おわり

「これでとりあえず大丈夫だべ」


 脱臼していた阿河の右肩を入れ直した羆のような男が言った。確か今の常識では、脱臼した肩は神経を痛める可能性があるため簡単には入れ直してはいけないはずだが、昭和生まれの陸上自衛官の常識では違ったようだ。たとえそれが衛生陸曹であったとしても。激痛をなんとかこらえ、痛み止めをもらった阿河は業天業務用天幕を出た。ふと見上げると雲の姿は全くと言っていいほど見つけられず、空はその青さを誇っていた。


 

 阿河たち斥候分隊のもとに主力第一波が到着してから約一時間、現在主力は第三波まで到着していた。グラウンドには天幕が二張り立てられ、主力の中核たる第1中隊の指揮所と救護所が設けられていた。中隊長や運幹運用訓練幹部、雑用の陸士までが慌ただしく動いている。


 最初に主力と合流した際、阿河と玉木1曹は彼らに対して状況を説明した。こちらに敵対的な人間に擬態する怪物がいることや、校舎内にもしかしたらまだ民間人がいる可能性など。本田2曹については殉職した旨だけを伝えた。儀式で生贄になったなどと言って彼らを混乱させるべきではないと思ったから。それらを聞いた彼らは一瞬は動揺したものの、一名を阿河たちの護衛に残して校舎に乗り込んでいった。

 UH-1Jという名の馬車馬がピストンで函館駐屯地と島を行き来し、続々と人員が到着する度に同じ説明をした。その馬車馬の係留点も開設され着陸が可能になり、上原3曹も無事後送されたが自分の右肩の件を言い出せる空気になったのはほんの数分前だった。結果を考えれば、言い出さない方が良かったかもしれないけど。

 阿河自身もまた、次のヘリで函館に帰る予定であった。負傷しているし、お偉いさんや警務隊、外の警察からの聞き取りやらなんやらの頻雑なお役所仕事の生贄に捧げられるために。お安いご用だ。同じ生贄でも、本田2曹の成し遂げたこととその覚悟に比べればなんてことはない。あの人には妻子がいたはずだが…。なんて顔向けすればいいのだろう。おそらく敷かれる緘口令を無視して真実を伝えるべきか。岸本は…。独り身だったか。やつらの一味だったとはいえ可哀想に。そんなことを考えた阿河は、先ほどから気になっていた者たちに視線と思考を向けた。

 


 あの黒いスーツの二人の男。



 彼らは主力第二波と一緒にここに来た。指揮所の前に並んで立っている彼らは、民間人の雰囲気ではないが自衛官ではないことはわかる。防衛省の人間か?いや、官僚でもない。一体…?携帯電話でしきりに連絡をとっている彼らの脇は膨らんでいる。拳銃を携行しているのだろう。会話の内容が少しだけ聞こえたが、オブジェクトの確保やら収容やら、記憶処理がどうとか。慣れている様子だ。中隊長からは直々に気にするなとのお達しがあった。彼らは…彼らは真相を知っているのか。彼らからの情報提供があったから、連隊は最初からこの島に敵がいると認識できていたのか?噴火湾のはるか向こうの帯広か、津軽海峡越しの八戸の方面航空隊にしかいないAH-1Sがギリギリで間に合い、分隊の窮地を救ったのも事前の情報提供があったから?というか、もっと早く情報提供があればそもそもこんなことにはならなかったのでは?というより…。


 これが初めてじゃないのか?


 今考えても無駄か。どちらにしても物騒な連中なのは間違いない。だが頼むから、味方じゃなくていいから、敵になるのも勘弁してくれ。人間まで殺したくない。殺すのは人と動物や虫が混ざった怪物だけでいいから。


 校舎からたまに思い出したように聞こえてきていた銃声はもう聞こえない。主力による校舎内の残敵の掃討が終了したようだ。人間と、人間もどきと、明らかに人ではない者によって行われていた殺し合いは幕を閉じようとしていた。

 あぁ、瞼が重い。眠い。それに加えて極度の疲労から、インフルエンザやコロナよりもタチが悪い倦怠感もある。二日酔いは…。治ったかな。阿河は天幕からやや離れ、その場にだらだらと座り込み煙草を取り出して火をつける。喫煙所でもなんでもない場所で煙草を吸うのは本来なら叱責と指導を受ける行為だったが、そんなことはどうでもよかった。そもそも、未知の敵を相手にした陸上自衛隊初の実戦をくぐり抜けた男に文句を言う人間はおらず、幹部ですら見て見ぬふりをして自分の業務に専念していた。

 改めて、せわしなく蠢く迷彩柄の男女がいなければ美しい島の情景を眺めてみる。青い空、銀世界、厳かな山、波のない海。本当に綺麗だ。この数時間気にしていたことと言えば、怪物どもの数や弱点、残弾、分隊の状況、主力の到着時期…。そんなくだらないことばかりを気にしていて気づかなかった。世界はこんなに綺麗だったんだな。俺が、俺たちがそれを守った。やっと終わった。終わったんだな。視界が霞み、嗚咽が出る。終わった。生き残ったんだ。感覚としては半世紀ぶりくらいにテッパチをとってその場に投げ捨て、阿河はしばしコントロールされた自暴自棄にふけった。




「そろそろ行くか」




 父親のような声が聞こえ、阿河は振り返らず、震えた声ではいと答えた。この地獄の数時間、斥候分隊を率いて諦めずに適切な命令指示を出し続け、阿河を生存へと導いた男の声だった。阿河はテッパチを拾って、涙を迷彩服の袖でぬぐい、鼻をすすって咳払いしてから、後期高齢者のように立ち上がって振り返った。

 変わらぬ玉木1曹だった。いや、以前から年齢の割に若く見えたが、むしろ若返ったようにも見える。左手の負傷の名残りである包帯以外は、絵に描いたような若くて健康な青年のようだった。

 玉木1曹もまた、阿河と共に函館へ移動することになっていた。函館行きのヘリが到着したので阿河に声をかけてきたのだった。斥候分隊長という立場上、取り調べは阿河のそれよりも面倒なことになるだろう。しかも玉木1曹なら、もし責任を問われることになったら全て自分で背負いかねない。それは避けなければ。この男がいなければ阿河は数時間前に死んでいたか、人間じゃなくなっていたのだから。懲戒免職、いやそれ以上があったとしても構わない。玉木1曹を守らなければ。

 

 二人は天幕地域からやや離れたヘリの係留点に向かって歩き出した。ん。…いや、えーと。なんだ。あー。これはなんだ。何かひっかかる。突然降って湧いたこの気持ち悪い感情というか、考えというか。アイデアなのだろうか。なんて言えばいい。これは…?違和感。違和感だ。何かが違うんだ。それも非常にまずい。危険だと深層心理が叫んでいる。何が違う。本来そうあるべきものがそうではないんだ。五感で、いや六感まで使って考えろ。これはまずい。何が。何が違う…?










 あぁ、くそ、くそ。最悪だ。そんな。あぁ、なんで。くそ。なんで。そういうことなのか。本当に?あぁ、なぜあのときに。あのときは涙で視界がぼやけていたから?彼女の姿に神々しさに感動して…。まさか。あれも彼女の能力?感動したんじゃなくて、させられた?だからなのか?くそ、俺は馬鹿か。いや馬鹿なんだな。馬鹿だからこうなった。


 なぜあのときに気づけなかった?


 玉木1曹はあのムカデ野郎が変態する前に左手首を切断され、右足にも裂傷を負った。その後に儀式によって現れた人間の女性のようなあの存在によって手首を元に戻してもらい、裂傷もふさいでもらったと思っていた。だがその切断された際の手首への応急処置は包帯ではなく止血帯だった。ベルトのような構造をしており、腕や足に巻いて締めつけることで出血を止める救急品。包帯は裂傷を負った右足に巻いたはず。


 なぜ左手に止血帯ではなく包帯を巻いている?

 

 傷は治っているのに。あれから新たな傷を負ったのか。だが包帯に血は滲んでいない。だとすれば。

 

 隠すため?


 怪我していない箇所に包帯を巻く意味。玉木1曹には、左手首より上を隠さなければならない理由があるのではないか。そうだとすればその理由は一つしかない。そもそも論だったのだ。岸本と合流して、事の経緯とこれからの行動を話し合った際に話題になった可能性。


 新たに呼ぶ神様も偽物だったら?


 あの時は確かに仕方なかった。あれしか手段はなかった。だがその場における最善の選択が、最善の結果を保証するとは限らない。彼女は玉木1曹を救ったのではないのだとしたら。変えたのだとしたら。彼女の世界では当たり前の姿に。


 彼女も偽物だったとしたら?


 鳥肌が立ち、悪寒が止まらない。まだ確実ではない。だがそう考えれば辻褄は合う。彼女はあのとき玉木1曹を変えた。だが彼女も大ムカデと同様に偽物だった。ある生物を完全に他の生物に変える、あるいは完全に擬態させることはできず、その名残がどこかに残ってしまう。それが分隊が最初に交戦したやつと同じだったとしたら。その名残りが、左手だったとしたら。


 あぁ、面倒くさい。怖い。くそ、やりたくない。だけど。もしそうだとしたら。俺の推測通りだとしたらそれは、時間が解決しない問題だ。対処しなければならない。上原の負傷が無駄になるから。岸本の死が無駄になるから。そして本田さんの献身が無駄になってしまうから。


 やるしかない。


 阿河は立ち止まって、静かに89のグリップを握り直す。そして一緒に歩いていた男に、尊敬と疑惑と殺意が混ざった声色で話しかけた。





「…偽物か?」





 やや前を歩く形になっていた玉木1曹も立ち止まった。彼はすぐには振り返らなかった。二本あった足が、バッタみたいに変化しながら迷彩服と防寒靴を破って四本に裂ける。そして骨をバキバキと折りながら首を180度曲げることによって、やつはやっと振り返った。その目は蛇のそれになっている。そして、その偽物は、いたずらがバレた小さい女の子のような声で言った。



「せいかい!」



 人は、人を殺すことを躊躇う。では相手が人じゃなかったら。ついさっきまで尊敬する上司だった人が怪物になったら、人はどうするのだろう。









 少なくとも阿河は、呼吸するかのような無意識かつ自然な動作で、慣れ親しんできた道具の安全装置を解除した。









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