その十
玉木1曹を先頭に、分隊は廊下に飛び出し一斉に右手に銃口を向ける。男の声が聞こえた方向を。
右手を向くと突き当たりでT字路となっている。左に曲がると体育館、右に曲がると二階につながる階段となっている。助けを求める叫び声の主は、二階から駆け下りてやってきた。こちらを見つけた男は階段を下り終わったところで動きを止め、顔に安堵の表情を浮かべた。それはすぐに緊張、いや悲壮な表情になる。
「助けてくれ!」
男が再び助けを求めながら走ってくる。分隊はT字路から50mほどの位置、職員室を出てすぐの廊下で既に所要の警戒態勢をとっていた。玉木1曹が大声で呼びかける。
「止まってください!」
男は素直に立ち止まった。久しぶりに予定通りのことが起きて安心する。男と分隊との距離は30mほどだ。玉木1曹が冷静に話しかける。男は走って来たからか、息も絶え絶えながら答えはじめた。
「お名前は?」
「…岸本だ」
「他に誰かいますか?」
「人間は俺だけだ」
「…ここで何があったのですか?」
「後で話す!やつが来るんだ!助けてくれ!」
「…こっちに来てください!」
これは…。人間だと考えていいだろう。油断はできないが。陸上自衛官四人分の視線と銃口を一心に浴びつつ、岸本が分隊のもとへやって来た。スーツにノーネクタイ、細身で眼鏡を掛けた男が慌てた様子で話しはじめる。
「羆みたいなやつが来る!詳しくはやつをなんとかしてからだ!」
玉木1曹がそれに対して無言で頷き、T字路に視線と銃口を戻す。分隊員も同様だ。据銃したまま玉木1曹が岸本に聞く。
「どんなやつですか?」
「なに?」
「あの吠えているやつです。どんな特徴が?」
「…でかい。あとは…」
そこまで話し、岸本が意を決したように続けた。
「めちゃくちゃだ」
もう一度あの咆哮が聞こえた。廊下の窓ガラスが地震のように揺れる。足音も聞こえてきた。重い足音だ。実感が湧いてくる。羆が襲ってくる実感が。ここは動物園ではない。動物と客を隔てる檻や強化ガラスはない。敵意が剥き出しの羆が襲ってくる。しかも普通じゃないやつが。
階段からやつがゆっくり下ってきた。全貌が見える。
体長は2m後半は間違いない。3mあるかもしれない。あれだと体重も500kg近くだろうか。皮膚は概ね羆のものだが、ところどころ爛れていたり…。あれは人間のものだろうか。左前足の付け根などの一部は人間の皮膚に覆われている。背中からは人間の足が生えていて、足の裏からまた足が継ぎ足されておりそれが繰り返され3mから4mほどの長さに達していた。それは関節が異常に柔らかいか関節がそもそも無いようで、触手のように動いている。本来短い尻尾が生えているべき場所からは、日本猿と思われる手が何本か生えている。
そして、三つ首だった。真中が羆、左の顔が人間、右の顔が鹿という構成。羆の顔には怒り、人間の男の顔には喜びの表情が浮かぶ。鹿の顔からなにも感じとれない。
確かにめちゃくちゃだ。めちゃくちゃだが。これまで交戦した怪物たちは元々は普通の人間だった。そこから推測するに、あいつもおそらく元々は普通の羆だったのだろう。鹿や猿も多分そうだ。
可哀想に。
89を握り直しながら思う。人間たちはもしかすれば望んでそうなったのかもしれない。だが羆たち動物は違うのだろう。巻き込まれたんじゃないのか?誰がどういった目的でどうやったかわからないこのおかしな状況に。こんなことがなければ普通につがいになり、普通に子どもを作り、普通に余生を過ごしたであろうこの動物たちは、今や一体なんなのかわからない怪物になってしまった。可哀想だ。阿河はそう思う。
だが、やる。やらなければ、やられるから。
羆の怪物、その三つ首の六つの目と目が合う。相変わらず羆の顔は怒り、人間の顔は喜んでいる。鹿の顔は…。鹿の顔も喜んでいる。そうだよな、正気じゃないよな。
狂った三つ首の怪物がこちらに向けた視線を逸さぬまま歩きはじめる、いや、すぐ走りはじめた。羆の走る速度は…時速60kmくらいだったか。背中の触手のような足を器用に振り回しながらこちらに走ってくる。
まさに、迫力。そして速すぎる。玉木1曹がこの状況で必要なことを叫び、その内容にしたがって分隊が何発か射撃した。胴体や羆の頭部に命中する。特に羆の頭部に命中した弾丸は左の眼球を吹き飛ばし、あれだと脳に達しているはずだが少しだけ走る速度が遅くなっただけでやつが気にする様子はない。この射撃ではやつを止められない。あぁ、くそ。
「職員室だ!」
阿河が叫ぶ。分隊と本田2曹に引っ張られた岸本が、二つある入口の一つから職員室に飛び込む。最後尾の玉木1曹が飛び込んだ直後、その後ろをやつが猛然と走り抜けて行った。あの速度だ。停止してそこからさらにUターンして戻ってくるまでには時間が必要だろう。
確かに時間は必要だった。1秒ないくらいの時間が。職員室の入り口を壊して広げながらやつが突っ込んできた。
「嘘つけ」
阿河がそう呟き、玉木1曹が再び射撃を命じる。多数の命中を認めるがやつが怯む様子はない。頼むぜ。バイタルに何発撃ち込んだと思ってる。10発や20発どころじゃないぞ。
そう思った瞬間、ボクシングのスウェーのように頭を後ろへ逸らしなにかを避け尻もちをついていた。考えた結果ではなく反射で。格闘指導官としての訓練の成果が出たが、やつの背中から生えている人間の足を避けたことに阿河の脳が気づいたのは少し遅れてからだった。振り回してやがる。足の裏に蛸のような口があったのは気のせいだろうか。
素早く立ち上がり射撃する。弾倉が空になりこう悍が開放されたとき、三つ首の一つである人間の顔がまっすぐこちらを見てはっきり意思を感じさせるように喋った。
「もうあきらめたら?」
阿河は思う。
これは、時間が解決するのか?
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