その十八
嘘はいつかバレる。それは嘘だと阿河は思う。バレる嘘もあれば、バレない嘘も世の中にはあると思う。もちろん本人がバレていないと思っていても、そうではない場合はあるだろう。だが墓場まで持っていくという言葉があるように、真実が明るみにならない嘘もあるはずだ。いや、あってもらわねば困る。しかもそれは永遠じゃなくてもいい。多分だけど、あと少しでいい。あと数分程度でいいから。だから、頼む。
「私たちをあなたの仲間にして下さい!」
この世のものではない怪物に謝り続けながら阿河は考えた。岸本は生きている。そして挫けていない。胴体を貫かれても諦めていない。儀式は続行されている。それをやつに気づかせてはいけない。射撃と格闘でも少しなら時間を稼げるが、雀の涙だろう。それは最後の手段としてとっておく必要がある。今は謝るしかない。儀式が完了する前に岸本が息絶えたら…そのときは詰みだな。
やつが笑いはじめた。苦笑いの類ではない。本当に面白いから笑っているようだった。ひとしきり笑ったあと、奴が話しはじめた。
「信じるとでも?」
「本気なんだ!あなたを、正直言うと舐めていました。今は…」
「漫画とかいうお前達の想像の産物があるらしいが、私はその悪役とは違う」
阿河を遮ってやつが話す。漫画まで知っているとは博識だな。取り込んだ人間から知識を得たのか。だがそれは問題ではない。こいつ、なにが言いたい。
「妨害される可能性を考えず、私がこんな余裕綽々な態度をとると思うか?岸本はもう死ぬ。儀式が完了する前に。…まあいい。とりあえずお前達からにしよう」
阿河の全身から汗が吹き出した。恐怖によるものではない。極度の緊張から汗が噴き出した。バレていたか。まずい。詰みか。無理があったか。嘘は露呈した。いや露呈していた。やつの言葉通り、岸本の声は今にも聞こえなくなってしまいそうだった。分かっていて茶番に付き合っていた?くそ。一番恐れていた事態。
やつの身体全体が蠢き出した。肉がちぎれ骨が折れる音を響かせながら、その身体は細長く、扁平へと変化する。やつの二つの顔は身体の中に消え、代わりにムカデの顔が現れる。というより、やつの顔だけではなく身体全体がムカデになる。これまで交戦してきたやつらのような、めちゃくちゃな身体の構成ではない。顔、胴体、足などの全てが、我々が知っているムカデになっていた。6mから7mある身体はデカすぎるし、あの硬い銀色の表皮は変わらないにしても。
「やはりこっちの方がしっくりくる。もう唾液は効かない。お前らには鉢巻も無いようだしな」
やつの言っている意味がわからない。これが全力を発揮できる元の姿?今までの形態は試していた?以前に人間と戦ったことがある?しかも鉢巻を着ける文化がまだあった頃?
やつの攻撃が迫っているのは明らかだった。玉木1曹が右足を引きずりながらも阿河のもとに走り寄って来た。持っている89を差し出しながら早口で言った。物事を諦めていない声色だった。
「拳銃と交換だ。お前の方が戦える。残弾は今の弾倉が五発、新しい弾倉が一本で計35発だ。頼んだぞ」
「了解。拳銃は七発しかありません」
「十分だ」
阿河も素早く89と弾倉を受け取る。そして片腕がない自分には拳銃の方が良いという冷静な判断ができ、指揮官とはかくあるべきを体現し続ける男に拳銃を渡す。やつにとってはどちらも豆鉄砲だが。まぁいいさ。だってどちらも、鉄砲には違いないんだから。
やつが鎌首をもたげて、言った。
「諦めて死ね」
玉木1曹が拳銃を構えて、言った。
「諦めるな!どこか抜ける身体の箇所が絶対ある!逃げるな!戦うんだ!射撃用意、撃て!」
分隊は、結果的にはそれが最後になった分隊統制射撃を開始した。やつの表皮に当たった5.56mm弾と9mm弾が火花を上げて方向を変え、体育館の壁に突き刺さり窓ガラスを割る。目にも当たったはずだがやつが気にしている様子はない。ただそれだけだと良かったが、やつの目的は俺たちの攻撃に耐えることではなく、俺たちを攻撃することだった。やつが目にも止まらぬ速さで本田2曹に突っ込み、その体を切断する。本田2曹という人間を構成していた上半身と下半身が別々の方向に吹っ飛ぶと同時に、やつが尾で上原3曹を引っ叩く。女性隊員とはいえ体重が数十kgはあるはずの上原3曹は紙切れのように吹っ飛び、体育館の壁に叩きつけられたっきり動かなくなった。
やつが阿河を見る。阿河はやつの口がなにかを咀嚼しているのに気づいたが、かろうじて自分の頭がそれがなにかを考えるのは阻止した。
阿河の全身から汗が吹き出した。緊張によるものではない。極度の恐怖から汗が噴き出した。一瞬で二人やられた。頼りになる先輩も、かわいいと思っていた女性も。あっけなかった。ちらっと見た岸本は、完全に息絶えていた。声はもう聞こえず、ただただ血を垂れ流す肉塊になっていた。そこから少し離れた位置には、断面をこちらに向けた本田2曹の下半身があった。
次は俺だ。殺される。89を持つ手が震える。あ、あ、とどうすればいいかわからない呻き声を口から漏らしつつ後ずさりする。
終わりか。
「諦めるなと言っただろ!!」
すぐ近くで叫ばれて、自分に言われていると理解するのに時間がかかった。玉木1曹だった。やつの顔に向かって射撃し、後退しきったスライドによって残弾無しを拳銃から告げられるとその拳銃をやつに投げつける。その意味のない攻撃が意味がなかったことを確認すると、今度は銃剣を構えながら阿河に言った。
「根性論は嫌いだ。でも…。俺は諦めたくない。もう少しだけだ。手伝ってくれ。お前だけなんだ。お前だけが頼りだ」
残り少ない弾薬。得体のしれない怪物。勝ち目が薄い勝負。優秀な指揮官の期待。あぁ、なんと面倒なことか。
阿河の思考はまだ混沌の中にあったが、その体は勝手に動きはじめていた。玉木1曹と同じく弾切れを起こしていた89に最後の弾倉を叩き込む。30発程度では意味がない。89に着剣する。着剣などもっと意味はなかったが、とにかく訓練の成果であった。疲労と睡眠不足のなか汗と泥にまみれながら行った訓練が、阿河を思考が停止しても動けるようにしていた。
鎌首をもたげたやつの口が動いた。阿河は頭ではなく脊髄で判断した。
やばい。
やつの口から液体が飛んでくる。阿河と玉木1曹はほぼ同じタイミングでそれを避けたが、右足を負傷していた玉木1曹の動きがやや遅れた。玉木1曹の左足に液体がかかり、白い煙が上がって迷彩服が溶けはじめる。一拍遅れて玉木1曹が苦痛の叫びを上げ、やつが今度は阿河を噛み切ろうと突っ込んで来た。
初見では速すぎて何もできなかっただろう。だが本田2曹がやられたときにやつの速度は一度見ていた。相変わらず頭ではどう対処するか考えられなかったが、身体は着剣小銃による刺突を繰り出していた。その刃先が、猛烈な勢いで突っ込んで来たやつの口内にカウンターのように突き刺さり、阿河は後ろに吹き飛ばされる。口の中まではあの硬い表皮で覆われていなかったのは幸運と言わざるを得ない。が、それだけだった。吹き飛ばされて横たわっていた阿河が、上体だけを起こしてやつを見る。やつが少しだけ後退し、頭に近い足を器用に使って口に刺さっていた89を引き抜いて簡単にへし折ると、それを遠くに放って三度鎌首をもだけた。何事もなかったかのように。
…大したダメージじゃないことくらい、俺が一番わかっているさ。さっきの攻撃を人間で例えるなら、口の内側に魚の骨が刺さった程度だろう。地味に痛い。ただそれだけ。口の内側に魚の骨が刺さって人は死なない。くそ、右手に力が入らない。やつの口に着剣小銃を突き刺した際、やつの突進の運動エネルギーを最終的に受け止めた右肩が脱臼していた。たぶん肋も何本かいったな。内臓もやられてるかも。玉木1曹に目を向けると、その左足をひどく焼け爛れさせた状態で気絶していた。想像を絶する痛みだったのだろう。
つまりこういうことだ。事実上、分隊は全滅した。武器弾薬も尽きた。岸本も死んだ。
その事実を認識して、阿河の思考は正常に戻った。義務から解放されたからだ。清々しさすらあった。俺は、俺たちはやれることをやった。最善を尽くした。もうやれることはない。やつはもう俺に関心はないようだ。体育館を出ようとしている。
阿河はまだ動く左手で迷彩服の裾のポケットから煙草を取り出し、火をつけた。任務中ずっと吸いたい気持ちを我慢していたが、もういいだろ。一口吸って、人生で一番美味い煙草だと気づく。その煙草のおかげで頭はさらに冷静になってきた。やつの後ろ姿は、外へと通じる扉に到達していた。それを見た阿河は、紫煙を吹き出しながらよろよろと立ちあがった。やれることはないと思ったし、実際そうだろうが、このまま行かせるのも癪だ。
酷い有様の周囲を見回す。薄暗い体育館。巨大なムカデ。一部には医療廃棄物が並べられている。様々な生物の破片。横たわる玉木1曹と上原3曹。本田2曹の下半身。槍に貫かれた岸本。まさに地獄絵図だ。よくこんな状況で戦ってきたな。本当によくやったよ。阿河に笑みがこぼれた。さて、最後にあいつのケツに回し蹴りでもかまして…。
本田2曹の上半身は?
阿河から笑みは消え、咥えていたタバコは床に落ちた。そして必死に視線を巡らせて、見つける。這って移動したことを示す血痕の先、医療廃棄物に囲まれた岸本の死体に隠れるようにして本田2曹の上半身、いや、本田2曹がいた。胴体の切断面と口から血を垂れ流す本田2曹と一瞬目が合ったが、本田2曹は阿河を無視するようにすぐに目を閉じ、両手を合わせた。
そういうことか。思い込んでいた。岸本じゃないと儀式はできないと。そうじゃない。条件は揃っているんだ。医療廃棄物と生贄。
生贄が岸本から本田2曹に代わっただけ。
なにかを察した大ムカデの動きが止まり、後ろを振り返るが遅かった。
そのときにはもう、本田2曹が呟いていたから。
「せてりり」
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