その十七
やつがこちらに向かって歩き出す。いいぞ。第一段階は成功だ。俺たちの目的はやつを倒すことではないからだ。そうだ、来い。岸本のために場所を空けろ。
「分隊、距離をとりながら対処しろ!射撃用意、撃て!」
三種類の小火器が設計者の思惑通りに動作して金属の塊を射出する。が、やつの胴体に当たったそれは火花を散らして跳弾になる。そんなに硬いのか。玉木1曹の指示を待つまでもなく射撃はやつの足に集中しはじめたが、そこには想像を超える光景が広がった。
射撃が命中した足がちぎれるたび、新しい足が生えてくる。その種類はさらに多様になり、うさぎみたいな足もあれば人間の足もある。痛覚はないのか、怯む様子はない。ちぎれる足の数より生えてくる足の方が多い。そのせいでやつがバランスを崩すことはなく、前進する速度も変わらない。変わらないどころか加速している。
「散開しろ!」
玉木1曹のその指示は適切だった。急加速したやつが分隊に向けて突っ込んできたからだ。分隊と、本田2曹に引っ張られた岸本が蜘蛛の子を散らすように散開し、怪物の突進を避ける。視界の端で、やつが足を何本か伸ばしてきたのを捉える。分隊は素早く振り返り射撃を継続しようとしたが、それは叶わなかった。
突進した勢いではるか後方にいるはずのやつが、玉木1曹のすぐ目の前にいた。なぜ。半端じゃない加速だったぞ。あぁ、あの数の足で急制動したのか。そして、やつの身体には前後っていう概念がないんだろう。さっきまで球体の後ろだった側に前側にあった顔が現れて、さっきまで後ろ足だった足が前足になって鎌に変化していた。ついでに拝んでいる両手も。つまり振り向く必要がない。
ふざけるな。他にも様々な罵声を頭の中であびせたが、玉木1曹の左手首が切断され宙を舞うの見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。玉木1曹がうずくまり、声にならない声を出すがすぐに正気を取り戻す。右足にも裂傷を負ったようだ。やつが追撃しようとしたが、やつの顔を狙った本田2曹の射撃でそれは叶わない。さすがに眼球には胴体ほどの強度はないのであろう。やつが少しだけ怯む。その隙に阿河は拳銃の弾倉を交換し、本田2曹の射撃に加勢する。上原3曹は小柄なWACながら玉木1曹をドラッキングして後退し、玉木1曹自身と連携して携行する救急品で応急処置を開始した。左腕には止血帯を、右足には包帯を巻く。左手首は完全に切断されているが、右足に負った裂傷は外側で、幸いにも内側にある太い血管は傷ついていないようだ。その事態を掌握した阿河は、指揮官を負傷させた相手への心の声が口に出ていることに気づいていない。
「くそ、くそ。くたばれ」
ここで玉木1曹を失うわけにはいかない。士気が崩壊する可能性がある。分隊のメンバーと岸本には強い意志があるが、大黒柱を失う影響は少なくないだろう。その精神的な影響は、事後の適切な判断を狂わせる。それを最小限にする訓練は受けているにせよだ。だが少なくとも今は、その大黒柱は指揮権を放棄してはいなかった。
「分隊、射撃を継続!顔を狙え!岸本、さっさとはじめろ!」
止血を素早く終えた玉木1曹が指示を出す。そして手首がない左腕の前腕部に89をのせて、自らも射撃を開始した。上原3曹も射撃に加わる。
分隊の面々は逐次に弾倉を交換し撃ち続けるが、残弾はもう少ない。玉木1曹は分隊に対して弾薬使用統制は設けていなかった。なぜなら、もう弾薬を惜しんでも意味はないからだ。泣いても笑ってもこれでおしまい。やるしかない。正直、逃げたい。おそらく勝ち目はないから。でもやるしかない。入隊した際に宣誓し、その後にもたびたび行われるだるい精神教育の際にも宣誓している内容の一節を思い出す。
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の付託にこたえることを誓います。
これを考えた人はこんな事態は想定していなかっただろうな。だが確かなことは、その事に臨んでいるのが今であるということ。もともと俺は、この宣誓で義務感が醸成されるようなまっすぐな人間ではなかった。つらいことから逃げたいし、よくブレる。自衛官だって、色んな種類の自衛官がいるのは罪ではないだろ。
だがやるしかない。もう決めてしまった。なぜなら義務感が義務に変わってしまったから。あの怪物を止められるのは俺たちしかいない。やるしかない。弾が尽きても、銃剣が折れても、四肢が切断されても、死んでも、やるしかない。もうここまできたら。やるしかない。
やつが、もはや数が数えられないほどになった足のうち数本を使って顔を守りはじめた。それがちぎれても、また生えてくる足を使ってガードするために顔にダメージを与えるのが難しくなる。だが大事なのは、やつは未だ歩みを止めているということ。つまり。
とっさに岸本を探す。気づけば岸本は分隊の後方、元々やつが居座っていた場所にひざまずいていた。両手を合わせ、なにか阿河たちにはわからない言語で呟いたあとに、例の言葉を唱えはじめた。
せてりり、せてりり、せてりり、せてりり…。
その様子を見た玉木1曹が絶叫する。
「岸本を守れ!」
阿河は最後の弾倉を拳銃に叩き込む。分隊の残弾はいよいよ少ない。おそらく全員合わせて100発程度。だがそれを感じさせない弾幕がやつを襲う。やつはまだ前進しない。いや、できないんだろう。分隊が横並びでやつと岸本の間に立ち塞がる。万が一やつが突っ込んで来ても止める覚悟だ。切り刻まれても止めてやる。もう少しだ。もう少しだけがんばれ。
やつの足のうち、向かって左側の数本が蠢きはじめたと思ったら哺乳類のような手に変化する。同時にちぎれて地面に転がっていた虫や人間の足の数本も結合し変化する。あっという間だった。あれは…?木だ。動物以外にもなれるのか。1.5mほどの先端が尖った木が意味するものを理解したときには、遅かった。
槍だ。
やつが槍を素早く拾い、背中の大きな翼で羽ばたく。そりゃ…飛べるか。阿河の思考を無視した巨体が嘘のようにふわりとその場に浮き、その手から槍が放たれる。風切り音を発しながら真っ直ぐ飛翔したそれは、阿河の顔上を通過して岸本の後ろ姿に突き刺さった。岸本が力なく前のめりに倒れる途中で、貫通した槍に支えられるようにして止まった。
指揮官の命令指示によってではなく、分隊は射撃を止めた。いや、無意識に止めてしまった。玉木1曹でさえ。やつが軽やかに着地したときには、吹雪がもたらす以外の、先ほどまでの殺し合いの音は綺麗さっぱり消えてしまっていた。少なくとも阿河にはそう感じられる静寂が体育館に広がった。
その静寂を破って、やつが高笑いしながら嫌味っぽく言った。楽しそうだった。
「ここまでよく頑張りましたね」
時間が解決するさ。面倒に直面したときの口癖が頭をよぎったが、口に出すことはなかった。それが間違いだと気づいたからだ。これは時間が解決しない問題だった。だが阿河は不思議と諦めてはいなかった。やるしかないと決めた心はまだ、唯一の頼みの綱が無くなってもブレてはいなかった。思考が働きはじめたが、打開策が思いつかない。弾はもう尽きる。そもそも射撃の効果が薄い上に、あの鎌と巨体が相手では格闘で無力化できないだろう。せいぜい時間稼ぎが関の山。逃げるという選択肢もない。どうする。だがまだ手はあるはずだ。この状況を打開する策が。
「なぁ、一つ聞かせてくれ」
本田2曹がやつに話しかけた。反応はないが、構わず質問する。
「俺たちも仲間にはしてくれないのか?神様なんだろ?この哀れな俺たちを救ってくれないのか?」
命乞い。なにを言っている。いや、本気ではないはず。本田2曹のことはレンジャー教育同期として知っている。突然朝四時に叩き起こされ、40kgの荷物を背負い五日間飲まず食わずで山をひたすら行軍した。指摘事項一点につき腕立て伏せ10回の服装点検での指摘事項は20点を超え、休日の外出時間は一時間だった。そんな日々が八週間続いた中でも、本田2曹はなにかを諦めたことはなかった。意図があるはず。必ずあるはずだ。
「いまさら無理だ。お前たちは死ね」
「導いてくれ。俺たちは道を誤った。だから正しい道を教えてくれ」
本気で言っていないとしたら。この嘘の意図はなんだ。こんな茶番を続ける意味は。喋り続ける意味は。
「だめだ」
「皆はあなたを馬鹿にしたが、俺はしなかった。どうか俺だけでも、頼む」
「ふっ。みっともない」
「頼む!お願いだぁ!」
本田2曹が取り乱す。それを見て、阿河の予想は確信に変わった。間違いない。本田2曹は演技をしている。
…今、微かに聞こえた。阿河は全てを悟った。本田2曹は時間を稼いでいる。そして誤魔化している。弾薬が豊富にあれば射撃すればいいが、弾薬が残り少ないので会話で目的を達成しようとしている。この小さな音がやつに聞こえないようにしている。
「…本当にすみませんでしたぁ」
情けない声色で阿河も怪物に謝る。バレるまで会話で引き伸ばし、間に合わなかったら射撃だ。それも駄目なら格闘で時間を稼ぐ。今はとにかくやつに話しかけ続ける。中隊の先任に申し訳なさそうに代休の許可をもらいにいった演技力を発揮してやる。おそらく同じ事実に気がついた玉木1曹と上原3曹も、自分たちがいかに愚かだったか話しはじめた。
自衛隊の歴史で初めての実戦の最中にある四人の精鋭は、今やそれこそ怪しい宗教集団のようにひたすら謝罪と懺悔を繰り返していた。
「せてり…り。せ…てり…り」
背後から聞こえる声をかき消すために。
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