一之三

 そのあやかしが初めて駿府すんぷの城に現れたのは、およそ二年前のことであった。

 御殿ごてんの中庭に巨大な肉塊にくかいが動いているのを一人の公達きんだちが見つけ、騒ぎになった。

 城に従事じゅうじする男たちが慌てて中庭に駆け付けると、成人した男の背丈より顔一個分程小さい、全身が肌色に覆われた生々しい肉の塊のようなものが、朝陽の差し込む御殿の庭の真ん中で、早朝の清々しい光に照らされながら立っていた。

 その光景を見た瞬間、集まった大人たちは皆ぎょっと驚いた。

 首は無い。鼻も口も無い。

 目かと思われる位置に二か所、上瞼うわまぶたの肉が垂れ下がって落ちていた。

 垂れ下がる二つの肉を見て、顔はこちら側かと判別できた。

 腕やももは、そのてらてらと光る重厚な肉の隙間の中にうずもれており、そこから生えているわずかな手足は、普通の人間と比べると異様に短く見えた。

 それほどに肉はぱん、と張り満ちており、しかし両脇の辺りはぶよぶよと柔らかそうな肉感を保ち、どの部位を見ても分厚く、また、巨大な顔の横から手足が生えたかのようなその姿は、見るもの全てに嫌悪感を抱かせるものであった。

 のちに“肉人にくじん”と呼ばれたそのあやかしは、突如駿府すんぷの城の中庭に姿を現し、目にしたもの達全ての心に、なんとも言えない強烈な衝撃を与えたのであった────。





◆◆◆




「……実におぞましい姿であったよ」


 奥に立っていた門番が言った。


「城の男どもがこぞって肉人に近づき、慌ててそいつを捕らえようとした。

 しかし見た目とは裏腹に、その動きはまるで蝿のように俊敏で、捕らえることなどできなかった。大の男どもが一斉に襲い掛かっても、捕らえたと思った次の瞬間には手ごたえが無く、驚いたことに、気がつくと肉人は全く別の場所に移動しているのだ。

 目の前に気味の悪い化け物がいるというのに、今一歩のところで、誰一人としてその肉の塊を捕まえることができなかったのだ」

 

 門番の話に黙って耳を傾けていた蒼頡が、おもむろに口を開いた。


「……ふむ……。なるほど。

 それで、どうなったのですか」


「江戸殿の耳に入ったのだ」

 別の門番が言った。


「騒ぎを聞いた当時の近侍きんじが、在城されていた江戸殿にお伺いを立てに向かわれた。

 江戸殿は、『その化け物を城の外に追い出し、遠くに追いやれ』と仰られた。

 伝令を聞いて、男どもが肉人を何とか城の外へとうまい具合に誘導し、山の方へと追いやることに成功した。

 それで、ようやく城内の騒ぎが収まったのだ。

 肉人は山の奥に消えていった。

 のちにわかったことだが、その肉人の肉は仙薬で、食うと多くの力を得られる貴重なものであったらしい」


 門番がそう言い終えた瞬間、蒼頡の目が、きらりと輝いた。


「んで、その気味の悪い肉のばけもんってのが……二年越しに再びこの城に現れたってわけか」

 陸吾が、蒼頡の背中からひょっこりと顔を出して門番たちに問うた。


「ああ、そうだ。三日前の晩に、二年前と同じ姿をした肉人が突如、またしても中庭に現れた。

 夜、見回りをしていた男どもがはっきりとその目で見たと、口を揃えて言い出したのだ。

 男どもが目にした途端、その晩に現れた肉人はその時はすぐに、霧のように消え去ったそうだが。

 すると、なんと昨晩も出たのだ。やはり夜、庭を通った侍女が中庭にいる肉人を発見し、腰を抜かして、その場で気絶してしまったのだ」

 奥にいた門番が言った。


「肉人は今宵も現れるだろうよ。このままではこの駿府城が、肉塊の化け物が夜な夜な現れる薄気味悪い城として、あまりよくない評判が町に広まってしまうだろう。

 しかし名高き陰陽師である貴方様なら、この肉人を退治することなど……まあ、容易たやすいことであろうな」

 手前の門番が、冷たい目をぎらり、と光らせながら言った。


 その門番の目を見つめ返した蒼頡の瞳は、星のようにきらきらと輝いていた。


「ふむ。承知いたしました。

 では、今宵。その肉人が二度とこの駿府の城に戻ってこないよう、私がその肉人を退治いたしましょう」


 蒼頡が力強くそう言うと、三人の門番はそれぞれ互いに顔を見合わせ、各々おのおのが顎を小さく上下に動かして、目で合図をした。

 やがて門が開かれ、蒼頡たち一行は肉人退治を行うという条件のもと、駿府城内へと、ようやく足を踏み入れることができたのであった。





◆◆◆




 その夜。

 爽やかな夜風が、与次郎の頬をさらさらと撫でている。

 御殿の中庭には、与次郎と蒼頡の二人のみが、星を見上げながら待機していた。


 陸吾、狡、幽鴳の三人は揃って、肉人なぞには一切興味が無いようであった。

 夕飯を食べ終わると、蜘蛛の子を散らすかの如く、皆散り散りにどこかへ立ち去ってしまった。


 夜空には、無数の星々が燦然さんぜんと輝いている。

 これからおぞましい肉の塊の化け物が出現するなどとは到底思えない、実に清々しい夜半よわの澄んだ空気を、与次郎はその肌でひしひしと感じ取っていた。



「……肉人は現れるのでしょうか」


 ふと、与次郎が小さく呟いた。

 蒼頡が、ふふ、と含み笑いをした。 


「ええ。おそらく。

 きっと、姿を見せてくれるはずです。

 ちなみに────肉人の名は、“ほう”といいます」


 与次郎が、蒼頡の顔を見た。


「御存知だったのですか。

 肉人について……」

 

 与次郎がたずねると、蒼頡はにこにこと笑って、

だお会いしたことはありませんが」

と、一言だけ言った。



────その時である。


 星の光が降り注ぐ美しい中庭に据えられた立派な岩陰が、二つになった。


 蒼頡と与次郎が、同時に岩を見た瞬間であった。




 

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