一之九

 大岩の上に座している老人の頭上に載る巨大な酒器が目に飛び込んできた瞬間、幽鴳の目の色が、みるみる変わり始めた。


「まさか……!」

 そう呟くと、幽鴳はのどをごくりと鳴らし、生唾なまつばを呑み込んだ。

 

 丸木舟が、ごとん、と音を立てて湖面と陸の境い目にある地面に乗り上げ、動きを止めた。

 人の気配を身近に感じ取っているのにも関わらず、大岩の上の老人は空に浮かぶ白い三日月を静かに眺めながら、ぴくりとも動かなかった。生きているのかとこちらが疑いをいだくほど、微動だにしない。


 丸木舟から陸の上に降り立つと、蒼頡達は大岩の上に座している老人に向かって、ゆっくりと近づいていった。


 薄明かりに浮かび上がる老人の横顔が、大岩に近づくにつれ、徐々に見えてきた。大岩は、陸吾の身長よりも頭一つ分大きかった。


 蒼頡達は皆、大岩の下から老人の横顔を見上げた。

 月明かりに淡く照らされた老人の姿が、蒼頡達の目にぼんやりと映り込んだ。

 酒器の載っている老人の頭頂部は、禿げている。

 腰まで伸びる長い白髪はくはつが、耳裏の辺りから背中の上に沿って、腰の下へと絹糸のように美しく流れていた。

 横から見ると、鼻柱びちゅうからも、長く白いひげが腹の中心にまで流れるようにさらさらと伸びていた。

 一目見ただけで、この老人の内から湧き出る品性の高さが感じ取れた。


「もし」

 蒼頡が、老人に声を掛けた。


 蒼頡の声が耳に入った瞬間、まるで止まっていた時が突如流れ始めたかの如く、ゆっくりと、老人が蒼頡達のたたずむ方向に目を向けた。


 白くふさふさと垂れ下がった眉の隙間から、ぎらぎらと光る小さな、星のような瞳が覗き込んでいる。その鋭い眼光が、蒼頡や与次郎、陸吾、狡、幽鴳の顔を、一つ一つとらえていった。


 直後、老人は口を横にぐうっ、と広げ、黄色い歯をき出しにしながら、にんまりと、満面の笑みを浮かべた。


「────しゃ、しゃ、しゃ!

 やはり来たか! 蒼頡」


 異様な笑い声を発した後、老人がたのしそうに、しゃがれた声を上げた。

 蒼頡の瞳がぐっと大きくなり、老人を見つめる眼差しが、自身の瞳の奥底の方で、一瞬きらりと輝いた。

 

「────やはり来たか、と仰いましたね。

 わたくしのことを、御存知ごぞんじで」

 蒼頡がたずねると、老人は大きくうなずいた。

 次の瞬間、まるで流れる水のように、老人は語り始めた。


「ああ……ああ。いかにも。知っておるぞな。

 蒼頡よ。帝鴻ていこうのひとり息子よ。

 因果いんがとは、恐ろしいものぞな。いつかはここに来ると思っておったよ。

 いやあ……しかし。実に、なつかしいぞな!

 お前さんの父親がここに来た日の事を、わしは今でもはっきりと覚えておるわ。その目、瓜二つぞな!

 しゃ、しゃ、しゃ! よう来た! よう来た!

 ふむ。帝鴻ていこうはどうだ。元気か」


 老人がそう問うと、それまできらきらと輝くような好奇心に満ちていた蒼頡の顔つきが、ほんのわずかに、暗く曇った。


「……いえ。わかりませぬ。

 実は三、四年程前から、行方ゆくえがわからなくなりまして」

 

 蒼頡がそう言うと、老人はみるみる真剣な表情に変わっていった。


「ほう……なんと。行方がわからぬのか」

 老人が、今度は眉をひそめながら言った。


「ええ。生きていると……信じてはおりますが」

 そう言葉を返した後、

「父も貴方様の元に────この地へ来たことがあるのですね」

と、蒼頡が続けて言った。


「ああ……ああ。いかにも。

 大昔に一度だけ────ここへ来たぞな」


 そう言うと、老人は蒼頡の瞳を、じっ、と見つめた。


「無礼を承知でお伺いいたしますが……。

 貴方様はいったい」

 蒼頡が老人に問うた。

 その瞬間、老人が面を食らったような表情になった。


「しゃ! しゃ! しゃ! ああ、そうであったわ!

 いやいや。名乗らぬ方が無礼であるぞな。許せよ。

 わしの名は、狄希てききと申す。

 この地は────中山国ちゅうざんこくという」


 大岩の上で老人が狄希てききと名乗ったその瞬間、話の途中にも関わらず、蒼頡の横に立っていた幽鴳が「なに!」と大声を上げた。

 狄希てききは、横目でちらりと幽鴳の姿を見やってから、

「ここで酒をつくりながら、気ままに過ごしておるぞな」

と、続けて言った。


 幽鴳が、大岩の老人に向かって、ぐっと身を乗り出した。


「まさか……まさかとは思ったが!

 ちゅ、中山国の、────狄希てきき仙人ってえのは……ッ、あんたのことかっ!」 


 幽鴳の言葉に、狄希はまたしても、

「しゃ! しゃ! しゃ!」

と、独特な笑い声を上げた。



「いかにも。中山国ちゅうざんこく狄希てききとは、わしのことぞな。

 ただし、ひとつ語弊ごへいがある。

 わしのことを勝手に仙人と呼ぶものがこの世に少なからず、おるらしいが……、それは間違っておる。

 虚誕きょたん妄説もうせつ! 仙人なぞとは、まったくもって程遠い存在よ。

 美味い酒と、お前らのようなたまに来る客人だけが生きがいの────死に損ないの、孤独な年寄りぞな」


 そう言うと、大岩の上の老人は再び口をぐぅっと横に広げ、黄色い歯を剥き出しにしながら、実にたのしそうに、またしてもにんまりと、満面の笑みを浮かべたのであった。

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