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  • canone (下)への応援コメント

    坂本さん、お世話になっております。


    貴作品『憂はしげなコーパス』について、感想を書いていいものかどうか、随分と迷いました。twitterの方で坂本さんが「中々収集のつかないもの」になってしまったと呟いておられたこともありますが、それ以上に坂本さんが拙著『情報統制省ヴィアヴァスタの観測事象』を読んでいただいたことがありました。拙著は、ある意味で坂本さんが提示される問題への私なりの回答だったので、これ以上言葉を重ねても、それはただ単に「私の感想」になってしまうなと感じていたからです。

    とはいえ、いずれ感想をまとめてお送りすると宣言しておりましたので。レビューと同じタイミングでお送りしたかったのですが、体調を崩してしまい遅れました。



    まず、なんといっても、オイルとハニワのコンビには惹かれました(しつこい)。知的な二人のやり取りが堪らないのは言うまでもないですが、それ以上にユーモアのある二人で、読んでいてとても素敵だと思いました。例えば同じゼミに二人が居てくれたなら、きっと退屈しないだろうなと思いました。

    本作は、エンジニアであられる坂本さんが書かれる科学と芸術の検討ということで、興味深く拝読しました。とはいえ、オイル=坂本さんの代弁者とするのなら、若干ひかかる点がありましたので、野暮だとは思いつつも吐き出すことにします。見当違いであれば、無視していただいて構いません。


    ①科学と芸術の二項対立は妥当か? 対立は自明か?
     かつて、とある歴史家にホッブズとロックを二項対立として描いた人物がいました。彼曰く、二つの思想は両輪の輪としなければならないと主張しているのですが…………本来的に対立関係も何もないのに対立させているのは他ならぬ彼なのです。

     科学と芸術も、二項対立として描くから、対立しなければならないのではないか? (すいません、感想というより私の信念みたいになりました……)


    ②AIは孤独を創作原理に持たないのか?
     AIの生産活動もまた、人からの需要を受けておこなわれるのではないか、というものです。これに関しては、坂本さんの方がお詳しいかもしれません。


    ③ポルノは世界の価値の底上げをする。
     最後は本当に個人的なもので恐縮なのですが、このハニワの問いに私は「イエス」と答えます。低俗な例えで申し訳ないのですが、2022年も「オトワッカ」みたいなバカみたいなことで盛り上がったものです。価値を上げるというと言い過ぎかもしれませんが、世の中が楽しくはなりますね笑



    ……と、長々ととりとめのない感想をすいません。

    最後に、いくつかギフトをいただき、ありがとうございました。大変励みになりました。感想をお礼に変えてここにポストする次第です。(以前貰った時もそうですが、ギフトのお礼をする場が永遠に分かっていないです、すいません)

    作者からの返信

    天秤様


    こんにちは、坂本です。
    天秤さんからのコメント、まことにありがたく、そして嬉しく拝読しました。
    ほんとうにありがとうございます。

    そして何より、ご体調が優れないとのこと、案じております。
    海外渡航の折も重なって、環境の変化は一入お体にこたえることでしょう。
    ご体調に気をつけて、何とぞご自愛専一になさってください。


    天秤さんから頂くコメントには、いつも身の引き締まる思いがします。これはなかなか軽々に返事をすることの憚られるお言葉です。
    ひとつずつ、こたえさせてください。


    ①について
    科学と芸術の二項対立についてですが、これについては少しく私の強迫観念が逸ってしまっているところがあり、傍から見たらラディカルな印象を与えてしまうであろうことは、自覚しておりました。ホッブスとロックを両輪に思想を進行させるの例に似て、私の思想もまた、科学・思想・政治の三本の柱を世界を支えるアトラスに見立て、その仮構のセオリーの中にカオスを仕立て上げ、無理に論を加速させようとしている印象があることは否めません。対立関係の仮構は議論の糸口を見出すうえで実に安直で軽薄なやり方でもありますから、これの利用には少し慎重にならなければなりませんね。
    そのうえで辯解をさせていただくと、例えば善と悪、信仰と懐疑、のように、互いが互いを己が存在原理においているような二項対立的な関係を、私は科学と芸術の間にも見出すために、両者の本質を原理のレベルにまで引き下げて論じようとしたのですが、この努力にこそ拙作が「収拾のつかない」ものになってしまった第一の所以がありました。


    ②について
    これに関しては、何を論ずるにしても、それは不足に思われるし、また過剰にも思われるという難しいところがあります。
    つまり、このことに就いて科学的に正当に論ずる足掛かりを、我々は持たないのです。尋常、科学的な予想と呼ばれるものは、それは過去の経験に基いた正当な論理的道筋の果てに数式のように導かれる解でなければなりません。然るに、いざ人工知能に対する予想となると、人々はその不可知性を逆手に取り、分かり得ぬことを恰も分かり得ることのようにして、手前勝手な終末論を唱えるのでございます。人工知能は科学的な存在ではありますが、その論理は人の意図を離れたところで進歩していくという特徴を持ちますから、人々はこれに対して公然と非科学的な予想を科学的な予想と標榜する過ちを、容易に犯しうる得るのです。シンギュラリティの議論はその最たる例で、30年後にAIが人類を超えるという予想は、まさに30年前にも同じことが言われていましたから。
    拙作コーパスでは、ハイデッガーかぶれなスノビズムが見え隠れしておりますが、この議論もまた、人工知能が孤独を持ち得るかは、人工知能が「ある」ものではなく、「いる」もの足り得るか、つまり人工知能は現存在たり得るかという問いに、結局は行きつくのだと思います。しかし、それは決着に限りなく漸近しながらも、しかし決着には永遠に到達しない問いでもありましょう。私は私自身がダーザインであることは認められるが、それを他人に認めさせることは不可能ですから。人工知能と雖も、同じことでしょう。


    ③について
    私も、天秤さんのご意見に賛同する者であります。
    一方で、本作では敢えてそれに対して異を唱えるような論調で、いはゆる「工芸的な美」への指弾を試みたのでございます。これは、プラグマティックな芸術ばかりが(資本主義的に有意な芸術ばかりが)至高なものと判断されれば、人工知能の無際限に創り出す(それらしい)芸術に対して人間の創り出すなけなしの芸術がその立場を堅持することは甚だ困難になってしまうであろうという私の憂慮の産物で、確かに、その憂慮自体が正当なものであるかどうかということへの議論の余地はありましょうが、ただ、私のように考える人間もいるということのひとつの提示でした。(その意味で、私はポルノをプラグマティックな芸術の最たる例であるとして、議論の矢面に立たせたのです)
    私が、あのような迂遠なやり方で「なぜ人は芸術をするのか、なぜそれは必要なのか」、ということを、第二話で表明しておかなければならなかったのも、ここに至るまでの議論の土台を作っておくための下準備でした。


    以上になります。
    急ぎで書き上げましたので、誤字脱字の多々ありましょうが、ご海容頂きたく存じます。

    今私は、このような議論をし合う芸術上の友を得られたことを幸福に感じております。
    天秤さんの芸術に対する高い信念を垣間見たようで、私のこころにも或る火の燦めきの灯るのを感じます。
    今後とも、ご交誼のほど、よろしくお願いいたします。