一之六

「むかしむかし、藁科川わらしながわの上流に日向ひなたという集落があって、そこにひとりの美しい娘がおった。大そう器量よしで、両親もたいへんに可愛がっていたそうだ。

 ところがある日、その娘のもとに、しのんで夜な夜なかよってくるひとりの美しい若者が現れた。

 毎夜逢瀬おうせを重ねるその若者を怪しんだ娘の両親が若者の正体を探ると、なんとそれは村の神社の大杉を守護する、神の大蛇の子どもの木霊もくれいであった。

 父親はたいへんにいかって、大杉を切り倒して丸木舟まるきぶねにし、娘を乗せて藁科川に流してしまった。

 舟が流されたと同時に、川の周囲に突如強風が巻き起こり、山は震え、激しい雨が降り始めた。

 娘が流されていく姿を見た母親が驚愕きょうがくし、たらいに乗り込んで、慌てて娘のあとを追った。

 娘の乗った丸木舟は舟山の辺りにまでみるみる流されてゆき、島に近づいたとみるや、そのまま川の中に沈んでしまった。

 母親の乗ったたらいも、娘の乗った丸木舟に追いつけず、一つ手前の木枯森こがらしのもりの辺りで丸木舟と別れてしまい、そのまま川の底に沈んでしまった。

 以来、娘の沈んだ島を「舟山ふなやま」、母親の沈んだ島を「焦がれしの森」と呼び、いつしかその名は「木枯こがらしの森」となった。

「こがらし」の由来は、母親が娘に焦がれたことに由来してつけられたという。


────かような伝説が、地元民の間で今なお、語り継がれているのでござりやす……」



 やぐらの見張り番が、蒼頡と与次郎に向かってそう語った。

 話を聞き終わると、蒼頡は「ふむ……」と声を漏らし、じっくりと考え込んむような素振りを見せた。そうして今一度、藁科川わらしながわ安倍川あべかわのぶつかる地点に存在している川中島かわなかじまへと、目を向けた。


「こがれしのもり……」

 与次郎が、無意識にぼそりと一言、そうつぶやいた。


 すると、今まで晴れ渡っていた物見窓の外の様子が突如薄暗くなり、天がみるみるぶ厚い雲に覆われ始めた。

 程なくして、黒雲に覆われた天上から、ざあざあと激しい雨粒が、地上に向かって勢いよく降り始めた。

 突如降り出した大雨によって窓の外の風景はあっという間に不穏な豪雨の渦に飲みこまれ、それまで物見窓から見えていたはずの川の様子が、よく見えなくなった。


「……む」


 蒼頡が、降りしきる雨の様子を窓から眺めながら、再び声を漏らした。与次郎が、蒼頡の横顔をちらりと見た。

 やがて、窓の外をじっと眺めている蒼頡の目が、きらりと輝いた。


「……与次郎。────見よ」


 窓の外へ向けている己の視線を外さないまま、蒼頡が与次郎に向かって言った。

 与次郎はすぐさま、蒼頡と同じように物見窓の外を眺めた。しかし、窓の外はざあざあと激しく降り注ぐ豪雨によって視界が遮られ、与次郎の目には雨以外、特に何も見えることはなかった。


────と、何も見えぬと感じた与次郎が一瞬気を抜いた、その時であった。

 与次郎は、異変に気付いた。



 豪雨の中、遠くに一ヶ所だけ、ぽっかりと不自然に、黒雲の渦に穴が空いている情景が目に止まった。辺り一面、天上はぶ厚い暗雲に深く覆われているにも関わらず、なぜかその一部分だけは、厚い雲の穴の隙間から、雲の上に隠されていた陽光が雨の代わりに地上に穏やかに降り注いでいるのが目に見えた。

 

「あの光……。

 木枯森こがらしのもりしている」


 蒼頡が言った。

 雨によって、与次郎の瞳にはぼんやりとしか見えてはいなかったが、陽の光は蒼頡が言うように、木枯森こがらしのもりの上に、確かに降り注いでいるようであった。


────その時である。

 ごう、と鳴り響く凄まじい風の音が、やぐらの中に響き渡った。

 風音はごうごうと激しくなり、みるみるその音は大きくなっていく。

 直後、豪雨を切り裂いてこちらに一直線に向かってくる巨大な何かの姿が、与次郎の目に止まった。



「────下がれ!」



 蒼頡が叫んだ、その時。



“────どおおおおううううんんっ”




 凄まじい爆裂音と共に、蒼頡と与次郎、見張り番のいたやぐらの上階に、巨大な何かが、壁を破壊しながら勢いよく突っ込んできた。

 あまりの衝撃に、大の男三人の体はふわりと浮き上がり、見張り番の男は受け身を取ることができず、そのまま階段からごろごろと転がり落ちてしまった。


 やぐらの壁は物見窓ごとがらがらと崩れ去り、激しく降る雨とほこりの入り混じった煙が、やぐら内にもうもうと立ち込め出した。


 煙の中、やぐらに突っ込んできた巨大な何かが、ずずず、と床をいずる不気味な動きを見せた。


 与次郎は思わず、息をんだ。


 それは、巨大な蛇のように見えた。


 長い胴体をしゅるしゅると、流れるように左右に波打たせながら、やぐらの床をずるずるとせまそうにいずり、動いている。

 


 動きはまさに蛇そのものであった。……しかし、それは蛇では無かった。



 まるで大蛇だいじゃのような動きを見せるその物体の正体は、大の男が十人は乗り込めるほど巨大な、大杉の丸木舟であった。


 与次郎が目を丸くして蛇のような丸木舟を呆然ぼうぜんと眺めていると、横にいた蒼頡が身をぐっと乗り出し、そのままゆっくりと、舟に近づき始めた。

 蒼頡の背中を見つめながら、同時に与次郎はまたしても、はっと息をんで驚いた。



 丸木舟の上に、何かが乗っている。



 


 

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