その二十
「上原のところだ!行くぞ!」
分隊長の指示に従い、阿河は行動を開始する。細かい言葉がなくても、分隊長の意図は明確であった。今のままではやつらに勝てない。やつらの数は10体ほど。こちらは二人。一人は右肩が外れている。しかも武器は玉木1曹の銃剣が一本のみ。拳銃は残弾なし、阿河が玉木1曹から受け取り、大ムカデとの交戦で使用した89は折れて使用不能。本田2曹が携行していたMINIMIの行方にいたっては、体育館内にあるはずだが見当たらない。つまり二つの意味で、二人は体育館の反対側に横たわっている上原3曹のもとに急がねばならなかった。一つは上原3曹の状態確認のため。まだ息があるかもしれないからだ。そしてその上原3曹が所持しているであろう、分隊が保有する最後の火器を掌握するため。岸本の遺体も回収したかったが、今は無理だ。だが必ず回収することを誓い、今はそれを無視して阿河は玉木1曹と共に走りはじめた。
体育館の反対側、上原3曹のもとへは20mほど。背後から意味不明な叫び声が聞こえてくる。一瞬振り返ると、腕が異常に長いやつ、全身が紫色の毛で覆われてるやつ。人っぽいが人じゃないやつらが襲いかかってきていた。まさに百鬼夜行であった。ふざけるな、今は朝だぞと思ったときには、上原3曹のもとへ辿り着いていた。
もうやつらはすぐ背後に迫っている。細かな確認をしている時間はない。阿河は上原3曹から追い剥ぎのように89を奪い取る。右肩が外れているため左手で乱暴に据銃しつつ、祈りながら素早く振り返って、安全装置の解除だけは確認したあと引き金を絞った。阿河の祈りは通じ、まだ残弾があった89から弾丸が発射される。やつらの先頭を走っていた腕が長いやつが被弾し前のめりに倒れる。射殺までは至っていないだろうが、今はこれでいい。他のやつらに銃口を向けるが、何体かはもう射撃が間に合わない距離に到達していた。至近距離戦闘だ。本来は交戦は避けるべき距離。ましてや相手が人間ではないなら尚更であった。なぜなら触手など、人間にはないもので攻撃される可能性もあるからだ。だが阿河はあまり気にしていなかった。この期に及んではそんなことどうでもいいという理由もあったが、一番の理由はそれではなかった。
阿河は格闘指導官であった。阿河に襲いかかる、頭部だけがネズミに変わっている怪物に前蹴りを繰り出す。阿河の身長は171cm。格闘技で言うならば不利と言っていい体格であったが、格闘では関係ない。なぜなら、背が低くても人は殺せるから。怪物はわからないけど。阿河の防寒靴が怪物にめり込み、カウンターをもろにくらった怪物が、何体かを巻き添えにして後ろに吹っ飛ぶ。
「阿河、行くぞ!」
上原3曹を消防夫搬送の要領で担いだ玉木1曹が叫ぶ。玉木1曹と阿河は、上原3曹が倒れていた位置からそう遠くない外へつながる扉へと一目散に走り出す。
「せぬんー!あーせーえー!」
意味のわからない叫びを背中で聞きつつ扉へ到着したが、阿河は玉木1曹に質問せざるを得なかった。
「やつらを外に出してはまずいんじゃ?」
この島は無人島ではない。住民がいる。これまでの交戦での銃声などを聞いて学校からは離れているだろうが、小さい島だ。離れるにも限度があるだろう。そこにこいつらを解き放ったら?住民のことを考えれば、俺たちがここで勝ち目がない戦いに挑むしかないのでは?
玉木1曹の答えは、昼下がりの主婦の雑談のようだった。
「外は良い天気だぞ」
その一言だけ発し、阿河を精神的に置き去りにして玉木1曹が扉を開けた。幸いにも積雪で扉が開かないという最悪の事態を免れたその先には、冬の北海道の田舎にふさわしい銀世界が広がっていた。そこは学校のグラウンドであった。そのグラウンドには、阿河たちがヘリで降着した痕跡が吹雪でも完全には消えずわずかに残っていたが、それでも雪面は綺麗と言っていい。風はややあったが吹雪は止み、雲量3から4の、まさに晴天であった。遠くには小さな山と、まだらに配置された民家が見える。
その雪面を、任務開始時より人数が一人減った分隊は走りはじめた。除雪されていないため、雪に足をとられ思うように進めない。やつらも体育館を飛び出して追ってきた。ムカデ野郎がやつらをコントロールしていたのだろう。それがなくなった今、やつらが校舎内に留まる理由はなかった。
やつらに比べて分隊は、走るという点でハンデを負っていた。玉木1曹は上原3曹を担いでいるし、阿河も右肩の痛みが影響して全力で走れない。そもそもやつらは空身、こっちは防弾チョッキその他の装備。追いつかれるのは明白であった。それでも寒さで肺が焼ける感覚と、屋外に出てから聞こえる騒音を気にする余裕はなく走り続けていた阿河は、足がもつれて勢いよく雪面に突っ込んだ。勢いと疲労で手放してはいけない89を手放してしまい、それは2mほど先の雪面に阿河と同じように突っ込んで雪に埋もれる。
阿河は慌てて立ちあがろうとする。が、少し後を走っていた玉木1曹が足を止め、上原3曹を優しく雪面に降ろしているのに気づく。そして、やつらに正対した。正気か。やつらとの距離は約15m。阿河は口を半開きにして、左手に包帯を巻いた玉木1曹の顔を伺う。やや後ろから見えるその横顔は、これまでになく朗らかであった。阿河にはそれが諦めの表情にはどうしても見えなかった。これまでのくそったれな状況でも諦めず戦い続けたこの男が、最後になって諦めるわけはない。じゃあ、なぜ。なぜそんな表情を?やつらがこちらに迫ってくる。あれは…?異形の中で異彩を放っている、下半身がナメクジみたいになっているが上半身が人間のあいつ。上半身のあの服装は。警官だ。行方不明になっていた、島唯一の駐在だ。そいつがぬるぬるとだが素早く接近しつつ、こちらに拳銃を向けていた。まだ知能がある個体か。くそ、銃はなしだろ。防弾チョッキを着ているとはいえ…。89を取りに行く暇はない。あぁ、あと少しだったのに。だがそれでもなお、指揮官に動揺はなかった。
彼我の距離が約10mを切ったとき、斥候分隊指揮官は今任務間で初めて冷静さを捨て、嬉々とした様子で振り返り、部下を労った。
「阿河、お疲れさん」
やつらの群れが雪煙に覆われ見えづらくなったと思った瞬間、その身体が紫色の血液を霧散させながら、四肢はもちろん胴体までも細切れになっていく。一拍遅れて連続した機械音と乱暴な破裂音が鼓膜を叩き、阿河はその音源を探して無意識に空を見上げた。本来の設計思想の交戦距離よりかなり近い空にいたその音源は、阿河が着ている服と同じ、緑と黒と茶色が混ざった色彩であった。
AH-1S。いつだったか、
主力であった。待ちに待った主力が来たのだ。玉木1曹はわかっていた。そして信じていた。連隊が我々を見捨てるはずはないと。天候さえ回復すれば、主力は来るはずだと。
ヘリコプターから飛び降り、素早く履いたスキーを駆使してこちらに向かってくる主力第一波の隊員たち。各機4人、計12人で完全武装、84を背負ってる者や狙撃手もいる。阿河はその光景を、休暇で帰ったときの故郷の街並みを見る目でしばし呆然と見つめた。むさ苦しくて、普段履いている靴のせいで足が臭い男たちが自分に向かってくるのが、こんなにも嬉しいことだったとは。阿河と同じ小隊で、顔に苦労の数だけ皺を刻んだ冬季遊撃レンジャーの曹長を先頭に、仲間が阿河たちのもとに到着する。訓練でも恒常業務でも阿河に厳しかったその曹長が、迷子になっていた我が子に語りかけるように言った。
「待たせたな」
阿河は全身の力を抜き、雪面に仰向けの大の字で倒れ込む。雪が盛大に顔にかかるが気にしなかった。雪で視界が狭まった目で空を見る。
空は間違いなく、阿河の苦労を労っていた。
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