航海2日目前半:逃げた犬
【第1話】
異臭で飛び起きた。
「何この臭い!?」
まだ夢の世界にどっぷりと浸っていたはずのユーシアだったが、鼻孔を掠める異臭によって強制的に目覚めてしまう。
表現できないほどの異臭だった。発酵食品とも捉えることは出来ず、あえて表現をするなら腐った下水道のような悪臭である。
この臭いを永遠に嗅ぎ続けるなら毒でも嗅いで死んだ方がマシだ。【DOF】を燻して使ったところでこんな変な臭いなんてしないはずである。
寝ぼけ眼を擦りながら室内を見渡すと、すぐに原因は発見できた。
「ネアさーん? 朝ご飯ですよ?」
「あさごはんいらない!! たべたくない!!」
「そんなこと言わないでください。朝ご飯は大事なものですよ?」
「たべたくない!!」
布団に引きこもった状態で必死の抵抗を続けるネアと、そんなネアにレトルト食品らしきものを差し出すスノウリリィによる激しい攻防戦が繰り広げられていた。
異臭の原因は、スノウリリィの持っている『卵雑炊』と銘打たれたレトルト食品である。お湯を注いで待つだけで完成する至極簡単な食事だが、半開きとなったパッケージの口から漏れ出るのは黒――というか紫色の煙である。毒物を体現していた。
ユーシアは慌ててスノウリリィの手から卵雑炊のパッケージを取り上げると、
「ネアちゃんを殺す気か!?」
「そんなことしないですよ!?」
「じゃあこれは何!? 何でレトルト食品なのにこんな変な色をしてるの!?」
ユーシアはパッケージの中身をとりあえず灰皿の上にぶち撒けた。
卵雑炊として作られただろうレトルト食品は、謎の塊が出てきた。
まず灰皿の上に出すと、ゴトンという聞こえてはならない音が耳朶に触れる。ステンレス製の灰皿の上を転がるのは紫色のゴツゴツとした表面が特徴的な球体だった。パッケージの卵雑炊の写真と違うのは何故だろうか。
しゅうしゅうと紫色の煙を発する得体の知れない卵雑炊モドキを前に、ユーシアは口元を引き攣らせた。暗黒物質、もしくはオーパーツか。
「リリィちゃん、卵雑炊ってお湯を入れて待つだけなんだよね」
「知っていますよ。ちゃんと作り方を見て、お湯の分量も間違えなかったので」
「じゃあ何でこの変なものが出来上がるのかな? 何かした?」
「特別な工程は何も。――あ」
スノウリリィがポンと手を叩くと、
「ネアさんが今日を元気に過ごせるようにお祈りを」
「お前さんは邪神でも崇拝してんのか」
とにかく、こんな卵雑炊など卵雑炊ではない。名状し難い何かである。
下手に食べれば発狂してブリッジしながら豪華客船の廊下を爆走する羽目になる。ただでさえ【OD】という頭の螺子をいくつか外した存在なのだから、これ以上の頭の螺子をなくすような真似はしたくない。
ユーシアはステンレス製の灰皿に乗っかった卵雑炊モドキをスノウリリィから遠ざけ、
「ネアちゃん、出ておいで。朝ご飯はお外で食べようか」
「おにーちゃん……!!」
布団から顔を出したネアの青い瞳からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。よほどスノウリリィの料理が恐ろしく感じたのだろう。この光景を見た相棒の真っ黒てるてる坊主が別の意味で発狂しそうである。
身体の年齢は18歳でも、精神年齢は10歳以下である。子供と呼んでも差し支えない相手に、言葉に出来ない邪悪な創作料理を「食え」と強要するのは拷問だ。というか、レトルト食品すらユーシアが目を離すと作れないのか。
ユーシアはネアを布団から引っ張り出すと、
「はい、お顔を洗って着替えておいで。【DOF】も食べておいでね」
「うん……」
ネアはぐすぐすと半べそを掻きながら、洗面所へと姿を消した。スノウリリィの料理による精神的な傷跡が尾を引いているようだ。
「リリィちゃん、しばらくお祈り禁止ね」
「そ、そんなにいけないですかね」
「見てごらん? お前さんが邪神にお祈りするだけでパッケージの卵雑炊がこれになるんだよ。【OD】の能力、これ?」
ユーシアはスノウリリィの目の前に、灰皿の上で転がる物体Xとパッケージに描かれた美味しそうな卵雑炊を突きつけてやる。
お湯を注ぐだけで簡単にパッケージのような卵雑炊が出来上がるはずなのに、スノウリリィが『ネアの為を思ってお祈りをした』という余計な工程を挟んだだけでこの惨状である。邪神でも奉っていなければ出来ない芸当だし、邪神ではないなら呪われているに違いない。
とにかく、スノウリリィに料理をさせてはダメだ。レンジでチンという工程さえお祈りを捧げて悲鳴を上げる化け物でも生み出しそうである。
ネアを泣かせてしまったことに対して罪悪感を覚えるスノウリリィは、
「私、ネアさんに謝ってきますね……」
「ちゃんと仲直りしてきなよ」
落ち込んだ様子のスノウリリィも洗面所へ向かう。閉ざされた扉の向こう側で女性陣が言葉を交わすやり取りが漏れ聞こえてきたので、上手く仲直りが出来ることを祈るばかりだ。
ユーシアはやれやれと肩を竦め、投げ出していた砂色のコートを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出すと、メッセージアプリに通知が届いていた。液晶に表示されていた送り主は相棒の真っ黒てるてる坊主である。一緒に写真も添付されていた。
リヴ:ポチが逃げました
そんな短文と共に、もぬけの殻となったベッドの様子が映し出されていた。
「…………」
ユーシアは深々とため息を吐く。
こうなることは予想できていた。気絶させてもおそらく数分程度で復活を果たし、手錠と足枷すら簡単に外して逃げることなど造作もない。何故なら彼は、至近距離から放たれたリヴの射撃を見事に回避して見せたのだ。
一般人を装っているものの、昨日からリヴやユーシアの2人がかりでボコボコに殴っているのに物ともしないのだ。一般人の皮を被った特殊な人間か、もしくは耐久性の高い【OD】だろうか。豪華客船内の情報を鑑みると、後者である可能性と判断する方が現実的だ。
液晶画面に指を滑らせたユーシアは、相棒に向けて文章を送る。
ユーシア:分かった
ユーシア:朝ご飯を食べがてら船を見に行こう
ユーシア:帰っておいで
その直後である。
「ただいま戻りました」
「早いな、リヴ君」
「おはようございます、シア先輩。今日もいい天気ですよ」
何食わぬ顔で真っ黒なてるてる坊主――リヴが戻ってきた。今まで部屋の外で待機していましたと言わんばかりの速度である。
彼に連れられて、欠伸をするユーリカが続いて部屋に戻ってきた。まだ自分の部屋に戻っていなかったのか。
ユーシアは【DOF】の箱を取り出して黒い煙草を咥えると、
「船の中の【OD】どもは元気だった?」
「元気がありあまりすぎて3人ほど殺害してきたところです。無様に悲鳴を上げていましたよ」
リヴは「それよりも」と話題を転換し、
「ポチが逃げましたね。逃げると思っていましたが」
「俺も簡単に想像はついてた。見張りをつけていないとそうなるよね」
目を離すと手錠も足枷も外してしまう器用さは一般人にはない教養である。リヴみたいに手先の器用さを持ち合わせていないと難しい芸当かもしれない。
いずれにせよ、逃げたのであれば仕方がない。次に顔を合わせた時は殺害する時だ。
ユーリカは「ふあぁ」と大きな欠伸をすると、
「そのポチってのは一体何なんだよ」
「あれですよ、大きめの薄汚え犬です」
「噛まれたら狂犬病とかになりそう。犬は好きだけど、ちゃんとワクチンとか予防接種してる子がいいな」
どうやらユーリカは、ポチを本物の犬か何かだと思っているようだ。残念ながらポチは犬ではなく人間なので、犬に相応しくない名前をしているのだが。
まあ、そのまま勘違いしていてくれれば都合がいい。
顔と名前が一致していなければ、殺したところで文句は飛んでこない。こんなイカれた場所に身を置いている時点で文句もクソもない。
「それよりも、早くした方がいいぜ」
ユーリカは目尻に浮かんだ生理的な涙を拭うと、
「そろそろ【OD】どもが活発になる頃合いだぞ」
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