第31話 進路の話(1)

 こたつに座って宿題をしているところを見ると、まりもがトップクラスに成績が悪い生徒だなんてちっとも見えなかった。

 ノートを前にして、教科書を上に置き、辞書を教科書の右に置いてそのページを右手で押さえて、わからない単語ごとに辞書を引いている。

 教科書の後ろの単語集とかではなく、ちゃんと辞書を引いている。教科書の文をていねいにノートに写して、辞書で調べた意味を書き、それで文の意味を取っていく。わからなくなったら、一度調べた単語でもまた調べる。

 その姿を見ると、とてもできのよい、中学校っていうのを代表する「できる子」の姿なのだが……。

 ほとんど全単語引いてないか、こいつ?

 それに、単純な文はわかるらしいのだが、前置詞とかが入ってくるともうお手上げらしい。ノートの単語の上に、右に矢印を書いたり、その上に反対側に矢印を書いたりして、訳文を書いたり消したりしている。

 それでも、前置詞というのが、後ろの単語を前にかけるためのものだというのがなかなかつかめないらしく……。

 口を出そうかと思うが、黙っている。

 どうせこんなやり慣れないことをしてもすぐにバレる、そのときに泣きつかせてやれ、と思った。

 少しは苦しめ、という気もちもあった。

 でも、それより前に、見ていたかった。

 こいつが勉強に没頭する姿なんか、めったに見られるものではない。

 もしかすると、いまこいつは満鶴みつるに弱みを見せないためにがんばっているだけかも知れないけれど、それでも、その姿からは

「まじめに勉強してるんだから口出ししないで」

という気もちが、ことばを通さないで伝わって来るようだ。

 こういうのを「鬼気ききせまる」とか言うのだろうか。

 それは言い過ぎかも知れないけど、すごく本気なのは確かだ。

 いや。こいつ、本気なのだ。

 それも、たぶん、いつも。

 「宿題忘れましたー!」

とか言ってるときも、ごまかしているのではなくて、いや、ごまかしているのかも知れないけれど、そのごまかしすら本気なのだ。

 気が散っていると言えば、いま満鶴のほうがずっと気が散っている。

 少し問題を解いてはまりもを見、またちょっと解いてはまりものほうに顔を上げ、というのを繰り返している。

 それでも、まりもよりは速く問題を解いている。

 いや、こいつと較べるのが、まずまちがいだ。まりもがいまだに前置詞の前と後ろの関係で四苦八苦している問題を最後まで解いてしまい、次の穴埋め問題に行く。

 「わたしさ」

 問題を解きながらまりもが言う。問題から目を離していない。鉛筆もノートにつけたままだ。

 そんなのに、集中しろ、とか、宿題中の私語はよくないぞ、とかは言えない。

 「うん」

 「高校は陣屋町じんやまちに行くつもりなんだ」

 まりもは、低い、聞き取りにくい声で言う。

 でも、まじめにしゃべっていることは、わかった。

 「え? でも、だって、あんた自身がバカ学校だ、って」

 「いや、たしかにそうだよ。そして、お姉ちゃんには合わなかった」

 そう言ったところで、突然、ofという前置詞は後ろから前にかかることに気づいたらしい。そのofの上に濃く「の」と書いて、矢印を引いて単語をつなげている。

 「いや、なんて言ったらいいのか、わたしバカだから、そのバカ学校でちょうどいい、とかって言うのはちょっと違うかも知れないけど、ちょうどいいって言うより、身の丈、って言うとやっぱり違って、うん、わたしバカだから、こういうのってさ、どう言っていいかわからなくて」

 「うん……」

 安易に「まりもはバカじゃないよ」と言える雰囲気ではなかった。

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