第3話

 11月2日 - 日本維新の会・アントニオ猪木参議院議員、国会会期中に必要な参議院議院運営委員会理事会からの渡航届への許可を得ていない状態で朝鮮民主主義人民共和国を訪問。


 呂宋たちがタイに上陸したその日、菜奈もタイにやって来た。

 礼儀作法の多くは国法で規定されている。挨拶をするときには、ワイと呼ばれる合掌をする。タイでは今も階級が細かく分かれており、階級以外にも相手との関係などによって異なった種類のワイの作法が求められる。また、ヒンドゥー色の強い様々な風習や礼儀作法が存在する。


 仏教寺院に入る際、肌の露出が高い服は拝観を拒否される。女性が僧侶の身体に触るのは禁忌である。


 毎日、8時と18時の2回、バンコク中心部のフワランポーン駅やBTSなど公共機関などでは、国旗掲揚・降納と同時に国歌がスピーカーから流される。国歌が流れる間は、その場にて脱帽し直立不動の体勢をとらねばならない。そうしなかった場合、不敬罪に問われ警察官に逮捕される場合がある。また、チャクリー王朝(タイ王室)に対する国民の尊崇の念は非常に高い。王室批判などをすると同じく不敬罪に問われることがある。


 また、映画作品の上映の前には『王室賛歌』が上映される。このときも脱帽の上直立不動の姿勢を取らないと、不敬罪に問われることがある。


 菜奈はバンコクのホテルで、4月に書店で買った『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹)を読んでいた。6月に発売された『なんだこれくしょん』(きゃりーぱみゅぱみゅ)をウォークマンで聴いていた。もう、17時か〜腹が減ったな〜。

 

 バンコクの歴史は1782年、ラーマ1世がタークシンを処刑しそれまでのトンブリーからチャオプラヤー川の対岸に首都を移したことに始まる。 ラーマ1世が遷都した理由として、トンブリーがチャオプラヤー川西岸にあり、当時チャオプラヤー川周辺に勢力を広げようとしていたビルマのコンバウン王朝(現、ミャンマー)の進入が容易だったからである。


 バンコクの建設は6月10日午前6時45分にラックムアン(市の柱)が建てられ始まった。建設主任はチャオプラヤー・タンマーティコーン (ブンロート)とし、3年後に建設が終了した。 アユタヤと同じく王宮や関連施設を含む土地の周囲には運河が掘られラッタナーコーシン島と呼ばれる人工の島を形成した。この島の中には王に許された者のみ住むことが出来た。 記録によれば、当時ラッタナコーシン島に居住していたのは王族を除けばタイ族ではなく「王室華人」と呼ばれた潮州系の華人であった。


 建国当初はラッタナコーシン島のみがバンコクの中心として機能していたが、タイの経済発展と共に市街地は東へ延びていった。またラーマ5世(チュラーロンコーン)の時代にすでにラッタナコーシン島の王宮のみでは妻や子供を十分に収容することが出来ないため北にドゥシット宮殿群を建設している。チュラーロンコーンの子供はさらに北にバーンクンプロム宮殿、スコータイタンマティベート宮殿などを建設している。


 また、経済の中心もチャクリー王朝初期には当時ラッタナコーシン島から運河を挟んで東側のヤオワラートにあったが、20世紀後半にシーロム通りに中心が移った。そのためラッタナコーシン島周辺は現在、旧市街地と見なされることが多い。


 建設からラーマ5世時代までは、バンコクはチャクリー王朝の王による直轄地であった。しかしラーマ5世の以降市街地が拡大を始めたため、チャクリー改革によって、バンコクは畿内省という機関の管轄に置かれることになった。


 1972年には、拡大が進みバンコクの行政機関の手に負えなくなっていたノンタブリー県、サムットプラーカーン県、パトゥムターニー県がバンコクから分離。 一方で1975年にはバンコクと経済的に密な関係にあったトンブリー県がバンコクに吸収されている。その間にもさらにバンコクの市街地の拡大が進んだ。


 とくに1980年代にはタイ国内の投資が拡大し、タイの経済の中心であるバンコクも必然的に発展する事になった。 バンコクは特に目立って教育が普及しリベラルな住民が増えたため内務省の直接統治も難しくなった。このため1985年に『仏暦2528年バンコク首都府行政組織法』が国会で成立。これ以降、住民に選ばれた知事による自治が行われている。

 

 『ทะเล』(Thale)ってバンコク駅近くのレストランに入った。ทะเลは海を意味する。

 タイ料理は、東南アジアのタイの料理である。中国やカンボジア、マレーシア、ラオス、ミャンマーなどの周辺諸国の料理の影響を受けており、香辛料、香味野菜やハーブを多用し、辛味、酸味、甘味などを多彩に組み合わせた味付けに特徴がある。

 (中部と南部は米、北部と東北部はもち米)、副食(多様な食材に調 味料や香辛料を加えたおかず)が基本メニューである。 副食は魚が中心 で基本的な食材として使われるが、次いでエビ、その他にも鶏、アヒル、 野菜などが使われる(豚肉と牛肉はほとんど使われない。

 北部はマイルドな味の料理が多く、代表的な料理はポークカレーの「ゲーン・ハンレー」や丸いおぼんに小皿料理が並ぶ「カントーク」。 東北部は味が 濃く辛い味が特ちょうで、代表料理は青パパイヤのスパイシーなサラダ「ソムタム」やとりの炭火焼き「ガイヤーン」などだ。

 菜奈はガイヤーンを食べた。

 

 11月5日 -神奈川県立がんセンターの新病院が開院。既存の病院施設は閉鎖となり、新病院へ全面移転される。


 硴塚龍臣と奥さんの硴塚桜がタイにやって来た。

 タイは大きく4つの地域に分けられ、その地域ごとに様々な顔を見せる。


 北部は山岳地が広がり比較的涼しい気候である。タイ国内最高峰であるドーイ・インタノン(2,576メートル)もこの地域にある。


 東北部はほぼ全域にコーラート台地が広がる。雨量が少なく農作物が育ちにくい環境にあり、貧困地域の代表格にもなっている。


 中央部にはチャオプラヤー川が形成したチャオプラヤー・デルタと呼ばれる豊かな平地が広がり、世界有数の稲作地帯を作り出している。


 チャオプラヤー川は、ナーン川とピン川が交差する地点、ナコーンサワン県で始まる。ピン川の水量が多い。


 チャオプラヤー川流域の県は、バンコクの外、ウタイターニー県、チャイナート県、シンブリー県、アーントーン県とアユタヤ県である。チャイナート県でターチン川とチャオプラヤー川に二分され、ターチン川はチャオプラヤー川と平行に流れた後、サムットサーコーン県から、チャオプラヤー川はサムットプラーカーン県からタイランド湾に至る。


 南部はマレー半島の一部でもあり、ゴムノキの畑などが広がるほか、近年までスズの採掘が盛んであった。また、雨期が中央部よりも長いことでも有名である。タイ政府は南部においてマレー半島大運河計画(クラ地峡運河開発計画)を提起しているが、いまだ検討中である。

 

 午後3時、龍臣たちはプーケット県にやってきた。

 プーケット県は、タイ国内で唯一 大陸ではなく島に設置された県である。したがって隣接する県は存在しないものの、1967年にサラシン橋が完成したため、パンガー県とは橋でつながっている。なお、プーケット県が設置されたのは1933年である。プーケット県は、その風光明媚さから1980年代以降世界的な観光地となっており、世界各国から年間を通じ多くの観光客を集めている。

 

 プーケットは昔、マレー語でタンジュン・サラン(Ujong Salang、「サラン岬」の意)と呼ばれていたが、聞き間違えたイギリス人によってジャンク・セイロン(Junk Ceylon)などと呼ばれた。なおマレー語名のうちサランは、タイ語のプーケットに言及したもっとも古い古文書に出てくるチャラーン (ฉลาง) のマレー語風の訛りであると考えられている。また、このチャラーンはプーケットの近世における呼び名タラーンのもととなった語と考えられている。一方で、語源であるチャラーンの意味はよくわかっていない。一方、プーケットの名称の語源はマレー語のブキット(Bukit、「丘」の意)から来たとも考えられる。


 プーケット県は古くはナコーンシータンマラート王国(ナコーン、リゴール)の覇権下でアンダマン海の貿易の要所として発展してきた。その後、ナコーンがスコータイ王朝、アユタヤ王朝と移り、その影響を受けたと見られる。一方、1841年に地元の官吏や古老によってまとめられた『タラーン年代記』によれば1780年頃にクダ王国の王国の干渉があったことが記録されている。


 プーケットの歴史上においては、1785年にプーケットのある姉妹がビルマの侵攻を撃退した話が有名である。この年、すでに死亡していた当時プーケットの中心地であった現在のタラーン郡の国主の妻、クンイン・チャンは妹のムックと共同で兵を集め、地元の名士らとミャンマーを撃退した。ラーマ1世は非常に感激し、二人の女傑にターオ・テープカサットリーとターオ・シースントーンの称号を送った。この後ターオ・テープカサットリーの息子ティエンは「喘息持ちのタラーン国主」というあだ名でタラーンの国主となっている。


 この後1809年、1809 - 1810年、1811 - 1812年にビルマがプーケットを攻撃し、1821年にはプーケットに住む中国人商人、リム・ホーイがクダ王国に離反を呼びかける文章を送ろうとしていたビルマ船が拿捕されると言う事件も起こっており、ラーマ5世の時代には、プーケットは錫の産出に関する行政の中心区となった。プーケットはタイ人の他、海上交易を生業としていたチャオ・レー(シー・ジプシー)の定住の地でもあり、歴史的には13、14世紀ごろから錫の採掘・交易に携わったりするための福建系中国人が1917年まで多くプーケットに流れ込んだ。これら華人の子孫による鉄パイプ、茨などを体の至る所に突き刺し街中を練り歩く血みどろの祭り、斎食祭りはタイ全土で有名である。


 1933年には、プーケット県として独立した。1967年本土と結ぶサラシン橋が完成し、1976年にはプーケット国際空港が開業して、1980年代以降世界有数のリゾート観光地として発展してきた。


 しかし2004年12月26日に、スマトラ島沖地震によって発生した大津波に襲われ、海岸隣接地を中心に多数の死傷者を出し、海岸に面したホテルやレストラン、商店などの観光施設のほか、住宅街も破壊されて各種インフラストラクチャーに大打撃を受けた。


 それでも、その後の復興は急速に進み、同時に国際リゾート地としての更なる発展を目指しビーチ通りの区画整理などが進められ、特にパトンビーチではきれいなビーチロードが完成した。また、タイ政府観光庁や航空会社によるキャンペーンも行われ、その後観光客数も大津波以前の水準に回復を果たした。


 プーケット県が設置されているプーケット島は、美しいことで知られるアンダマン海に接しており、ビーチ、ダイビング、クルージングなどの観光資源に恵まれている。プーケット最大のパトンビーチを初め、美しいビーチに富み、タイ最大の国際観光地として発展してきた。


 プーケット島はタイ最大の島でもある。クラ地峡から約 440km ほど続く山脈の一角であるため島の地形は全体的に高低差が激しい。なお、プーケット山脈全体の最高峰は標高 1,138m のプラミー山であるが、プーケット県の最高峰は標高 529m のマイターシップソン山である。土地利用の状況は、沿岸部こそリゾート地となっているものの、山がちな地形、温暖湿潤な気候なども手伝って、県内の約70%は森林地帯である。


 プーケット島の西海岸には砂浜のビーチが広がり、東海岸には粘土質の砂浜が広がる。島の最南端は「レームプロームティップ」と言い、夕焼けを見るスポットになっている。また、プーケットからピーピー諸島も近い。タイ国内の数少ない狂犬病撲滅地帯でもある。

 16世紀から錫の産出が盛んであり、華人が渡来し古くから働いていた。しかし1985年の錫危機により錫の値段が暴落したので、現在はほぼ壊滅状態にある。近年のプーケットの経済は、世界最大のゴム産業と観光で支えられていて、タイでもっとも平均日収の高い県でもある。

 東海岸を歩いていると洞窟が姿を現した。

 洞窟の玉で銀色に輝く不思議な玉を2つ手に入れた。

「キレイな玉だね?」と、龍臣。

「そうだよね」と、桜。

 🔖死んだ者のスキルを吸収する不思議な玉を手に入れた。


 

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