一之四


 二つに割れた岩の片方が、ゆらゆらと揺れ動いた。


 闇夜の中ですでに目が慣れていた蒼頡と与次郎は、揺れ動いている大岩に、意識をぐっと集中させた。


 初めはうっすらとしか見えていなかった揺らめく岩の輪郭が、やがて夜空に浮かぶ星々の輝きをてらてらと反射しだした。

 生々しい輝きを放ちながら、大岩がゆっくりと、二人に向かって近づいてくる。

 岩の全貌が明らかになった瞬間、与次郎はぎょっと驚き、思わず全身に力が入った。


 それは、岩では無かった。


 成人した男の身長より、顔一個分ほど背が低い。

 全身が満ち満ちとした重厚な肉感に覆われており、その表面は、人間の肌によく似ている。

 首は無い。鼻も口も無い。

 目かと思われる位置に二か所、上瞼うわまぶたの肉が垂れ下がって落ちている。

 腕や足は、そのてらてらと光るぶ厚い肉の隙間に埋もれている。

 そこから生えているわずかな手足は、普通の人間と比べると異様に短く見えた。ぶよぶよと膨れている巨大な顔の横から、腕の無い手と、ももの無い足が生えたような姿であった。


 

(これが肉人か────)

と、与次郎は思った。まさに門番から聞いていた通りの、そのままの姿であった。

 しかし、同時に与次郎は思った。

 実物は想像以上に奇怪で異様な姿であり、そしてなんとも言えず、不気味であった。

 

 目の前に現れた肉人を警戒し、与次郎は険しい表情になった。

 すると、肉人はおもむろに、右手をゆっくりと上に上げ始めた。

 周囲に、稲妻のような緊張感がほとばしった。

 肉人の不穏な動きとともに、周りの空気がみるみるうちに張り詰めていく。

 肉人の右手が上がり切る前に、与次郎がぐっと片足を踏み込み、肉人に向けて攻撃態勢を取ろうとした────その寸前。

 蒼頡がさっと素早く右腕を上げ、肉人に飛び掛かろうとする与次郎の動きを制した。


 肉人は、ゆっくりと、上げた右手の人差し指を、天に向かって差した。

 次に、その指をつつつ、と静かに眼前に下ろし、肉人はある方向を差した。


 肉人が差した方向は、ひつじさる(南西)の方角であった。


 次の瞬間、蒼頡の瞳が、流星のようにきら、と輝いた。

 与次郎は、蒼頡の顔を横目でちらちらとうかがいながら、肉人の挙動に全神経を集中させていた。

 

「……承知いたしました。

 しかと、受け取りました。

 申し訳ござりません……。

 を知らせるために、わざわざこの地に参上なさって、再び姿を見せてくださったのですね」


 蒼頡が、肉人に向かって慇懃いんぎんに言った。

 肉人はひつじさるの方向を指差したまま、蒼頡の言葉に特に反応することもなく、微動だにせず、ただその場に静かにたたずんでいるだけであった。


「今宵で、最後でござりますね。ふう殿。

 これで、御用は御済みでござりましょう。

 有難うござります。心から、感謝いたします」


 蒼頡が肉人に向かってそう言うと、肉人はゆっくりと、上げていた右手を下に下ろした。

 同時に、目の前にいた大岩のような不気味な肉塊が、突如霧のように姿を消した。

 与次郎はどきりと目を丸くし、辺りをきょろきょろと素早く見回した。

 肉人の気配はあっという間に消え去り、御殿の中庭は、肉人が現れる前の、静かで穏やかな夜に戻っていた。


「……もう、二度とここには現れないでしょう」

 蒼頡が与次郎に向かって、落ち着いた口調で言った。


「い、いったい……どういうことなのでござりますか」

 与次郎はさっぱり理解ができず、言葉を詰まらせた。

 

「あの御方は、神の化身です」

 蒼頡が言った。


華胥かしょの地へ行くためのちょっとしたを授けてくれました」


「……、でござりますか」


 与次郎が聞き返すと、蒼頡がにこにこと、満面の笑みを浮かべた。


「ええ。ほんに、有難いことですな。

 さ。ではもう夜も遅いですし、明日に備えて、今宵はひとまず寝所に戻って、さっさと寝るとしましょうか」

 

 満足気な様子でそう言うと、蒼頡はくるりときびすを返し、何事も無かったかのように、寝所の方向に向かってすたすたと歩き始めた。


 与次郎はわけがわからぬまま、闇の中で去り行く蒼頡の背中をしばらく見つめていた。


 ちらりと中庭の方を振り向くと、夜空に散りばめられた無数の星々が、与次郎の瞳をただただきらきらと、静かに照らし続けるばかりであった。







◆◆◆






「肉人には会えたのか」


 翌日の朝餉あさげの席で、陸吾が与次郎に向かってたずねた。


「はい。不気味な姿ではございましたが、ひつじさるの方角を差して、すぐに消えてしまいました」


 与次郎がそう言うと、

ひつじさるの方角う?」

と、酒気の混じった息を深く吐きながら、幽鴳が聞き返した。


「このっ……朝からどんだけ呑んでいやがる、この猿っ!」

 狡が、険しい表情で自身の鼻を摘まみ上げ、幽鴳に向かって悪態をついた。

 見ると、幽鴳は一つの見慣れぬ大きな酒器を握り締めていた。

 酒器の真ん中には、三つ葉葵の紋がくっきりと刻印されていた。


「……盗んだな」


 葵の紋の入った酒器と幽鴳の真っ赤な顔をじろりと睨みつけると、陸吾が一言、ぼそりと呟いた。


「幽鴳殿!」

 与次郎が思わず声を上げると、

「ち、違ぇぜっ! 誤解だぜえ! 見ろ、口がちょいと欠けてんだろう。

 夕べ、たまたまこの夕餉ゆうげの近くですれ違った女中がこいつを持ってて、ちょいと声を掛けてみたら、中身ごとてちまうっていうもんだから、棄てるなんてもったいねえってんで、俺が代わりにこいつをもらったんだ。

 こんな立派な酒器と美味うまい酒を棄てるなんざ、そんなもったいねえことさせるかってんで、譲り受けたってわけだ。

 口が欠けてたって、中身は同じだろう。

 まったく……呑まずに棄てるなんざ、俺様には考えられねえや」

 

 幽鴳はそう言って、その酒を一口ぐびりと口に含んだ。

 見ると、確かに幽鴳が握り締めている酒器の注ぎ口が、ほんの少しだけ欠けていた。

 

 与次郎が、幽鴳が手に入れた立派な酒器をまじまじと見つめていると、とたとたと軽やかな足音と共に、蒼頡が姿を現した。


「良い朝だな」

 にこやかにそう言うと、蒼頡はふ、と、幽鴳が持っている葵の紋の入った酒器に目を止めた。

 蒼頡がその酒器をしばらくじっと眺めていると、

「ぬっ、盗んだんじゃねえぞう! 蒼頡さまよお!」

と、突如幽鴳が声を上げ、自身の胸元に大事な酒器をぐっと抱き寄せた。

 一瞬我に返ったかのような表情を見せた直後、蒼頡の両のほおが、ふ、とゆるんだ。


「あははっ! わかっておりますよ。

 さ。朝餉あさげを頂きましたら、皆で向かいましょうか」


 蒼頡はそう言うと、ぼんの前に腰を下ろして素早くはしわんを持った。


「向かうって、何処どこへ」

 陸吾が、蒼頡に向かってたずねた。


 口の中に雑穀米を放り込むと、もぐもぐと米の味を一つ一つ噛み締めながら、満足そうにごくりと飲み込んだのち

「この城のひつじさるの方角に建っている、やぐらです」

と淡々と答えてから、蒼頡は味噌汁をすす、と、上品にすすったのであった。

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