その十九

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ眩い光が体育館に溢れた。照明によるものなどでは決してない、眩くてムラのない光が体育館の中に広がりまた薄暗くなった。無意識に目を閉じていた阿河は、ゆっくり目を開けた。

 本田2曹はいなくなっていた。離れた場所にあった下半身と共に。そして本田2曹がいた場所、医療廃棄物に囲まれた位置に、それはいた。


 それは、金色に輝いていた。その尊ささえ感じる眩さを、なんと形容すればいいのだろう。大きさと容姿は小柄な日本人の女性そのもの。白い装束を身にまとい、綺麗な長い黒髪を誇っている。首には日本史の教科書で見たような首飾り。そして、彼女は微笑んでいた。慈愛に満ちた、この世のすべてを包み込むような優しい顔であった。

 阿河は全てを忘れて彼女に見惚れていた。それはとてもとても美しい、まさに女神であった。こんな血と硝煙にまみれた、そして怪物が跋扈する北海道の田舎の体育館には全く似つかわしくない存在だった。しかもただ美しいだけではない。神々しいとはまさにこのこと。スピリチュアルだのなんだの怪しげなものに興味はなかったが、阿河は少なくとも今は、そしておそらく今後もオーラというものを信じざるを得なくなっていた。


「あぁ」


 大ムカデが呟いた。恐怖か驚愕か、それとも諦めか。…以前から彼女のことを知っているのか?呟きが意味するものはわからない。だがやつにとって良い意味ではないだろうことは、神々が対峙するこの場面でただの傍観者である阿河にもわかった。

 やつが彼女に襲いかかる。これまでと同じく目にも止まらぬ速さで彼女に突っ込み、やつの大顎が彼女を噛み切らんと胴体を腕ごと挟んだ。




 ただそれだけだった。




 彼女には何の変化もなかった。あの巨体があの速度で衝突してきたにも関わらず、びくともしなかった。やつが顎に力を込めているのは傍から見てもわかったが、噛み切ることもできていない。彼女はただ微笑んで立っているだけだが、傷一つつかない。硬い、とはまた違う。布のような柔らかい素材では鋼鉄を切断できないといったような、そもそも前提が違うようだった。

 やつがもう一度噛み切ろうと顎の力を一旦緩めた瞬間、彼女は左手でやつの額に優しく触れると、やつの動きが止まった。胴体も無数の足も、触角も顎も、何もかもの動きが止まった。なにをしたんだろう。時を止めたのか硬直させたのか。とにかくやつは、微動だにしなくなった。



 格が違った。



 彼女が阿河の方へ歩き出す。恐怖は感じなかった。上手くは言えないが、阿河は敵意のような、負の感情のようなものは彼女から感じなかった。

 これは、一体?この廃校にきてから感じなかった感情に阿河は戸惑いながらも、それに思考と身を任せた。気づけば涙が頬を伝り、全身の筋肉が緩んで阿河は力なくその場に座り込んだ。情けないとは思わなかった。むしろこれでいいと思ったし、そうさせる何かが彼女にはあった。そもそも彼女に抗う気はないし、抗っても勝ち目はないだろうが。

 だが彼女は阿河に向かっているわけではなかった。彼女は阿河の4mほど遠くに倒れている、左手首を失い、右足に裂傷を負い、左足が溶けて焼け爛れて気絶している自分の上司に向かって歩いていた。彼女からは足音が聞こえないことに気づいたが、そんなことはどうでもよかった。

 彼女が横たわっている玉木1曹のもとにしゃがみ、左手でその体に触れる。ゲームのような効果音や、派手な演出はなかった。玉木1曹の負傷していた箇所が一瞬光り、負傷する前の元の状態に戻っているように見える。切断された左手首さえも。涙で視力は乱されていたが、少なくとも阿河にはそう見える。この学校に派遣されてから、常識では考えられない場面に幾度となく直面してきた阿河ではあったが、尊敬する上司に起こったこの奇跡を目の当たりにしたその脳裏にはある言葉が浮かんだ。






 神様。






 なんという。こんなことがあるのか。手をかざしただけで傷を治せるとは。阿河の感嘆をよそに、彼女は立ち上がり大ムカデの方へ歩きはじめた。ただ立ち上がるという所作すら美しさを感じる彼女を、阿河は口を開けて呆然と眺めることしかできない。

 彼女は未だ動けない大ムカデの顔の真正面に立つと、右手でその頭や大顎を優しく撫でた。母が子の頭を撫でるような優しさ。嫌味や余裕から来るものではない、慈しみの行為。札幌にいる母を思い出していた阿河は、彼女がこちらを見ていることに気づいた。彼女は微笑んだまま、優しく頷く。この世の森羅万象を知っているような、そしてそれらを全て許すような、得体のしれない包容力を感じさせる頷きだった。また体育館が一瞬だけ眩い光に包まれ、阿河は目を閉じた。もとの薄暗さが戻り目を開けると、彼らはいなくなっていた。彼女も、ムカデの怪物も。信じられない状況が生起した割にはそのあっけない幕引きについていけず、阿河はしばしの間、体育館に飛び散る血や肉片、様々な医療廃棄物や空薬莢を座り込んだまま眺めていた。気づけば外の吹雪はおさまっていて、静寂が体育館に流れている。


 




 終わったのか。岸本の言っていた、本物の神様を連れてくる計画が成功した。そして連れ帰ってくれた。本物が偽物を連れ帰ってくれたのだ。…本田2曹のおかげだ。自分の死が避けられないことを悟り、岸本の計画を引き継いで儀式を最後までやり遂げた。自分が生贄になることで。そのせいで遺体は存在しないが、その立派な墓を立てる決意はもう固まっている。岸本もあいつらの一味だったとはいえ、同情すべき点はあった。くそ、右肩が痛いな。早く衛生に診ても…。

 いや、待て。思考が戻ってきた。彼女の影響で思考が乱れていたが、高卒の陸上自衛官なりに物事を考える能力が戻ってきた。こういうときは…。優先順位を決めて行動するんだ。今優先すべきは?敵はいなくなった。だったら…?

 玉木1曹がうめき声を上げつつ、起き上がった。意識を取り戻したようだ。阿河が急いで駆け寄る。


「…分隊は?なにが起こった?」


 玉木1曹が右手で頭を抑えつつ、阿河に質問する。


「岸本はやはり駄目でした。上原はもしかしたらまだ息があるかもしれません。本田さんが自分を生贄にして儀式を成功させました」


 玉木1曹の顔に複雑な表情が浮かぶ。


「玉木さん、終わったんです」


 校舎と通路で繋がっている扉が乱暴に開き、何者かが体育館に入ってきた。長さが3mくらいある腕を引きずっているそいつは、他にも何体か同じような怪物を引き連れていた。


「まぁーちーぁーせーんしぇー」


 阿河と玉木1曹を見つけたやつが、妙な叫び声をあげる。それを聞いた玉木1曹が、阿河に言った。






「まだ終わってないらしいぞ」




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