第3話(2) カフェの恋 ー雨の土曜日ー

 初冬の土曜日の朝。夜更けから降り出した糸雨いとさめが今もまだ降り続いている。爽やかな青空も良いが、雨も悪いものではない。路面での跳ね返りが靴を汚すほどではない、今日のような淑やかな雨であればだが。私はお気に入りの赤い傘を差して、いつものようにカフェへと出掛けた。


 途中で前に大きな黒い傘を見付けた。いつもの高校生の彼だ。傘が時々縦に揺れる。今日のような雨の日でも単語カードは手から離さないのだろうか。

 私が追い付きそうになると、傘をひょいと傾けながら彼が道の端に寄った。私の足音が聞こえたのだろう。私は「ありがとう」と言って少し足を早める。追い越した時に、「いえ」と呟くような小さな声が聞こえた。


 カフェに着き、傘を備え付けのビニール袋に入れ、いつものようにコーヒーを買う。今日はテラス席は無理だ。だが、雨のせいか、店内もいつもより空席が多い。トレイを持って何の気なしに壁際の席に近付いた時、後ろから小さな「あ」という声が聞こえた。

 そうだった、ここは『彼』の席だ。隣のテーブルにトレイを置き、顔を上げるとカウンターの中でバイトの彼女のほっとした顔が見えた。ちょっと笑い出しそうになったがこらえて鞄から端末を取り出していると入口のドアが開いた。『彼』の御到着だ。

 外に向かって傘を突き出して丁寧に雨水を払い、ビニール袋に納めてから店内に入る。彼もいつもと同じようにレモンティーとドーナツを買うと、こちらに向かって歩いて来て、いつもの席に座った。こちらをちらっと見て軽く頭を下げてから参考書とノートを取り出し、勉強に取り掛かった。

 静かな雨の土曜の朝の時間が流れ出す。私も創作に集中した。


 20分ほどの時間が経っただろうか。近くで聞き慣れない男性の声がした。


滝井たきいじゃん。ここ、いいか?」


 顔を上げると、一人の若者が『彼』の席の横に立ち、話し掛けていた。

 流行のマッシュヘアー。前髪は少し長めで目に掛かりそうだ。耳にはピアスが銀色に光っている。趣味の良い明るい茶色のニットセーター、すっきりと細目の黒いパンツとやはり黒のローファー。ラフに羽織った濃いグレーのマウンテンパーカーも良く似合っている。

 いかにも女子にモテそうな今時の若者である。


 彼、滝井君は顔を上げた。一瞬、片目が細められた。


立花たちばな


 少し硬い声。だが立花と呼ばれた若者は気に留めなかった。手にしていた飲み物のカップを滝井君が占めていたテーブルに無造作に置き、向かい合った椅子に音を立てて座り込む。腰を落ち着けながらカップを持ち上げて一口飲むと、無遠慮な声で滝井君に話し掛けた。


「お前、こんなとこで勉強してんのかよ」

「まあな。立花はどうしたんだ。サッカー部は土曜も練習じゃないのか?」

「もう学期末の試験期間だから部活禁止だよ。知らなかったのか? まあ、滝井は部活とか興味無さそうだもんな」

「……」

「これから川野かわの達と遊びに行くんだけどよ。時間を間違えてさ。外はこんな雨だし、待ち合わせまで時間つぶしに入ったわけ」

「そうか」

「何なら、お前も来るか? 女子も何人も来るぜ。他校のもいるし、紹介してやってもいいぜ」

「いや、僕はいい。立花は試験勉強はしなくていいのか?」

「今の時期から必死になる必要もねーだろよ。それに俺、別に成績悪くねーし。そこの答、間違ってんぞ」


 立花君は無遠慮に手を伸ばすと、滝井君のノートを指差した。


「コンデンサーの直列と並列を勘違いしてんじゃね?」

「……そうみたいだな」

「抵抗と逆なんだよな。逆数の和とか、めんどくせえよな」

「ああ」

「おんなじ並列でも、女の子に二股掛けてるほうがよっぽど面白いや」

「お前、そうなのか?」


滝井君の声が高くなる。驚いて手に持っていたシャーペンを落としそうになるのを慌てて掴むのを、立花君は面白そうに見ながら笑って答えた。


「嘘だよ。そんな汚いこと俺はしねーし、今は誰ともつきあってねーよ。だから、今日も女の子交じりで遊びに行けんだろうが」

「……そうか」


 滝井君が感情の籠らない声で返事をすると、立花君は頭を下げながらひねってカウンターの方にじろっと視線を流してから滝井君に囁いた。


「なあなあ、あの、可愛いよな。お前、あの娘目当てだろ」

「……別に」


 滝井君の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。絞り出された、素っ気ない、だが明らかに硬い返事を聞いて、立花君がにやっと口を曲げた。


「へえ、じゃあ、俺、声掛けてみよっかな」

「……やめろよ」

「へ? なんで? お前が別に気が無いなら、俺の勝手だろ?」

「……」

「あんな可愛い子、放っておくなんてもったいねえよ。声ぐらい掛けたって構わないだろ」


 そう言って立花君が立ち上がろうとする。その時、滝井君の鋭い声が響いた。


「やめろよ! お店に迷惑だろ!」


 声が大きくなり、彼は慌てて周囲を見回して「済みません」と言って頭を下げる。

 立花君も腰を椅子に落として同じように頭を下げた。


「大声出すなよ、お前の方が迷惑だろ」

「……済まない」

「冗談だよ。決まってんだろ。本気にすんなよ」

「……」


 それきり滝井君は黙り込んで俯いてしまった。立花君は退屈そうな顔をしてしばらく滝井君を見ていたが、カップの蓋を乱暴に開けると、中身を一気に飲み干した。


「俺、もう行くわ」


 滝井君が顔を上げると、立花君は強い声を投げつけた。


「滝井、お前、真面目なのはいいけどよ。それだけじゃつまんねーわ。男なら、いいなって思う子には自分から声を掛けるのが当たり前だぜ」

「……」


 滝井君が返事できずにいると、立花君は肩を竦めて立ち上がった。


「じゃな」


 そして大股で回収コーナーに行くとカップを放り出した。カップは台の上に立ちかけたところでくるりと回ると横倒しになって転がった。だが立花君はもう後ろを見ずに早足で店から出て行った。

 彼が去った後には、何とも言えない空気が店内に漂う。それに耐えられなくなったのだろう、滝井君は慌ただしく荷物を鞄に乱雑に突っ込むと小脇に抱え、傘を持って立ち上がった。急ぎ足で回収コーナーに行き、自分のトレイを置くと立花君が放置したカップを片付けて、カウンターに向かった。


「ごめん」


 そう言ってカウンターの中の彼女に頭を下げると、もう後も見ずに出口に向かう。

ドアに手を掛けて押し開いたその時、その足が止まった。急いでカウンターから出て来た彼女が彼の服の袖を掴んで引き止めたのだ。


「あの」


 そう言って躊躇った後、手を放して語を継いだ。


「お気になさらず、また、いらしてくださいね」


 懸命に紡いだその言葉を聞いて、少し蒼褪あおざめていた滝井君の顔がまた赤くなった。

 振り返らずに小さく頷くと、彼は大きな傘に隠れて出て行った。


 次の週の土曜日、私はまたカフェに向かった。普段より少し早く。

 カフェに着くまでの道中、辺りを見回したが、『彼』、滝井君の姿は無かった。

 入口のドアを開けると彼女の声が出迎える。だが、「いらっしゃいませ」も、注文を受けた後の「畏まりました」も、少し音が低い。

 支払いを済ませて彼女からトレイを受け取り、テラス席に座る。

 バッグから端末を出してテーブルに置いたが、どうも気が乗らずなかなか文章が頭に浮かんでこない。気分を変えようと、文庫本を取り出してコーヒーを飲みながら読むともなくページを二枚、三枚とめくった時に、店内から少しだけ高い声が洩れ出してきた。


「いらっしゃいませ!」


 ガラス扉越しに店内を見ると、『彼』が、俯きがちに入って来た。

 滝井君はいつものように、レモンティーとドーナツを買い、いつもの席に座る。いつものように参考書とノートを拡げ、シャーペンを走らせる。

 またドアが開いて客が入店する度に、「いらっしゃいませ!」と、いつもより嬉しそうな声が響いた。

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