第3話(3完) カフェの恋 ー決意ー
三月の最初の土曜日。私はいつものようにカフェに向かった。いつものように途中で高校生の滝井君を追い抜き、いつものようにカフェのドアを開ける。
だが、アルバイトの彼女の「いらっしゃいませ」の声はいつもとは違って元気が無く、少し淋し気に響いた。それが気になって、私は会計を済ませた後に「どうしたの? 体調が悪いの?」と話し掛けてみた。すると「いいえ」と首を振った後に、彼女は思いがけないことを言い出した。
「私、今日が最後なんです」
「バイト、辞めちゃうの?」
驚いて問い返すと、彼女はしんみりした声で打ち明け話をした。
「はい。私、実は高校二年生なんです。来月から受験生なので、受験勉強に専念しようと思って」
「そう。勉強、どうか頑張ってね」
「はい。成績、そんなに良い方じゃないので心配なんですけど、頑張ります」
「ううん、貴女、頑張り屋さんだから、きっと大丈夫よ。陰ながら応援してるわ」
「ありがとうございます」
彼女はそう言って頭を下げた。私はトレイを持ち上げた。座席に向かおうかと思ったが、一言、付け加えることにした。
「貴女の声が聞けなくなるのは残念だけど、それは仕方ないわね。常連さんには、最後の挨拶をした方が良いわよ」
「有難うございます。実は店長さんもそう言ってくださって。前回までのはずだったんですが、今日は特別に一時間だけシフトに入れてくださったんです」
「貴女のことを気に入っていた人が結構いたみたいだし、きっとみんな応援してくれると思うわ」
彼女は視線を下げて何か考えていたが、すぐにこちらを見てきっぱりと答えた。
「はい、そうします」
私は頷きを返して店内を見回した。今日はテラス席に座るには寒すぎる。空いている席に適当に座ることにした。壁際からは少し離れた席だ。
トレイを置き、端末を出す。何を書こうか考える。だが、心に拡がるのは彼女のことだった。我ながら、お節介な。心中で苦笑いしながら甘いコーヒーを一口飲んだところで、入り口のドアが開いた。滝井君だ。
彼がカウンターに向かう。私はそちらに目が行くのを止められなかった。
彼は彼女に注文を告げている。きっといつもと同じレモンティーとドーナツだろう。応じる彼女の顔と声が少し硬いのには気が付いているだろうか。
会計を済ませ、彼がトレイを持って席に向かおうとした時、彼女が話し掛けた。
彼は彼女の顔を見たまま、凍り付いた。キツネの視線を感じたウサギのように、身動ぎせず立ち竦んでいる。暫くして、二言、三言、彼女と言葉を交わしてこちらに向かってくる。
平然を装っているが、その顔は蒼く、心配になるぐらいだ。ぎくしゃくと歩いていつもの席にたどりついて腰をおろした。俯いて暫し何かを考えていたが、鞄からノートと筆記用具を取り出して何かを
カウンターの彼女は彼の方を見つめていたが、客が何人か立て続けに入って来ると、接客に忙しく働き出した。
彼は相変わらず、ノートに向かって何かを書き殴っている。そうかと思うと横線を引いて、書いた文字を塗りつぶす。ぶつぶつと小声で呟いてはまた書き始める。黙々と取り組んでいる様子は、普段勉強している時と変わらない。
やがて時間が経ち、カウンターの中で動きがあった。彼女が時計を見上げて時間を確認すると、他の店員達に頭を下げて回った。仲間達にも最後の挨拶をしているのだろう。だが、彼は相変わらずノートに向かって没頭している。私は空になっているマグを取り上げると飲むふりをしてから音を立ててテーブルに置いた。他の席のいくつかからも、食器の音や咳払いが聞こえる。
それでやっと気が付いたのか、彼が頭を上げた。カウンターの中の彼女の動きを見て、慌ててノートの一頁をちぎり取ってポケットに入れた。急いでドーナツを口に詰め込み、もうとっくに冷めてしまっているだろうレモンティーで流し込み、ノートや筆記用具を鞄にしまい込むと立ち上がったが、その時には彼女の姿はカウンターの中から消えていた。
彼は一瞬立ち竦んだが、一度深く息を吸い込んで大きく肩を動かして吐き出すと、食器を片付けて大股で店から出て行った。
店内に、落ち着かない雰囲気が広がる。
私も居ても立ってもいられなくなった。テーブルの向かい側に置いたブラックコーヒーを急いで飲み干す。いい齢をしてお節介な事だが、小母さんなんてこんなものだと自分を納得させ、荷物を片付けて立ち上がった。
トレーを回収場所に置き、静かに入り口に向かうと、そこかしこの場所から、常連さん達が意味深な視線を送って来る。皆、似たようなことを考えているのだろう。
ドアを開けると寒い風が顔に当たる。外に出て手をコートのポケットに入れて周囲を見回すと、入り口の横に、壁にもたれて立っている人がいた。さっき出て行った滝井君だ。ノートの切れ端を見ながら、何かを呟いている。
私がほっとして大きく息を吐くと、こちらに気づいて軽く頭を下げた。私は少し迷ったが、一歩、彼に近付いた。
「寒いわね。人待ち?」
声を掛けながら、さりげなさを装うのは難しいと痛感する。年の功など、役に立たないものだ。だが彼はこちらのぎこちなさなど気にする余裕もないのだろう。
「ええ、まあ」
ぶっきらぼうな声で、『放っておいてくれ』と言わんばかりの返事が返ってきた。けれど。
「そう。それなら、建物の後ろ側の方、従業員用の出入り口の横の方が風が当たりにくいと思うわよ」
そう告げると、彼は顔を赤くしたが、口籠りながら何かを言って頭を下げた。多分、礼の言葉を口にしたのだろう。
「じゃあね」
そう言って、私は歩き出した。振り返りたくなるのを、「頑張って」と声を掛けたくなるのを、我慢して。彼が建物の後ろ側に急ぐ足音だけを耳にしながら。
次の土曜日、カフェに向かう道に彼の姿は無かった。カフェのドアを開けても、彼女の声はしなかった。カウンターの向こう側で、いつもの注文を受けてくれたのは店長さんだった。
コーヒーを注いだマグがトレイの上に置かれるのを見ていると、静かに話し掛けられた。
「あの子、うまくいったみたいですよ」
驚いて顔を上げると、店長さんの嬉しそうな微笑みが見えた。
「先週までいたあの子ですか?」
「ええ」
頷きながら店長さんが答える。
「数日前に学校帰りに報告しに来てくれました。最後の日に店から出ると、彼、あの高校生さんが待っていて告白されたそうです」
「そうなんですか」
「ええ。『一緒に受験勉強しませんか』だったそうです」
「それはまた、わかりにくい告白ですね」
「でも、彼らしいと思いませんか」
そう言って店長はまた嬉しそうに笑った。私も笑みがこぼれるのを止められない。
「それはそうですね。お似合いの二人だから。良かったですね」
「そうですね。二人とも受験で大変だから、当分は図書館デートだそうです。『遅ればせながらバレンタインチョコを渡します』って、顔を赤くして嬉しそうに言っていました」
「あの二人らしいですね」
「それで、貴女にも『有難うございました』と伝えてください、とのことでした」
「まあ、大したことはしていませんけどね。見ていてやきもきするような二人でしたから。つい、背中を押してあげたくなるんですよね」
「そうなんですよ。ついつい、余計な事をね」
「……ひょっとして、ドーナツも?」
「ええ、彼女がシフトに入る前に、一つだけ大きくなるように作っておいて」
「不自然でない程度に?」
「不自然でない程度に」
私は、店長さんと陰謀一味のように悪い顔で笑い合うと、支払いを済ませてトレイを持ち、いつものテラス席に向かった。今日は陽射しの暖かい春日和だ。風も無い。
太陽に温められた椅子に座る。空を見ると雲の無い澄んだ青空だった。マグを持ち上げて蜂蜜で甘いコーヒーを一口飲んでから、もう一度見上げた。あの二人も、曇りの無い、悔いの無い青春を過ごせますようにと祈りながら。
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