3 秘めたる力
アリアンナは、暖炉に掛かっていた鍋から、夕飯の残りだという米粥を出してくれた。
味の無い粥は、いつも食べていたチェーン店の牛丼や半額パック寿司より遥かに美味しく感じて、拓人は少し泣きそうになった。
「そんな……何も覚えてないの?」
「はい。森で倒れているより前の事は、何も……」
お粥を食べながら、拓人は身の上についてアリアンナに話した。
……正確に言うならば、何も話さなかった。
――記憶喪失ってことで押し切るしかない、よなあ。
とりあえず、『転生者だと思われては危険』だというのは分かった。
この世界の人々が転生者についてどの程度理解しているかは知らないが、異世界の(つまり地球の)知識や記憶を持っていると知られないよう、用心すべきだろう。
だから拓人は嘘をついた。
どうして自分がここに居るのか分からず、何も覚えていないのだと。
「家族のことも? どこから来たのかも?」
「何もかも、全然……」
拓人の話にショックを受け、痛ましく同情する様子のアリアンナには悪いけれど、そう言い張るより他に無いと拓人は考えた。
いや、痛ましげだったのは少しの間で、アリアンナは拳を握りしめて使命感に満ちた凜々しい表情になった。
「うん……分かった。
大丈夫! 私が娘として育てるから!」
「……なんでそんな話に?」
「そっか、娘じゃ歳が近すぎるもんね! じゃあ妹にする!」
「あのー……」
一世一代の決意、という雰囲気だった。
――これ要するに、猫を拾ってメロメロになってる人じゃない?
主観的に32歳である拓人からすればアリアンナも十分に子どもと言っていい年頃だが、そのアリアンナにとっても今の拓人は、明白に子どもだろう。
庇護欲をそそられるのは、まあ、分かる。
分かるが、そんな勢いで猫のように人を拾って良いのかは大いなる疑問だった。
「あなたのお名前は?」
「それも……」
今の自分が『通野拓人』を名乗るわけにもいくまい。
記憶喪失設定に則って、何も思い出せないという事にした。
するとアリアンナは少し、考え込む。そして大体8秒後に、ぱっと閃いた。
「じゃ、アルテミシアって……どうかな」
「あるてみしあ?」
「とりあえずの名前。
その綺麗な緑色の髪、
肩の辺りまでの長さの、ふんわりした髪を、拓人は手に取って顔の前にかざす。
その髪は、蓬の若葉と言われれば、確かにそうも思える。
「アルテミシア……そう、ですね。そう呼んでください」
拓人改めアルテミシアは、どうせ仮の名前だからと、軽く承諾した。
それこそ猫の名前を決めるようなお気軽さで決まってしまったような気もするが、拓人を軽んじてのことではないだろう。おそらくアリアンナは深く思索するより、感覚に従って生きることこそ己の本分と定めているのだろう。
「私の名前はアリアンナっていうの。アリアでいいよ!」
既に神殿長が呼ぶのを聞いて、アルテミシアは彼女の名を把握していたが、改めての自己紹介。
日向の匂いが漂うような笑顔で彼女は言った。
「それじゃ一緒に寝よう、アルテミシア。
ごはん食べたし、治療もしたし、後は寝れば身体は良くなるよ!」
そして、アリアンナはいそいそと毛布に潜り込んできた。
決して大きくはないソファーの上で、アルテミシアを抱き込んで、彼女は無理やり添い寝した。
温かくて柔らかいものにアルテミシアは包まれた。
――やっぱりこの子、俺のこと、拾った猫か何かだと思ってるんじゃ……
大いなる疑問と先行きへの不安をアルテミシアは感じていたが、それはそれとして身体は弱り切っていた。まばたきをした瞬間に意識が飛んで、夢も見ないほど深い闇の中に落ちていった。
* * *
これがゲームなら一晩眠ればHPが全回復するところだが、寝て起きてもアルテミシアの身体は鉛のように重かった。まだ身体に力が戻っていないのだ。
なんでこんな半端な形で異世界に送ったのか、あの白スーツ男をカレーうどんの上に吊して尋問したいところだが、ともあれアルテミシアは暖炉の前でソファに寝ているしかなかった。
ひたすら寝ているしかないと、じっくり考え事をしてしまう。
まずアルテミシアは、自分が今までの何もかもを失って別の世界に来たのだという事を、少しずつ実感していった。残っているのはかつての記憶と経験ぐらいか。
失って惜しいものなど無かったと思うけれど、だとしてもそれは衝撃的な体験で、ふとした瞬間に手足の先が冷たくなるような感覚を覚えた。
次に、自分はもう本当に『通野拓人』ではないのだと理解した。……精神的にではなく、主に肉体的に。
写真の背景を雑に拡大したかのように、世界の縮尺が狂っている。天井は高く、周囲の者が皆、大きい。手足をめいっぱい伸ばしてもソファからはみ出さない。
まるで巨人の国に来たような心地だが、周囲が大きいのではなくてアルテミシアが小さいのだ。
問題は身体のサイズだけではない。
アルテミシアは、アリアンナが近くのテーブルに置いていった古い手鏡に、恐る恐る手を伸ばし、覗き込んだ。
「……………………」
緑髪碧眼の超美少女が、やつれた仏頂面で鏡の中からこちらを見ていた。
アルテミシアは平均して一時間に一回のペースで同じ事をしていた。
幾度、鏡を見ても、そこに居る少女が自分だと考えがたい。
もしかしたら全ては何かの間違い、あるいは幻覚で、ふとした瞬間に自分が男に戻ってはいないものかと思ってしまう。
だが、そうはならない。
これこそが現実なのだと、少しずつ認識せざるを得なかった。
手鏡を持つ手すら、小さく白く柔らかい。
凄まじい違和感だ。
自分でも意外なほどだったが、いきなり別の体にされた事は、異世界に飛ばされたらしいという事以上の衝撃だった。
なにしろ少年ですらなく少女の身体である。自分はここに居るべきでない、今すぐにこの身体を脱ぎ捨てたいという、居ても立ってもいられない感覚だ。
とりあえず元の身体に戻して欲しい。だが、そんなこと、誰ができるだろうか。問答無用で拓人を少女にした、あの『転生屋』以外に心当たりは無かった。
「はいこれ、着替え! 私が小さい頃に着てた服の残りとか……あと、足りない分は同じくらいの年の子から借りてきたの」
「あ、ありがとう……ございます……」
アリアンナが布の小山を持ってきて、顔が引きつらないよう自制しながら、アルテミシアはお礼を言った。
着古された素朴な衣類。それは当然のように、少女のためのもの。
様々な柄で、ちょっとばかりフリルもどきの飾りなんかも付いている、簡素なワンピースが四枚ほど。昼間は暖かい季節だ、毛布と暖炉があれば、夜でもこれで十分だろう。
そして……下着。下着である。胴体だけを隠すワンピースのような薄布であるとか、はき慣れたトランクスと比べると恐ろしく小さく見えるおパンツとか。
もちろん今は少女の身体なのだから、男物を身につけるのもおかしいと、理性で理解はできる。だがそれで気持ちを割り切れるかと言えば、また別の話だった。アリアンナの厚意を無碍にもできない。こちとら命を救われて世話になっている立場だ。
森で倒れていたアルテミシアは、ぼろ布と言ってもいいような泥まみれの服を身につけていた。流石にそれを着たままでは居られない。
アリアンナが持ってきた服をなるべく直視しないように着替え、すぐに毛布にくるまって、アルテミシアは自分の目から隠した。
だが、肌にピタリと張り付くような下着の感覚と、素肌の内股が擦れ合う感覚は、ひたすら異様で恥ずかしいものだった。
足がまだふらつくので、一人ではまともに歩けない。
だがそれは身体が弱っているからなのだろうか? 当然それもあるだろうが、急に身体の大きさが変わったので、歩く感覚も大きく変わり、それに意識が付いて行けないためだろうとアルテミシアは考えた。
ともあれアリアンナの肩を借りて、アルテミシアはトイレに行った。
「…………………………」
無い。
その感覚にも、まだ慣れなかった。
* * *
アリアンナによれば、ここはレンダール王国という国の、南西の果て。
すぐ近く(『近く』の感覚が現代日本人とは結構違いそうだが……)にグライズボウという街があるらしく、この場所はグライズボウの衛星農村の一つ、コルム村だ。
――地理も歴史も自信無いけど……やっぱり地球上じゃないよな。
あの怪しい白スーツの男が言った通り。
アルテミシアは異世界にて第二の生を得たのだ。
それが祝福か呪いかは分からないけれど、常識的にあり得ないはずの出来事だというのは確実だった。
「こんな、なんでもかんでも聞いちゃってごめんなさい」
「いいのいいの! 弟がちっちゃかった頃を思い出すわ。何を見てもなぜなぜって聞いてくるの」
アリアンナは、諸々の仕事をなるべく家に持ち込んで、アルテミシアに付き添っていた。
彼女と話すことで、アルテミシアは周囲の状況を把握した。
記憶喪失設定で通しているとは言え、アリアンナは基礎的な質問にも快く答えてくれる。ちょっと申し訳なく思うほどだった。
このコルム村は農村で、アリアンナの一家も農家であり、米と季節ごとの野菜を作っているという。
一家は六人。アリアンナと、その父と母と兄と、弟二人。ただし家に出入りしているのはアルテミシアが見る限り、アリアンナと父母の三人だけだ。
兄は街での暮らしに憧れ、衛兵(要するに警察官らしい)になって村を出た。弟たちは兄のところに泊まり込んで、街の学校に通っているらしい。
父は、次男三男まで畑を捨てて、街で仕事を見つけてしまうのではないかと気を揉んでいるとか。
「その時は私が入り婿を取って、田畑を守ってもらうんだろうね」
それが当然で、夜の次に朝が来るのと同じように決まり切った未来なのだとでもいう口調で、アリアンナは言って微笑んだ。
農家の娘としては、それが当たり前なのかも知れない。日本ですら数十年前まで、そういう世の中だったのだから。
「……もひとつ聞いて良いですか?
神殿長様が、チート……悪魔の力のことを話していましたけれど、そういう力を普通の人が持ってる事ってあるんですか?」
お湯を浸した手ぬぐいで背中を拭われながら、アルテミシアは聞いた。
この家に屋内トイレはあるが、浴室は無い。
なんでも、村の神殿の浴場が実質的に村の共同浴場であるとかで、村人は週に2,3度、そこを使える日があるらしい。
そこまで行くのはまだ難しいし、そもそも村人でもないわけなので、アルテミシアは暖炉で湧かしたお湯を使って身を清めてもらっていた。
「それって『ギフト』のこと?」
「ぎふと?」
「特別な力を神様に貰って生まれてくる人も居るんだって。それをギフトって言うの」
おそらくは神殿長の受け売りであろう説明を、アリアンナはしてくれた。
「ギフトの力で大活躍して伝説になった英雄も沢山いるけれど、ギフトを持ってる人は百万人にひとり居るかどうかなんだって。
……私も何かギフトを持ってたら、すっごい良い暮らしができたんだろうなー」
白馬の王子様と出会うような、途方もない夢の話として、アリアンナはそう言った。
アルテミシアは曖昧に、生ぬるく笑って、誤魔化した。
==========
◇保有チート能力
【的射必中】
射撃や投擲を行う際、命中する可能性がある限り必ず命中します。
==========
視えていた。
アルテミシアには、アリアンナの秘めた、超常の才能が。
――【チート看破】って……そういう力か。
アルテミシアはひとまず口を噤んだ。どうしてそれが分かったか問われたらマズい気がしたから。
アリアンナが言った通りなら、おそらくこの世界には、『転生屋』とやらが送り込んだ転生者以外にもチートを持つ者が存在するのだろう。
それは本質的に転生者の持つチート能力と同じものだが、転生者を悪魔と考えているこの世界の人々は、自分たちが持つ生来のチートを『ギフト』と呼んで区別している。
――じゃあ俺も、転生者である事さえ隠せれば、変な力を持っているってバレても『ギフト』扱いされたらセーフなんだ。なるべく疑いを招かないようにはしたいけど……
借り物のシャツを脱いで裸になった己の上半身を、アルテミシアは観察する。
今の身体は、やせっぽちだ。
女性らしいしなやかな曲線は未だ兆しを見せるのみで、腕も脚も折れそうに思えるほど細く、脇腹にはあばら骨が浮いていた。
『おうちのおてつだい』レベル以上の肉体労働は、とてもできそうにない。では他に、どんな働き口があるだろうか。仕事探しという言葉は、頭に浮かべるだけで憂鬱になる。
アリアンナと一家の慈悲に縋り、命を救ってもらったが、赤の他人をいつまでも家においてはおけないだろう。
もし入念に警戒するのであれば、チートとやらは一切使わない方がいいはずだが、リスクを冒してでも多少のズルをしなければ、この先の人生がとんでもないハードモードになるという予感があった。
「アリアさん。薬草類とかって、家に置いてます?」
「えっ? 薬草って……
お腹痛くなったときに飲んだり、傷に塗ったりする薬草だよね?
もちろん置いてるよ」
「少し、頂いてもいいでしょうか。命を助けられた恩返しがしたいんです」
アルテミシアは、腹を括った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます