9 姉のようなもの
アルテミシアの方に振り返った彼女は、先程の憤怒の形相とは打って変わって、うっとりとした笑顔を浮かべた。
真紅の目を細めて、花弁のような唇をほころばせて、彼女は慈母の笑みを浮かべた。
「怪我は無い?
もし貴女に怪我があったら、あの人畜生は両方の目玉に鉄の串を刺して何も見えなくした後で金玉を握り潰して、そうしたら足の先から少しずつ肉を削ぎ落として生まれてきた事を後悔させてあげるんだから」
優しい笑顔でまくし立てる彼女の背後に、咲き乱れるハエトリソウとモウセンゴケを、アルテミシアは幻視した。
「い、妹……?」
「そうよ。
……やっと、会えたわね」
彼女は明らかに、アルテミシアに向かって言っていた。
なお、通野拓人は三人兄弟の末っ子なので姉は居ないし、こちらの世界には親すら居ないのだから姉など居るはずもない。
だが、その謎を悠長に考えている場合ではなかった。
「て、めえ……何しやがる……」
恐ろしいばかりの力で瓦礫を掻き分け、雄一が出土した。
大斧の一撃を食らった脇腹は、服が裂けて血が滲んでいたけれど、おそろしい事にその下に覗く肌には、傷跡すら残っていない。
「再生してる?」
女戦士は、雄一の傷が再生していることには驚いた様子だが、車でも輪切りにできそうな一撃で雄一が生き延びたことには特に驚いていない。
相手が生きているか死んでいるか、手応えだけで承知している様子だった。
「冒険者! あいつは悪魔憑きだ! お前がどんなに強くても敵わないぞ!」
「上等じゃない」
女戦士は大斧を構える。
その長柄の石突き(刃と反対側の端)からは、頑健な白銀色の鎖が伸びていて、さらにその先端には猛禽の爪の如き鉤爪が付いている。
女戦士は、その鎖を左手に巻き付けていた。
憎しみに燃える雄一の手に、魔力の光が閃いた。
「≪
先程から雄一がばらまいている魔法だ。
大砲の如き威力であることは、アルテミシアが見ている通り。
それを雄一は、目の前の女戦士めがけて、撃ち出す!
女戦士に魔法が直撃して木っ端微塵になるか、と思われた刹那。
彼女は大斧を水平に構え、巨大な刃の側面を盾にした。
そこに魔法が直撃……したように見えたが、斧にはヒビすら入らず、爆発も起こらない。
魔法は吸い込まれるように消えた。
そして斧の刃に呪術的な紋様が燦めいたかと思うと、それは柄に、鎖に伝播し……
女戦士が左手に掲げた鉤爪の内側から、白輝の閃光となって撃ち返された!
「なっ!?」
完全に意表を突かれた様子で、雄一の反応は遅れた。
瓦礫を蹴立てる爆発!
雄一はボロボロに焼け焦げた服から煙をたなびかせながら錐揉み回転で吹き飛んだ。
そこへ間髪入れず、女戦士が追いすがる。
「……≪
起き上がりざま、雄一は、向かって来る女戦士目がけて火の玉を投げつける。
苦し紛れの牽制攻撃は、完全に読まれていた。
女戦士は斧を振りかぶったまま、左手で一薙ぎ、鎖を振り回す。
火の玉は鎖をレールとするようにズルリと滑り、軌道を変えて、明後日の方向へ飛んで行って打ち上げ花火となった。
上空に待機していた翼竜が直撃を受け、墜落していった。
魔法を撃つために発生した隙は、せいぜい二、三秒。
だがそれは女戦士にとって充分すぎた。
「ごぶふっ!」
再び、大斧の一撃!
袈裟懸けに振り下ろされた斧は雄一の左肩を粉砕し、雄一は血の軌跡を残して転がって行った。
「チッ。軽いのに丈夫で、折れる前に飛んじゃうわね」
「この……」
雄一が受身も取れず、石畳に手を突いて身を起こした時には、左肩の痛々しい傷はもう治り始めていた。
――今だ!
二人の距離が離れた一瞬。
超人の戦闘速度にはとても付いて行けない、凡人アルテミシアでも突ける隙。
アルテミシアは肩掛け鞄から最後のポーション瓶を抜き出し、二振りシェイク。その栓を弾いて開けると、雄一目がけて瓶を投じた。
「ぷわっ!? うえっ!?」
瓶は割れなかったが、その口から飛び出した液体が雄一に引っかかり、よく振った炭酸飲料のように白煙が吹き上がる。
効果は……薄い。だが雄一は一瞬怯み、むせ返りそうになる。
それは女戦士にとって充分な猶予だった。
鎖鉤爪が飛んだ。
女戦士の投じた鎖は雄一の身体に三重に巻き付き、さらに鎖先端の鉤爪がガッチリと左肩の傷口に食らいつく。
そのまま女戦士は鎖を引き、雄一を投げ飛ばして石壁に叩き付けた。
「かっは……!」
まだ形を残していた壁が、クレーター状にヘコんで、雄一はそこにめり込んだ。
女戦士は追いすがる。雄一に食いついていた鉤爪が……赤熱! 鎖へ、柄へ、そして巨大な刃へと輝きが伝播する。
ただでさえ巨大な大斧の刃が、光を纏い、光の刃を形成し、何倍にも膨れあがった。
そして、鼓膜が破れそうな轟音を伴って、天地を分かつ一撃!
水平に振り抜かれた斧は、女戦士の前方の建物を2ブロックまとめて吹き飛ばした。建物の下層が微塵に吹き飛び、ダルマ落としのように上階が崩落していた。
その一撃は、雄一の首を刎ねることを狙ったものだった。
蒸発した血が微かに赤く揺らめいて。
肩を失った胴体が崩れ落ち、鼻から上だけの頭部が転がった。
「……ふう。何なの、この化け物」
「あの悪魔を単騎で……!?」
ルウィスは目を剥いていた。
あまりにも一方的な戦闘だった。
街一つ廃墟にした悪魔が、何もできずに封殺されたのだ。
アルテミシアも唖然としていたが、呑気に唖然としていられるのは、僅かの間だけだった。
「待て、よく見ろ、冒険者!」
ルウィスが同時に気付いて、女戦士に警告する。
血と肉が、ふわりと、舞った。
泣き別れた雄一の胴体と頭部の間に、赤い回路が生まれていた。血肉の奔流が。
やがて、首部位が逆回しの映像みたいに復活していき、胴体と頭部が繋がった。
「嘘でしょ、これで死なないの!?」
「……て……めぇ………何、しやが…………」
ゆらりと、ホラーゲームのゾンビみたいに、雄一が起き上がる。
彼は目と鼻から血を流し、屈辱と憤怒に燃えていた。
「全員、ぶ、ぶち、ぶち殺してやらああああ!!
≪
がなり立てつつ雄一は、天に向かって手を差し伸べた。
女戦士は即座に退き、庇のように斧を構えて、己とアルテミシアの身を守る。
そして、ミジンコなら死ぬかも知れない程度の、静電気が弾けた。
「……は?」
雄一自身も含め、その場の全員が、一瞬、呆気にとられた。
廃墟の街を吹き抜ける風の音が、妙に大きく聞こえた。
「魔力切れだわ! 今のうちに逃げるわよ!」
女戦士は鋭く指笛を吹く。
すると、瓦礫まみれの大通りのど真ん中を、土埃を蹴立てて何かが走ってきた。
まるで金庫のように堅牢な箱形馬車だ。
二頭立ての馬は見事に歩調を合わせ、全力疾走でやってくる。
「わっ!」
女戦士は、大斧を背中のフックに引っかけて収めると、ひょいとアルテミシアを抱え上げた。
そして、駆けて来た馬車の御者席にひらりと飛び乗り、隣にアルテミシアを座らせ、傍らのレバーを引いてブレーキを掛けた。
「乗りなさい!」
開けっぱなしだった馬車の側面扉に、言われるまでもなくルウィスが飛び込む。
次いでアリアンナがそれに習い、カルロスはギルバートを客車に投げ込むと、加速し始めた馬車の尻にへばり付いた。
「おい、待ちやがれ! この卑怯者ども!!
勝負しろ! 正々堂々! ま、待ち、待ちやがれぇーっ!!」
雄一が叫びながら追いかける。
正確な速度は分からないが、オリンピックに出れば100m走で金メダルが取れるだろう。その最高速度で、いつまでも追いかけてくる。
だが、それでも差は開いていった。
馬車は無人の門を抜けて街を飛び出し、雄一の姿は後塵の中に霞んで消えた。
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