追い込んだのは……その組織から離反した、裏切り者の改造人間といったところでしょうか」
「黙れ……!」
この男、何処まで知っている。壱馬の語彙がより強くなり、さらなる殺意がこもる。
たとえ、四十年の月日が経とうとも、忘れるはずがない。
組織最後の幹部であった壱馬は、正義などというものに目覚め組織を離反した憎き裏切り者と戦い、見事に敗れ去った。あの胸に直撃した、跳び蹴りの痛みは今でも覚えている。
重症を負いつつなんとか生き延びた壱馬が目覚めた時、すべては終わっていた。
組織最後の砦であった海底基地は壊滅し、裏切り者の生死も不明。壱馬だけが、死に損なって取り残されたのだ。
それから四十年間、壱馬はずっと海を見ていた。様々な日雇いの現場を回り生きるための最低限の金銭を稼ぎつつ、ただただ、海を見続けていた。
青年は山下に向き直ると、改めて問いかける。
「正義と悪は同時に潰え、あなただけが生き延びた。組織の一員としての立場もコードネームも失い、他人との付き合いを避け、ただ何十年も一般人のふりをして海を眺め続ける。それは、どのような気持ちなのでしょうか?」
今度は壱馬も、黙れとは言わなかった。
片手でいきなり青年の首を掴み、いきなり締め上げた。
もはや、言葉をかわす気にもなれない。
壱馬は鉄骨をも容易く握りつぶす握力で青年の首を締め上げるが、青年はこともなげに話す。
「なるほど。心は錆びついていても、身体はまだ錆びついていないようで」
平然とした様子の青年は、己の首を締め上げる壱馬の手を両手で掴み、そのままゆっくりと引き剥がす。両手を使っているとはいえ、青年の腕力は改造人間である壱馬に抗える域にあった。
青年は壱馬の手を剥がすと、今度は片手でその手をしっかりと握りしめる。それはまるで、二人が握手をしているかのように見えた。
「お前は何者だ?」
手に力を込める壱馬が、始めて自分の方から尋ねる。
「名を、山下と申します。何者かと聞かれれば、あなたと戦い、相討ち以上に持ち込める者です」
青年、山下もまた手に力を込めながら答える。
ぎしぎしと、途方も無い力で交わされる握手。あまりの圧力のせいで、まるで互いの手の回りの空間ごと歪んでいるようにも見えた。
先に手を離したのは、壱馬であった。
「相討ちとは面白い冗談だ……と笑い飛ばすのは苦手だ」
「でしょうね」
壱馬にこう言われ、山下は苦笑する。
「熱い友情の握手を交わしたところで、実はあなたにお願いがあるのですが」
「断る」
取り付く島もないとばかりに、山下のお願いの内容も聞かず、再び海を眺め始める壱馬。これ以上、お前に付き合う気はない。言わなくても伝わるほどの拒絶を前にしては、山下もため息をつくしかなかった。
「また明日、改めて伺います」
山下はこう言って、そのまま立ち去った。
山下が消えたことで、再び海にいつもの静寂が戻ってくる。
「フン……」
壱馬は、先程まで山下と握手していた手、その指をじっくりと動かす。
久方ぶりに、人間の域以上の力を出した。それでいて、受け止められたのは、何十年ぶりか。
変わらぬ日常に訪れた久々の変化は、壱馬の心をわずかながらに動かした。
◇
次の日の朝、壱馬の採石場への出勤は若干遅かった。
寝過ごしたわけではない。ただ、明日改めて伺うと言った山下を誘うため、ふらふらと街を回っていただけだ。殺すにしても、こちらから誘った方がいい。
壱馬が回った場所には、昨日、妙な視線を感じた山の見晴広場も入っていたが、結局山下は出てこなかった。
どうやら、出勤前に接触する気はないらしい。
そう思ってしまったからこそ、壱馬は採石場へやって来て、驚愕した。
「――――!」
壱馬は息を呑み、ショベルカーの脇に立つ老作業員の元へと駆け寄る。
遠目では、朝早くから作業を始めている採石場であったが、そこにいる作業員は皆寝ていた。全員、直立不動のまま熟睡している。中には、上着を羽織る途中だったり、つるはしを手に岩を砕こうとしている者もいる。そんな彼らも、そのまま寝息を立てていた。
壱馬は老作業員の頬を軽く叩くが、老作業員はいびきをかいたまま起きなかった。
「これは……」
日常の途中で、いきなり意識を失い、そのまま深い眠りにつく。
壱馬は、この採石場を襲った謎の現象に、心当たりがあった。
「催眠状態のまま、人を眠らすスリープガスが散布された。とでも、思いましたか?」
重機の影から、前日同様の装いの山下があらわれた。
「見覚えがあるでしょう。これは、四十年前、あなたが配下の怪人と共に作り出した光景そのものだ。このスリープガスを散布することで、都市機能を突如麻痺させる。幸い、親切な誰かの活躍で、被害は最小で食い止めることができましたが……もし、その誰かがいなければ、どうなっていたんでしょうね?」
「さあな」
ぶっきらぼうに答える壱馬。日本全国にスリープガスをばら撒く日本睡眠計画は、前段階となる地方都市での実験で頓挫してしまった。
組織の裏切り者の手により、実行犯となる怪人も殺され、生産工場も破壊された。今でも、思い出したくない失敗である。
「ふふふふふ、ははははは……」
そんな壱馬の様子をみて、山下は突如笑い始めた。
「いや失礼、あなたのその無責任さが面白すぎて。運転の最中、手術の最中……そんな状況で、人をいきなり眠らせれば、大変なことになる。人をいきなり眠らせるとは、字面以上の悪行だ。それなのに、あなたはそんな悪行を悔いるのではなく、自らの失敗を恥じている。ああ、なんて無責任。海に沈んだかつての栄光を、ただずっと眺めていただけのことはある!」
笑いながら、壱馬を糾弾する山下。そんな山下の笑いがピタリと止まり、声色が突如重くなる。その語気の鋭さは、人の心を穿つ針のようであった。
「だからこそ、あなたには価値がある。敗北者であるからこそ、意味がある。この世界から放逐されるに相応しい理由がある!」
山下が言う、価値や敗北者といった言葉の真意はわからない。
だが壱馬は、ここで一つ、確信した。
「お前が何者か、ようやく理解した。お前は“敵”だな」
口調や態度というオブラートが剥げ、山下の中から出てきたのは壱馬への明確な蔑みと侮りであった。
壱馬は山下に向け、力強い一歩を踏み出す。山下が何者かはわからぬが、昨日の握手の具合からして、おそらく山下は壱馬の本性を出すに相応しい相手だ。
一歩踏み出すごとに、壱馬の全身が異形へと変貌していく。これは、壱馬にとって、久方ぶりの高揚であった。
ガクンッ! とそんな壱馬の足が突如崩れた。
「な……に……!」
壱馬の頭を襲う、強烈な倦怠感。脱力し、崩れ落ちそうになる身体を、壱馬は必死で止めようとする。異形になりかけていた肉体は、とうに元に戻っていた。
自らの身体の異常に必死に抗おうとする壱馬であったが、ついに耐えきれなくなり、地面にそのまま突っ伏してしまう。
壱馬はここにきて、自らを襲った異常の正体に気がつく。
それは、強烈な眠気であった。
倒れた壱馬を見下ろし、山下は語り始める。
「さきほども言ったように、この現場の人々が眠っている理由はスリープガスではありません。もっと、別の手段です。だからこそ、このたぐいのガスには耐性がある、あなたにも効いたわけです」
改造人間である壱馬には、毒薬や毒ガスへの強烈な耐性がある。実際、スリープガスを浴びたとしても、効かない理由など、そんなこと俺が知るか! と振り切れる域だ。
山下はしゃがみこむと、意識が朦朧としている壱馬の耳に内緒話のように囁いた。
「私が使った手段はですね……」
ゴニョゴニョと、小声で眠気の正体を壱馬に教える山下。
その正体を聞いた途端、眠りに落ちかけていた壱馬の身体が突如跳ね上がった。
壱馬はそのままの勢いで、山下の胸ぐらを掴み上げる。
「ふざけるな……! そんなものが、あるはずは……!」
壱馬を覚醒させたのは、その答えのとんでもなさであった。ふざけている、からかわれていると感じたのだろう。怒りや驚きには、瞬発力がある。
だが、結局は一時的な覚醒でしかない。壱馬の手は山下から離れ、再び壱馬は深い眠りへと落ちた。
「あなたの存在だって、ふざけたものでしょうに。それに、私が“敵”ならば、あなたは“悪”だ」
山下は襟を正し、壱馬にこう告げる。
これが、壱馬が眠りに陥る前に、最後に知覚した言葉であった。
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