その十六
阿河が体育館に突入する。そして拳銃の銃口と一体化した視線を、市街地戦闘訓練で体に叩き込んだ通りに素早く体育館の中に走らせる。分隊と岸本も素早く続く。廊下や用務員室、教室や職員室や音楽室と同じように、これが最後になることを願いながらクリアリングしようとする。北海道の田舎の廃校という看板通りの、小さく古びた体育館のカーテンは開いていた。だが天候はまだ悪く、これまでの場所の例に漏れず照明が点灯していないせいで薄暗い。
学生時代は剣道部だった。小さな学校だったので道場は無く、いつも体育館で稽古していたし大会が開催される場所も体育館だった。稽古には真面目に取り組んでいなかった。つらいことは嫌だったから。だが稽古に真面目に取り組まないということが意味することは一つ。強くならないということ。大会で強豪校に負けるたび屁理屈を並べたてて自分の小さなプライドを満足させる日々。そのせいで自信が持てず女子には話しかけられず、モテなかった。そんな自分を変えるために自衛隊に入り、確かに自分は変わることはできた。だからこそ陸曹に昇任できたし、レンジャー徽章も格闘徽章も取ることができた。ちなみに女性とも話せるようになった。だが過去の憂鬱なトラウマはまだ阿河の心の中に残っている。自分の器の小ささに気づきながらも変えられなかったあの日々。なんだ、俺も岸本と似たようなもんだったんだな。俺も人生の選択をちょっと間違っていたら、自衛隊じゃなくて変な宗教団体に入っていたかも。
阿河は体育館を見て思い出した昔の様々な嫌な出来事を、剣道着のなんとも言えない匂いと共に思い出した。だが阿河は、0.1秒程度の時間がかかるかかからないかで過去の振り返りと感情の整理を終えた。なぜなら認識したから。阿河と分隊をこの不幸に巻き込んだ元凶がいたから。くそ、お前か。阿河はクリアリングなどするまでもなく、狭い体育館の中央にいる異形を捉え、足を止めた。
それは、血痕と医療廃棄物、人間や動物の破片に囲まれていた。
体高は4mくらいだろうか。姿は…。足が十数本近くある。虫の足のようで、一本一本が様々な種類の様々な大きさの足だ。その足に支えられ魚の鱗のようなもので覆われている銀色の胴体は、丸い。直径2mほど。丸いというか、おそらく真円だ。この場に数学者がいても完璧に丸いと言うだろう。こちらと対峙している側に目が二つあり、真っ直ぐこちらを見つめている。いや、違う。あれは顔が二つあるのか。首がない単眼の顔が二つ、丸のなかに埋もれるようにして存在している。人間の顔ではない。あれはなんの顔だろう。上手く言えない。哺乳類のようだが見たことはない。鼻は無く、そのぶん口がでかい。その口には牙が多数生えておりそのせいで口は完全には閉じられないようだ。翼もある。翼開長は7mはあるだろう大きな翼。猛禽類のそれのようだ。
そして、人間の手が生えていた。胴体の右から左手が、左から右手が生えていた。それを正面で合わせている。指を揃えて、手のひらではなく手の甲同士を合わせている。
拝んでいるつもりか。自分は神様だと言っているのか。だが俺たちは知ってるぞ。
お前は偽物だと。
「はじめよう」
阿河と同じように足を止めていた分隊と岸本が、玉木1曹の一言で動き出す。やつに向かって右に阿河と本田2曹、左に玉木1曹と上原3曹。この四人が友軍相撃となる射線に気をつけつつ展開し、中央、やつの真正面に岸本が立つ。やつとの距離は10mあるかないか。
横目で見ると、岸本が震えている。それはそうか。怖いよな。
「大丈夫だ」
分隊に恐怖を悟られたことを知っていた岸本が分隊にそう言った。そして岸本は、深呼吸をして、初めて見る清々しい表情になりつつ手を合わせ、やつに向かって話しかけた。
「本当に…来てくれたんですね」
数秒待つが、やつに変化はない。無視しているのか、言葉が通じないのか。その場合どうする。やはり玉木1曹が言っていたように射撃するしかないか。だが躊躇いがある。なぜ。相手が神様だから?だから圧されている?違うだろ。あいつは偽物だ。びびる必要なんかない。あいつは神様なんてものではなくただの生物だ。これまで見たことがなくて気持ち悪いだけのただの生物だ。そもそも神様なんてものがいるなら、幼い子どもを病気で死なせないだろうし、心優しいが故に闇を抱えている人の自殺を止めるだろうし、生牡蠣にあたって腹痛でトイレに篭っていた俺を救っていたはずだ。逆に神様がそれらをもたらしたのかもしれないけど。
「こちらの世界に来て頂き…ありがとうございます」
岸本が再び話しかける。やはり反応がない。どうする。玉木1曹にまだ動きはない。まだ撃つべきではないということ。では、まだ待とう。玉木1曹がそう判断したのなら今はその時ではない。じゃあ、その時はいつなんだろう。少なくともそう遠くない。何分か後にはこいつと交戦しているだろう。だがきっと玉木1曹は信じているんだ。岸本の後悔と覚悟を。こいつは確かにやばいことに加担した。だがそれを悔いて、行動を起こしている。それを俺も信じよう。分隊の他の二人もきっと信じているから、射撃しますかなんてことは聞かないんだろう。では、まだ待とう。まだだ。
玉木1曹の期待、それに伴う分隊の期待に応えるように岸本が三度話しかける。そしてそれは、正解を引き当てる内容だった。
「…さきほどは逃げてすみませんでした」
「そうだ。お前から必要だった物は謝罪だ」
この人間の命をかけた茶番の元凶が、左右の口から一単語ずつ交互に話し始める。器用と言うべきか無駄と言うべきか。にしてもまず謝れだと。器が小さいやつだな。それはそうか。偽物なんだから。岸本と偽物の会話は続く。
「そうですよね。びっくりしてしまって…。他の人はあなたによって変わったのですか?」
「そうだ。お前達と同じような姿だったので私が変えた。何体かは私の活力とした。お陰で体力も回復し、お前達の言葉も理解した」
「…なるほど。私たちを変えるのもすぐ出来るんですか?」
「私の側にくれば造作もない。さぁ、来るがよい」
「実は、あなたにはあなたの元々いた場所に戻って頂きたく、お願いしに参りました」
無表情だったやつの二つの顔が、少しだけ同時に引きつり、黙る。良かれと思って後輩を飲みに誘ったものの断られた上司の顔にそっくりだ。そうだ。そういう、その程度の認識でいい。こいつは神様なんかじゃない。ただのくそ野郎だ。やつが口を開き、岸本と話しはじめることで沈黙を終わらせた。
「何故だ。貴様らが私を呼んだのだろう?それにこの世界はおかしい。気付いてしまったからには、そのままにはしておけない」
「私もそう思っていました。しかし、この世界にも良いところがまだいっぱいあることに気づいたのです。どうか、お帰りになって頂くわけにはいかないでしょうか?私たちにもう一回チャンスを頂けませんか?」
「駄目だ。貴様らの世界は私の世界と違って腐っている。この世界を私の世界のような個性が溢れる素晴らしい世界にする。皆がそれぞれ違う素晴らしい姿に変える。お前の左右にいる者達もだ。私の大事な仲間を殺したようだな。だが許してやろう。血迷うことは誰にでもある。そんな変な姿ではなく、素晴らしい姿に変えてやる」
たちが悪い。神様気取りっていうのは面倒くさいな。自分が法律と思っているとことかはまさにだ。だが考えてみれば、呼ばれて来たのにやっぱり用件はないですって言われたらそりゃ困るよな。そしてこの器の小さい化け物はそれを認められないってことか。笑いながら、それなら帰りますって言えば全て解決なのに。可哀想な小物だな。まったく。とんだ茶番に付き合わせやがって。自分も大いに小物の要素を兼ね備えていることを今は忘れている阿河が、怪物を憐む。さて、どうするか。万が一、交渉の余地はあるかとも思ったがやはり駄目か。
「一つだけ聞かせてくれ」
玉木1曹がやつに話しかける。
「お前はこの世界の生き物全てを、お前の思うように変える気なのか?」
「そうだ。私に取り込んだ者の思考によると、この世界は理不尽に溢れているそうだな。私がそんな物とは無縁な世界にしてやろう。それにお前らは醜いし、非効率的な身体の構造をしている。それも私が変えてやる。お前達も見ただろう。素晴らしい生き物達を」
「我々がそれを望んでいないとしても?」
「自分の悪癖を自分で直すのは難しいだろう?」
「余計なお世話だ。帰ってくれ」
「駄目だ。私の立場でこれを見逃すのは罪ですらある。未熟なお前達を変えなければならない」
「いいから帰れ。帰らなければ実力を持って排除する」
やつが明るい表情になりながら答える。
「ははっ。笑わせないでくれ。お前達に何が出来る?」
もう交戦は決定的だろう。だがやつはまだ冷静だ。余裕すらある。もしかしたらこちらの意図、儀式に気づいている可能性も否定できない。こちらのペースに引き込まなければ。怒らせなければ。なにかないか。やつのあの冷静さを失わせるなにか。あいつの性格を考えるに…。やつの思想や考え方を非難しても意味はない。さっきみたいに平行線を辿る議論になるだけだ。それじゃいっそのこと発砲するのは。駄目だ。やつが冷静な状態のままで交戦に入ってしまう。これまでの経験を思い出せ。散々人を怒らせてきただろ。どうやって怒らせてきた。やるように言われていた仕事をやっていなかったから。遅刻したから。余計な一言を言ったから。忘れものをしたから。人のアイスを勝手に食べたから。二股をかけていたのがバレたから。俺は関係ないのに勘違いでっていうのもあったな。
それくらいでいいんだ。人が怒ることなんてその程度。まあ今回の相手は人ではないが。それを踏まえたら。傲慢で知的ぶっている怪物を怒らせる言葉とは。
あぁ、そうか。それだな。きっとそうだ。でも俺じゃあないな。やつの世界ではどうだか知らないが、やつも男女という概念は分かっているだろう。
これは女の仕事だ。
阿河が上原3曹に向かって大声で質問する。
「上原、こいつの印象は?」
「…はい?」
「こいつの見た目でも性格でもいい。印象は?」
「…気持ち悪いです」
「聞こえない!もっと大きな声で、本音で言え!」
「ナルシストっぽいしグロいです!マジ死んで欲しいです!!」
実際に聞くと辛辣過ぎて、思わず阿河は笑った。玉木1曹も、岸本もだ。声を出して笑った。当の上原3曹は、言ってやったとすっきりした顔になっている。そうだ。ひねくれた変化球なんていらない。まっすぐ、ストレートでいい。悪口なんてそんなもの。予想外の事態について来れていない様子の怪物に、阿河がもう一発くらわせる。
「ってことだ。きもいんだよ。死ね」
怪物は無表情になり、何も話さなくなった。やつの足のうち前側の二本が持ち上がって表面が蠢いているうちに、カマキリの鎌に変化した。翼を何回か大きく羽ばたかせた後、やつは重低音が特徴の叫び声を上げた。聞いたことのない、この世のものとは思えない、憎悪を感じられる叫び声。
あぁ、怒ってるな。いいぞ。我を忘れろ。おそらく相手が本物の、寛大な神様だったら悪口で挑発なんて効かなかっただろうな。とにかく、いよいよだ。最後の戦いってやつだ。
音楽室で岸本は玉木1曹に言っていた。必要なのは覚悟と幸運だと。玉木1曹は覚悟ならあると答えていたが、これまでの戦いを振り返ったとき、阿河の考えは違った。
俺たちには幸運もある。問題は、あとどれくらい残っているかだ。
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