憂はしげなコーパス
坂本忠恆
preludio (上)
ハニワというあだ名は、私が考えたものではないけれど、気に入っている。本人がどう感じているかは知らないが、大変に似合っていると思う。いや、似合っている、というより、彼女のどこか冷たい美しさに(女性的というよりかは男性的な美しさに)、このあだ名は温かみを与えてくれている。このいくらか間の抜けた音韻が、ある種のキャラ化の作用を及ぼして、彼女の印象を幾らか滑稽なものにしてくれている。(滑稽なんていう言い方をするのは失礼だろうか? 愛らしいといった方がいいだろうか? 現に埴輪という姓もあろうが……まあ、どうでもいいことだ)
今私は「冷たい美しさ」と言ったが、これはあくまで彼女の持つ静的な印象に過ぎない。動的な印象、つまりは、単に形態としての印象ではなく生きた一人の人間としての彼女の印象は、必ずしも冷感を与えるものではない。それとは逆と言えるほど対照的でもないが、六尺に垂々とするように思われる埴輪のようにひょろ長い背丈といい(実際にはそれほどの長身ではないことに逆に驚かされる)、男物の衣類を着こなす姿といい、長髪の美男といった具合の顔貌といい、またその顔に常に浮かんだじっとりとした微笑といい……つまり、これら諸々の作り物の感じは、言ってしまえば詐欺師じみていた。
油断のならない食えない男(女)。彼女に「ハニワ」などという滑稽なあだ名がついていなければ、恐らく学生時代の私は警戒して近づくことすらなかっただろう。
♪♪♪♪
お盆休みのある日の夜、帰省もせずに無聊を託つ私のスマートフォンに、ハニワからの不穏な着信があった。
「もしもし、私です」
「どちらさま?」
「画面に表示されているでしょう? それとも、私の番号を登録していない……?」
「……なにか用かよ」
聞くと、どうやら私を明日の同人誌即売会に誘いたいらしい。
「この間、少し気になると言っていたよね? 私が案内してあげよう」
「どうせ荷物持ちだろう」
「あいにく、私のメインは初日で終わり。つまり今日だね。もうヘトヘトだよ」
「なら明日は休みなさい。では」
「待て待て、休むだなんてありえないですよ。他に用事でもあるのかい?」
「……無い、が」
私は嘘を吐こうかとも思ったが、なんとなくそれは止した。
「決まりだね。お昼前に駅前で。私は先に行っているからね。着いたら教えてください。急ぐ必要はないよ」
貴重な連休を干物のように過ごすと決めていた私には、炎天下での急な外出は億劫だったが、半ば押し切られる形で承諾してしまった。そういえば、別件でハニワには頼みたいと思っていたことがある。丁度いい、そのための骨折りと思っておこう。予てから私たちの間で話題に挙がっていたことだから、電話の後でその旨簡単にチャットしたら、すぐに「了解」を意味する気味の悪いスタンプだけが返ってきた。
♪♪♪♪
心なしか埋立地の天日は普通よりも凄烈に思える。人いきれのせいもあろうか、熱気も尋常ではない。これでは本当に干物になってしまいそうだ。
「やあ!」
男物のカッターシャツを着こなしたその声の主はハニワだった。私は外会場のベンチに腰掛けて彼女を待っていた。
「駅前で待ち合わせと言ったのに! でもおかげで助かりました」
電話では駅の前で待ち合わせをするということだったが、駅前で待ちぼうけするのも嫌になる暑さだったので、私は即売会の会場にまで来てしまっていた。
「メインは昨日じゃなかったのかよ?」
彼女は両手両脇にたくさんの荷物を抱えていた。
「ちょっと、ね」
「ちょっと?」
おどけたような顔をしながら彼女は無言で荷物の半分を私に押し付けようとするので、私も無言でそれを拒んだ。
「ジェントルマンシップがなっていないなあ」
「それならおまえの方が心得ているんじゃないか?」
騙されたと思った私はこの詐欺師に軽くいじわるを言ってやった。
「……きみ、今すごく失礼なことを言いませんでしたか?」
♪♪♪♪
結局荷物は私が半分持ってやることにした。半分というのは私としては中々に際どい妥協点だ。恐らくハニワの方が私よりも体力があるから。
私たちは二人並んで内会場になっている展示場の入口まで人ごみを避けながら歩いた。
「案内してくれるんだろう? エスコートをよろしく頼むよ」
既に汗まみれで疲労困憊の体の私はわざとふてぶてしくそう言った。
「うーん。とは言っても、何か目的がなければなぁ。きみは何か目当てのものとかないのかい? 興味がある漫画とかさ」
「なんでもいいのか?」
「なんでもいいから言ってごらんなさい」
「そうだな、たとえば、詐欺師が懲らしめられて干物のようになっている漫画、とか」
私は考えなしにそう言った。
詐欺被害にでもあったのかい? と言いながらハニワはスマホで何かを調べ始める。私は冗談だと言って止めようとした、が。
「ほら、ありましたよ。干物と詐欺師の同人誌」
「本当か?」
彼女の示すスマホの画面を私も見る。
本当だった(想像していたのと少し違う気もしたが)。しかもひとつの同人誌の中に所望した二つの要素が併存している。一粒で二度おいしいと言うわけだ。いや、何もおいしくはないけれど。
「でも出店は明日だね。よし、じゃあ明日も来るかい?」
「まさか。そんなことをしたら今度こそ俺が干物になってしまう」
「きみの干物? なんだか不味そ」
♪♪♪♪
その後、結局私はただハニワの買い物に付き合うことにした。
途中、彼女は女性の二人組に声をかけられて「それは何のコスプレですか?」と質問されていた。「これはコスプレではないですよ」とハニワは答えたが、その後なぜか撮影会が始まった。
また、こんなこともあった。彼女がある成人向けのサークルのブースの前に立って、商品をしげしげと見つめている。私は怪しんで彼女の顔を覗き込んだが眉尻一つ動かさない。
と、彼女が指を一本立てて「見てもいいですか?」と問うと、売り子の女性が同人誌を一部彼女に手渡しした。横から少し覗いてみると地獄のような景色がそこにはあったので、私が少し距離をおいてそわそわしていると、結局同じものを二部も購入した彼女がこちらに寄ってきた。
「大丈夫ですか? ちょっと顔が赤いようだけれど」
実に腹の立つ薄ら笑いを浮かべながら、彼女は訊いてきた。
「配慮してくれないか。こういう場所は不慣れなんだ」
私は仏頂面を作って抗議した。
「ふふ、今の反応、きっとどこかに需要があるね? 君がそんなにピュアだとは」
私はたぢろいだが、このまま彼女のペースに乗せられるのも癪なので、鼻を鳴らしながら私も言い返す。
「おまえこそ、いい趣味をしているじゃないか」
しかし彼女は涼しい顔をしながら。
「そんな手が通用するような乙女に見えますか?」
諦めよう。ここはこいつのホームグラウンドだった。
♪♪♪♪
日暮れはまだ遠い。陽はようよう、なかなかに盛りを超えぬ。
私たちは外へ出て木陰のベンチに並んで腰を下ろした。得られる涼は気休めで、埋立地にまで降りる蝉声は気障りな不自然を海面に垂れるが、その碧い弓なりはここからは臨めず、磯臭さばかりが五月蠅く香る。
汗はしとどに、首筋を這って、その不快は肉を覆うと、私の存在は言い知れぬ不愉快の中に囚われる。
ふとハニワの側を向くと、目が合った。私の疲弊を嗤うような顔がそこにはあったが、この表情が彼女の初期設定である。
「疲れましたか?」
「ごらんのとおり」
「男らしくないなあ」
「今の台詞、甚だ時勢に沿わないぜ」
「おっと失敬」
と、ハニワは嘯きながらショルダーポーチからスポーツ飲料を取り出して、私に手渡してきた。
「ん?」
「荷物持ちばかりさせては悪いからね。これ、お礼です」
「ぬるいなあ。お礼って言うくらいならせめて冷えたのをくれよ」
「贅沢を言いなさんなって。仕方ないでしょう? 何せ今朝買ったんですから」
「今朝って、やっぱり初めから荷物持ちをさせる魂胆だったんじゃないか」
「きみ、名探偵の素質があるね?」
言いながらケタケタ笑う彼女を脇目に、私は微温な砂糖水を一気に飲み干した。
♪♪♪♪
私たちの座る前方に、人の行き交いは絶え間なく、然るにそれは都会の雑踏とは趣を異にして、夏の暑さは彼らの首を垂れずに、反対にそれに抗する彼らの歩武は尚のこと熱く私には思われた。機能に甚だ優れぬ装飾を凝らした衣装の一団がいる。それに従うまた別の一団。かと思えば向かいの側に、荷物夥しいカタツムリのような人々の群れ。ただならぬパッションを帯びて、クールジャパン、いずこへや向かわん。
「どうですか?」
どこか感心しながらも、半分無心に彼らの様子を眺めていたら、ハニワが唐突に訊ねてきた。
「どう、って、言われても」
「ここにあるのは恐らく、現代に於ける創作的営為のひとつの到達なんです」
「半分がポルノじゃないか」
「まあ、それは、必然的な帰結というものです」
「讃えているのか、貶しているのか、よく分からない言い種だな」
「今のはどっちでもないですよ」
彼女はいうと先ほどのショルダーバッグから結露に汗かいたこれまた同じブランドのスポーツ飲料を取り出して、口をつけると、ナマケモノのような間の抜けた顔で息を吐きながら脱力した。
「そっちは冷えていそうだな……」
「これはさっき買ったやつですから」
私の抗議の視線も意に介せずにそう言いのける彼女の様子に、怒るどころか私の方こそ脱力してしまったが、同時に私はあることを思い出しポケットを探った。
私は中に四角くて軽いクラッカーのようなチップの入ったプラスチックのスケルトンケースを彼女に差し出した。
「そうだこれ、これを忘れてもらっては困る」
彼女はペットボトルを口につけながら首をかしげている。
「昨夜頼みたいことがあると話しただろう? 俺としては寧ろこっちが本題だよ」
「ああ、これが例の……」
「そう、俺の人生の半分」
彼女は受け取るとケースの中からフラッシュメモリを取り出し指先で摘まみ上げて、宝石商のするようにそれを片目で見定める仕草をした。
「かわいいね、指の先に載ってしまう人生だなんて」
その中には、私の今までに書いてきた小説や手記の類のテキストデータが記録されていた。
「指先に乗るどころか、俺の人生の全てを注いだとしてもそれの一厘も満たすことのできない恰も限りのない聖なる杯だよ。図書館丸々だって収めてしまうだろうさ。まあ、この手の話はおまえの方が詳しそうだが」
「へえ……ところでそんな聖杯が、きみがクソ動画と呼んで罵った私の推したちの動画で容易に満たされてしまうという現実を前にしたら、いったいきみはどんな気持ちになるのかな?」
「……きっと、クソみたいな気持ちになるだろうなあ」
彼女は私の肩を優しくたたくと、なんとも言えないしたり顔で私を見た。
「なんでおまえが勝ち誇っているんだよ」
「そんな風に見えたかな? 謝りますよ。ごめんなさーい」
♪♪♪♪
ハニワはひとしきり笑ったあと、純水の泡が忽ちに消えていくときのように、笑顔を冷たいまじめな顔に変えた。いつもニタニタしている彼女には似合わぬはずのこんな表情が、まるで落体が下方に向かう運動の如くの、それ自体無目的でありながら恰も意思を感じさせる自然の強制力によって見出されたものであるという感じを与えるのは、彼女の例の静的印象に所以するものであろうか。
「ファイル形式やディレクトリ構成はちゃんと整えていますか? 面倒な単純作業を蒙るのは嫌ですよ」
「全部おまえの言う通りにしたさ」
「ファイルサイズの合計は?」
「だいたい、五メガバイトくらいかな」
ハニワは素直に感心したといった風に目を見開くと、少しのおどけた感じを取り戻しつつ、言った。
「いっぱい書いたんだね?」
私は少し気恥ずかしくなって、顔を逸らした。
「そこそこ、な。足りるか?」
「一人分のデータセットとしては十分な量です。後は私がうまくやりますよ」
そんな彼女の言葉を私は不覚にも頼もしく感じる。
「ところで、その機械学習っていうのにはどのくらい時間がかかるんだ?」
「今は共有のリソースも充実していますから、そんなにはかかりません。そうだなあ、私の都合も併せて考えて、だいたい二週間くらいを見ておいてください」
私は視線を彼女の側に戻した。彼女の顔に差した凪いだ水面の反映のような、柔らかな、しかし涼やかな面差しを見ていると、不思議と暑さを忘れてくる。私が彼女に異性的魅力を感じないのも、彼女の印象が男性的であるためよりかは、この美が無機物のそれに類しているためなのかもしれない。
「でも意外です。きみが自分の書いたものを機械に学習させてその出力結果を見てみたいと言い出すなんて。きみはこういうのは嫌いだと思っていたのに」
「嫌いさ、憎悪していると言ってもいいくらいだ。だから頼んだんだよ」
「なんですかそれは? 今日日ツンデレなんて流行りませんよ?」
「需要なしか」
「ないない」
ないない、と言いながら、ハニワは脇の荷物から取り出したキャラモノのうちわで首筋を扇ぎ始めた。
「冗談は置いておいて、正直なところ怖かったんだ。だから、その、実際にどんなものかを知るためにだな」
「敵を知り己を知れば、ですね」
「百戦も臨む気力は俺にはないが、まあ、そういうことだな」
「敵なのは認めるんですね」
「いや、正直それもよくわからない。芸術と科学というものは、両者を立ててみると、なんと言おうか、犬猿とまでも言えないが、とにかく決着のつけがたいある種の二項対立の構造を形作るというのは殆ど歴史的な事実だ。それでもやはり、俺は曲がりにも芸術の側に与する人間として、科学を軽々と敵と呼んでよいのかどうか、相当長い間思いあぐねているんだ。これは歴史が解決してくれるのか、或いは個人的な認識に係る問題なのか……」
「認識なんて持ち出したら決着の着きようもありませんね。まあ、歴史の決着を待つほどきみが悠長でいられるかも分かりませんが」
「まあ、それはその通りだが、そういうおまえはどう考えるんだ?」
「私の見立てはシンプルです。科学と芸術は相容れない。これは確かです。もちろんそれだからと言って、きみが無理にでも科学を仮想敵に仕立てることを積極的に肯定はしないけれどね(つまり、妥協的な折衷という道もここにはあります)。まあ、それでも、この際はっきり、科学と芸術は敵同士であると仮定しましょう。勝つのはもちろん、強い方です。それでは両者のうちより強い方はどちらでしょうか? もちろん科学ですよ。今のところはね」
ハニワはうちわを扇ぐ手を早めた。彼女の顔の下あたり、私の視界の端っこで、そこに描かれたピンク髪の少女の残像が揺れる。
「そうか、おまえはそう思うのか。しかし、そのどこか含みのある言い方は気になるなあ」
「含みも何も、そのままの意味ですよ。深読みしないでくださいね」
と、彼女は何か厭らしいものを見る目つきで見てきたので、私は気分を害したが、気を取り直して話をつづけた。
「なら教えてくれ、おまえは今芸術と科学は相容れないと言った。その言は、俺の考える両者の対立構造と同じ類のものか、確かめたい。正直なところ、俺はさっき二項対立とか言ってみたが、それでもどうも時々両者の境が曖昧になってしまうことがあるんだ。おまえの持っているシンプルな見立てというものをもう少し詳しく聞いてみたい」
彼女は聞くと、ねじれた態勢でベンチの背もたれに頬杖をついて、もう片方の手のうちわで私の側を扇いできた。その顔にはあのじっとりとした微笑が帰ってきていた。
「なんだか今日のきみからは柄にもない必死さを感じるよ。私もちょっと真面目にこたえてあげなくてはいけないようですね」
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