一之八

 横殴りの大雨が、壊れたやぐらの壁や床を間断かんだんなく叩きつけている。

 嵐は未だ衰えを知らず、轟々ごうごうと吹き荒れる雨風が瓦礫がれきの隙間から絶えず押し寄せ、蒼頡達の頬や衣服、全身をじっとりと濡らし尽くしていた。


 蒼頡、与次郎、陸吾、狡、幽鴳の五人は、娘が乗っている大杉の丸木舟の上に、それぞれ乗り込んだ。

 

 五人全員が乗り込んだことを確認すると、娘は丸木舟に目を落とし、

「────では、参ります」

と、小さく呟いた。



 次の瞬間────。




 六人の乗った舟は、水の中にいた。


 舟の先頭に、娘がしている。

 陸吾や幽鴳が娘の美しい後ろ姿に見惚みとれていたのは、ほんの一瞬のことであった。

 先ほどまで蒼頡達が見ていたはずの、壁が壊れ、外を嵐が吹き荒れていたやぐら内の景色が、またたきと共にがらりと一変した。



────息ができない。


 視界は真っ暗で、何も見えない。

 ごぼり、と、幽鴳が大口を開けて、空気を吐いた。

 空気の泡が上に昇って、暗闇の中に溶けて消えた。

 他の四人も同様に、口から空気の泡をごぼ、と吐き出した。

 与次郎と陸吾が、片手で鼻と口を覆った。

 蒼頡はそでで鼻と口を覆い隠し、狡は片腕で口元を覆った。

 幽鴳は、自身の喉元のどもとを鷲掴みにして、苦しんだ。


 直後、凄まじい速度で舟が進んで行くのを、五人は肌で感じ取った。

 水流が、五人の男達の顔を激しく殴りつけてくる。

 舟がぐんぐんと速度を上げる。

 凄まじい水流に飲まれながらも、五人の男達が舟の上から振り落とされることは無かった。まるで一人ひとりの身体が丸木舟の母体に絡みつき、舟と一体化しているかのような感覚であった。


 完全に、水の中にいる。

 呼吸ができない。

 の光は、一切見えない。

 深く閉ざされた闇の底に突き落とされた感覚────。


 苦しさのあまり、みな意識が朦朧もうろうとし始めていた。

 五人の男達は舟の上でただひたすら、息が続く限り必死に耐え続ける以外、すべが無かった。



 すると、上方じょうほうに一筋の小さな光が、きらりとともった。

 その光に向かって、舟が勢いよく上昇するのが感じ取れた。

 舟は速度を保ったまま、光に向かってどんどんと近づいていく。

 光がみるみるうちに、大きくなっていく。



(────これ以上は息が────)

 遠のく意識の中、そう思ったと同時に与次郎がいよいよ水流を大量に飲み込みかけた、その時であった。




 ざばり、と大波が立ち、丸木舟が、水上に飛び出した。

 


 ずぶ濡れになっている五人の肌に、冷たい空気がきりり、と触れた。



「────げほっ、げえっ!」

「がはっ! はあっ!」

「ぶはあっ、はあっ、はあっ!」

 


 水を吐き出し、息も絶え絶えになりながら、五人は激しく空気を吸い込み、呼吸を整えた。

 新鮮な空気が、各々おのおのの肺の中に充満していく。

 顔に赤みが差し、頭の天辺から足の指先まで、全身に血液がどくどくと循環するのが感じ取れる。

 五人の生気が、みるみる戻っていく。


「はーっ……。ふぅー……」


 息が整い落ち着きを取り戻した与次郎が、多少の眩暈めまいを覚えながら、周囲をぐるりと見回した。



 見ると、そこは竹林ちくりんが拡がる巨大な湖の上であった。

 水中では激しい水流に思えたが、上に出てみると湖面は実に穏やかで、風は無い。波など一切立ってはいなかった。


 空気はひんやりと冷たい。湖面や竹林は白い霧にうっすらと覆われ、視界はよくない。

 朝靄あさもやのような空気感が漂う中で与次郎がふいに天を仰ぐと、妙に明るい空の上に、白い三日月がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。

 湖面からは何千本という竹が水中からそこかしこにびっしりと生えており、巨大な竹林のせいで、湖面の大きさが一体どの程度まで広がっているのか、見当がつかない。

 竹の葉が湖の上に幾枚も落ち、丸木舟の周りに集まって、水面で静かに揺らめいていた。


 与次郎はその光景を、ただ呆然ぼうぜんと見つめるばかりであった。

 まるで時が止まっているかのような、静謐せいひつで穏やかな空間であった。


「どこだここは」

 狡が思わず声を漏らした。


 すると、

「酒の匂いだ」

と、幽鴳がおもむろつぶやいた。

 

 その言葉を合図にするかの如く、丸木舟が、幽鴳の見つめる先と同じ方向に向かって、湖面をするすると静かに動き始めた。

 

「酒の匂いだぁ……? そんなもん、全くしねえぜ。

 飲み過ぎて、いよいよ鼻までおかしくなっちまったか」


 陸吾が、鼻をすんすんと動かしながら言った。

 与次郎も陸吾と同様、酒の匂いは一切感じなかった。

 狡はうっすらと感じ取っているようであったが、幽鴳の言葉に賛同はしなかった。


 水中をあれほど激しく進んでいた丸木舟は、先程とは打って変わり、水面をゆっくりと進み続けていた。何かにいざなわれるかのごとく、静かに、何かの意志を持って進んでいるようにみえる。

 舟の先頭に座している娘は、身動き一つ取らず、正面を真っ直ぐに見つめ続けるばかりであった。


「どこに向かってんだ」

 陸吾が、娘の背中に向かってたずねた。

 陸吾の問いに娘は何も返答せず、真っ直ぐ前を向いたまま、一言も言葉を発しなかった。


 竹林の間を縫うように、舟がじりじりと湖面を進んで行く。

 進んで行くごとに濃くなっていく白い霧が、与次郎の心にざわざわとざわめく妙な不安をいだかせていた。


「きた。濃くなってきたぜえ……酒の匂いが」

 幽鴳が言った。


 丸木舟がさらに奥へと進んで行くと、やがて湖の端が見え、陸が見えてきた。


「ん? なんだ……。

 誰かいる」

 陸吾が声を上げた。


 湖の端に大岩があり、その上に、何者かが座している。

 少し、異様な姿である。

 こちらに背を向け、頭の上に、頭とほぼ同じ大きさの酒器をせている。

 頭頂部は禿げているが、耳から下に、腰まである長い白髪が伸びていた。

 

 湖面に背を向けているその老人は、静かに天を仰ぎ、空に浮かぶ白い三日月を、大岩の上からただぼんやりと、眺めていたのである。


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