BAR・ロマンスにて

ポン吉

BAR・ロマンスにて

 【BAR・ロマンス】では毎夜ロマンスが生まれている。緩やかに流れるジャズと、オネエ口調の店主に見守られ、今日も恋物語が始まろうとしていた───。


(よし、今日こそ凪さんに告白するんだ!)


 吉岡よしおか正人まさとは店の前で襟首を正し、スマホの内カメラを使って髪型を確認、お気に入りのネクタイをきゅっと締めた。緊張から呼吸は浅く、肩は上がり、旋風が巻き起こりそうなほど激しく瞬きをしている。

 思い浮かべるのは1人の女性。

 彼女の名前はなぎという。年齢も職業も、姓名でさえも不透明な、ミステリアスな女性だ。凪というのも名前か名字か分からないし、もしかしたら偽名かもしれない。半年前に出会っておいて、情けない話だと正人は自嘲した。


「もー、何してるの? 早く入りなよ!」


 後ろから声をかけられて、びくりと体が大げさに震えた。視線を下に降ろすと、大学時代からの友人が怒った顔で正人を急かしている。


「お、驚かすなよ、愛。今心の準備してるんだよ」

「そうやって前も告白できなかったでしょ! 男ならいい加減腹決めて、当たって砕けてきなよ!」

「砕けちゃダメだろ!?」


 一ノ瀬いちのせあいは正人の恋を応援してくれている、気の強い女友達だ。正人が初めてこのバーに来て凪に一目惚れした時も、なかなか話しかけられない正人に焦れて「髪色、お揃いですね。あたしたち」と会話のきっかけを作ってくれた。あの時の凪の、嬉しそうな笑顔といったら! 正人は思い出して、口角が自然に釣り上がるのを感じた。


「何ニヤニヤしてんの、よっ!」

「うわあっ!?」


 カランカラン、とベルが鳴る。愛は正人の前にするりと体を滑り込ませて、勢いよくドアを開けてしまった。そして正人の背中をドンっと叩き、よろけた正人は店内に足を踏み入れる。


「ちょっと、もう少し静かに開けなさいよね。もうそのドアボロなんだから」

「ごめんなさーい、マスター」


 長い髪を緩く編んだ麗人が顔を顰める。このバーのマスターだ。性別の分からない見た目をしているが、骨格や声から、多分男だろうと正人は思っている。その美しさの前では、性別など関係ないのかもしれないが。

 そしてお目当ての彼女は、カウンター席に1人座ってブルームーンを飲んでいた。彼女はいつも、カクテルを一杯頼んだあとはノンアルコールしか飲まないから、正確には分からないけど、多分お酒に強いんだろうなと正人は当たりをつけた。


「こんばんは。先週ぶりですね」


 凪はグラスを持ち上げ、乾杯するような仕草で2人を出迎えた。店の照明に反射して青い光が彼女の顔に当たり、神秘的な空気を演出する。正人はそれにぽーっと見惚れた。


「お、お久しぶりです、凪さん。今日もお変わりなくお綺麗で……」

「バカ、髪切ってるでしょ!」

「え!? あ、その、新しいヘアスタイルもよくお似合いです!」

「ふふ、長さはそんなに変わってませんよ。前髪がちょっと短くなったくらい。愛さん、よく気付きましたね」

「そりゃあ、営業職ですから! 取引先との会話のきっかけにもなりますし」

「流石です」


 言いながら、愛は凪とひとつ席を開けて座る。正人をひと睨みして、「隣に座れ!」と急かし立てるようだ。

 正人は一歩目から躓いたとこに泣きそうな気持ちになりながら、意地だけでなんとか凪の隣に座る。彼女は花の香りがした。正人は香水に詳しくないから、なんの花かは分からなかったけど。

 マスターに「同じものを」と注文して、正人はチラリと凪の方を伺う。凪は半年前と変わらず、艶やかなピンクブロンドを耳にかけ、上品な仕草でグラスを傾ける。正人は溢れてくる手汗をズボンに擦り付けて拭いながら、美容院がどうとか、トリートメントがどうとかいう話をしている女性陣の会話の切れ目を待った。


「あっ、あたしメイク直さなきゃ。お手洗い借りますね」

「ちゃんと返してちょうだいね」

「ふふっ、はーい!」


 ちょうどカクテルを作り終わったマスターが、正人の前にグラスを差し出しながら茶化す。愛が店の奥に行く足音が、やけに大きく聞こえた。

 マスターは流石というべきか、空気を読んですぐにカウンターに引っ込んでくれた。店の中は他に客もいないので、正人と凪だけになる。

 どう考えたって、チャンスは今しかなかった。


「あのっ。凪さん」

「はい」

「俺、初めて会った時から、凪さんのことすごい綺麗な人だなあって思ってて」

「ありがとうございます」

「それで、その、話してるうちに、だんだん凪さんの内面も好きになって。この人、優しいんだなあって」


 どもりながら話している間に、正人はだんだん落ち着いてきた。半年間、金曜の夜は毎週欠かさずここに来た。最初はただただ綺麗な人だと思うばかりだったが、凪の内面を知るたびに好きになっていった。

 決定打は、正人が吐いてしまった時だった。その日は仕事でミスばかりして落ち込み、もやもやした気分を払うように酒を飲んだ。結果は火を見るよりも明らかで、正人は店のトイレから動けなくなってしまった。その日は愛はいなかったし、マスターは酔い止めが切れていたから買いに行っていて、必然的に凪が正人を介抱してくれていた。凪は正人に呆れるでもなく、怒るでもなく、「嫌なことがあった日に、お酒飲んじゃダメですよ」と優しく諭してくれた。「約束です」と指切りをした時から、正人はすっかり凪に本気になったのだ。

 その包み込むような優しさに惚れたのだと、正人は顔を真っ赤にしながら熱弁した。隠れていた愛が、思わず頬を染めるほどに真剣で熱い告白だった。

 ムードは最高潮だった。場所は雰囲気のいいバーで、実質2人きりで、手を少し伸ばせば触れられるくらい、彼女との距離は近い。


「だから……好きです! もしよければ、俺と付き合ってください!」

「ごめんなさい」


 正人は勢い余って立ち上がり、凪に真っ直ぐ手を差し伸べた。

 そして光の速さで振られたのだった───。



◾️



「え?」


 たっぷり10秒後、正人は音として捉えていた言葉の意味をやっと理解して、間抜けな声を漏らした。


「え、ちょ、『ごめんなさい』って!?」


 店の奥からは思わず愛が出てくる。マスターもひょこりと顔を覗かせたが、黙って成り行きを見守るだけだった。

 凪はにべもなく「お断りしたんです」と、いつもと何ら変わりのない声で言った。


「な、なんで……」

「あなたのこと、恋愛対象として見れないんです」


 正人は正直、ちょっと自信があった。この半年で相当仲良くなれたし、勘違いじゃなければ、いつも楽しそうに話してくれるから。場の雰囲気も手伝って、必ず成功するだろうという空気感もあった。実際愛はクラッカーを持って待機していたし、楽しそうに話しているのもあながち間違いではなかった。

 でもそれは、『お友達』としての話であって───凪の方に、その気はこれっぽっちも無かったのである。


「待って待って凪さん! もうちょっと考えてみてくださいよ。正人ってほら、背も高いし、顔もそこそこイケメンだし、会社でも出世株だって言われてるんですよ!」

「そう言われましても」

「何がダメなんですか? 頼りないところ? 緊張に弱いところ? 子どもっぽいところ? 鈍いところ?」

「わ、悪口言うのやめろよお……」

「吉岡さんじゃなくて、私がダメなんです。どうしても、吉岡さんのことをそういう目で見れないから」


 取り付く島もなかった。

 正人はその後、どうやって帰ったのか覚えていない。頭の中でリフレインするのは、間を置かず言われた「ごめんなさい」と、「恋愛対象として見れないんです」という凪の言葉。風呂に入っていても、ご飯を食べていても、仕事をしていても、夢の中にだってその映像が流れた。一度、凪が嬉しそうに頬を染めて「はい」と言ってくれる夢を見たけど、あれは最悪だった。

 こうして正人はノイローゼに陥った。寝ても覚めても凪、凪、凪。叶うならもう一度告白の場面に戻って、「おい! 時期尚早だ!」と自分を殴ってやりたかった。

 しかし現実は無情、時は戻らないのが自然の摂理。それならば、この失恋の痛みを受け入れて、時間が解決してくれるのを待つべきではないか。正人の中の天使はそう諭した。

 いいや、1回くらい振られたところで諦めるなよ。七転び八起きがお前の座右の銘だろう? 悪魔はもっともらしく囁いた。

 そうして悩んで2週間。目の下にクマをこさえて、愛に心配されながら、悩みに悩んで、そして───。


「2週間ぶりです!!」


 ギリ悪魔が勝った。


「え、ええ。いらっしゃい」


 マスターは面食らって狼狽えた。あまりにも正人が鬼気迫っていたからである。

 凪も同じように驚いていて、摘もうとしていたピスタチオは指からすり抜け、皿の中に戻っていった。

 後ろから追いついた愛は、正人が何をしでかすか気が気じゃなかった。大学の時から、一度決めると視野が狭くなるところがあったから。

 正人はずんずんと鼻息荒く凪に近づいていき、やや乱暴に手を取る。凪は身を捩って逃げ出そうとしたが、正人の宣言の方が早かった。


「諦めませんから!」

「え?」

「好きになってもらえるまで、諦めません!」

「じゃあ一生無理ですね」


 正人の決意は早くも折られそうになったが、そこは意地で何とか踏ん張る。

 この日から、正人の猛アタックは始まった。


「凪さんこんばんは。今日もお綺麗ですね」

「どうも」

「お隣、いいですか」

「ごめんなさい、予約席なんです。両隣とも」


 正人はめげない。


「凪さんこんばんは。今日は花を買ってきたんです。この前、チューリップがお好きだと言っていたので」

「わあ、綺麗ですね。マスター、お店に飾ってくれる?」

「……」

「吉岡さん」

「! はい、正人で大丈夫です」

「吉岡さんは、チューリップの花言葉って知っていますか?」


 検索結果は『望みのない愛』。

 しかし正人はめげない。


「凪さんは、どんな男性が好みですか?」

「放っておいてくれる人ですかね」

「……できそうにありません」

「そうですか」

「だって俺、凪さんとはたくさん話したいので」

「あら、気が合わないんですね、私たち」


 ……正人はめげない。


「凪さん、俺本気です」

「吉岡さん、私も本気です」


 正人はめげない!



「ぅえっ、ひっぐ、ぐすっ」


 土曜の夜、正人は居酒屋でビール片手に泣いていた。正面に座る愛は、最初こそ「しつこすぎじゃない?」と訝しげな目を向けていたが、毎週毎週振られ続ける正人を見ていると、最早同情心しか湧いてこなくなった。


「どうやったら俺のこと好きになってくれるんだろぉ」


 呂律の回っていない口で、正人は弱々しく本音を吐き出した。息抜きに、と思って飲みに誘ったが、逆効果だったかもしれないと愛は後悔した。


「でもさ、正人。凪さんも言ってたけど、正人のこと好きになってくれる女の子って、きっといくらでもいるよ。次の恋に進むのもアリなんじゃないかな」

「嫌だ! 俺は絶対凪さんがいいのー!」

「だよね、分かってた。言ってみただけ」


 愛は正人の頑固さをよく知っているから、この問答は最初から無意味だった。

 しかしこうなってくると、正人が可哀想になってくる。こんなに一途に想いを伝え続けているのに、凪はのらりくらりと交わすだけだ。いや、結構直接的かもしれないけど。

 けど凪の返しは突き放すようではなく、まるで小さい子に諭すような響きを含んでいる。優しいといえば聞こえはいいが、それが正人が恋を諦め切れない原因になっているんじゃないか、と愛は考えた。

 だから、木曜の夜。愛はロマンスへと足を運んだ。正人はバカなところがあるから、金曜日以外はロマンスに行っちゃいけないと思っている。凪がいるかどうかは賭けだったが、愛は賭けに負けたことがなかった。


「いらっしゃい。珍しいわね、木曜に来るなんて」

「こんばんは。今日はおひとりなんですか?」

「ちょっと、凪さんと話したくて」

「……私?」


 凪は意外そうに目を瞬かせた。きょとんとした表情はいつもより幼く、何だか不思議に見えた。

 凪はすぐに愛を隣に座らせてくれた。何を頼むかと聞かれたが、愛の心境はそれどころじゃなかったので、「凪さんのおすすめを」と丸投げした。言ってから、「あっ」と思ったものの、凪は慌てるでもなく「アプリコットフィズを」と注文する。いつだって彼女はスマートで、無言の優しさを持っていた。


「それで……私に話って?」

「正人のことなんですけど」


 凪は「ああ」と言ってグラスを煽った。今日はウィスキーを飲んでいる。気のせいかもしれないが、彼女の声は少し硬く店内に響いた。


「凪さんは、正人のことどう思ってるんですか?」

「いい友達でしたよ。つい2ヶ月前までは」


 凪は若干疲れたようにため息をつきながら、「ああ、もう3ヶ月でしたっけ?」とカウンターに肘をついた。いつも丁寧な彼女にしては珍しく、乱暴な仕草だった。

 凪はピンクブラウンの髪を耳に掛けながら「それで?」と続ける。


「少しでいいから、もう一度、真剣に考えてあげて欲しいんです」


 愛は正人の様子を思い出しながら、凪の目を見て頭を下げた。

 数秒の沈黙の後、凪はため息と一緒に「頭を上げてください」と促した。


「分かりました、真剣に考えます。その上で、対応します。それでよろしいんですよね」

「っはい。正人のこと、よろしくお願いします」


 凪は誠実な目で愛を見つめ返した。それを見て、「ああ敵わないな」と、愛はやっと諦め切れた。

 愛はずっと、正人のことが好きだった。大学生の時からずっと、彼を愛していた。愛していたから臆病になって、気持ちも伝え切れないまま大人になり、そして明日、失恋するのだと悟った。

 彼が好きなピンクブラウンは、愛のものじゃなかったのだ。


「臆病者はダメね」


 ピンクブラウンの髪の女は、夜の街を泣きながら歩いた。



◾️



 どんなに泣いたって明日はやってくる。今日もロマンスには、いつもの3人が集まっていた。


「凪さん、こんばんは! 今日は───」

「今日は、飲みませんか」


 凪が正人の言葉を遮る。長い付き合いのマスターは、凪がそんなことをしたのが意外で、パチリと長いまつ毛を瞬かせた。


「いいですけど、どうしたんですか?」

「飲みたい気分なんです。マスター、シャンディ・ガフを彼に」


 凪は正人にこれでもかと酒を飲ませた。凪は酒に強かったから、油断して同じペースで飲んでいた正人はいとも簡単に体に酔いが回った。

 正人は泣き上戸だ。だから凪に泣きついて、弱音を吐くことは愛には見えていた。きっと凪は、今まで断ってきたのが気不味くて、酒の力を借りて告白の返事をするんだと、そう考えいた。


「なぎさん、なぎさあん」

「はい」

「いつになったら俺のこと、好きになってくれるんですかあ」


 凪も流石に酔いが回っていたので、頬が少し赤かった。仕草はいつもよりうんと大胆で、健康的な足を組む仕草は、同性の愛でさえ思わずゴクリと喉を鳴らすほど色っぽかった。

 凪は笑った。花が綻ぶような笑みで、「そうですねえ」と続ける。


「吉岡さんが私のこと、好きじゃなくなったらかな」


 正人は一気に酔いが覚めた。こんなに酷い断り文句は聞いたことがなかった。

 「追いかけられるより、追いかけたいタイプなんです」と、凪は天女のような顔で笑う。それに対して、正人は全身の血の気が引くのを感じた。脳が危険信号を発していて、「これ以上はダメだ」と叫んでいる。───が、酔った頭で正常な判断など出来るはずもなく。正人は焦って、凪に追い縋ってしまった。


「そんな、なんで。俺、何でもします。凪さんの嫌がることは絶対やらないし、何でも言うこと聞きます。だから───」

「じゃあ口説かれるのが嫌かな」


 凪は世界一冷たい女だった。先程までの柔らかい笑みを消し、氷の女王のような冷徹な顔で正人を見つめている。氷でできた視線の矢が正人の心臓に突き刺さって、ゆっくりゆっくり死んでいくような錯覚に陥った。


「何でも言うこと、聞いてくださるんですよね」

「それ、は」

「───私のこと、諦めてください」


 死刑宣告に似た響きだった。死神の囁きのようだった。地獄の閻魔の判決のようだった。

 吉岡正人の恋は、こうして粉々に砕かれた。



◾️



 ───半年後、BAR・ロマンスにて。


「あの2人、付き合ったんですって」


 マスターはグラスを磨きながら、常連に向けて声をかける。世間話の体だった。


「あの2人?」

「吉岡正人と一ノ瀬桜。覚えてるでしょ?」

「ああ……」

「可哀想にねえ、トラウマになったそうよ」

「何が?」

「アンタが」


 マスターは「酷い女」と凪を揶揄う。凪はくしゃりと表情を崩して、「私のせいじゃないじゃん」とテキーラを煽った。

 凪は本来、もっと自由な女である。

 予想よりも酒には強くて、毎回浴びるほど飲んでも酔うことはないし、外面がいいだけで、マスターと常連客の前では足を高く組み、カウンターに肘をついて適当な口調で喋る。正人や愛が想像していたような大人で優しくて上品な凪は、6割くらいが見栄と猫被りで作られた虚栄であった。


「でもマア、落ち着くとこに落ち着いたわよね。アンタだってそう思うでしょ?」

「まーね」


 凪はつまらなさそうに窓の外を見ながら酒を煽る。そんな様子にマスターはひとつ笑って、カシス・ソーダを「奢りよ」と差し出した。自分の分も用意して、カチンとグラスを合わせる。


「アンタの失恋に乾杯」

「……気付いてたの」


 凪は呆れたように「いい性格してるよね」と毒づいた。


「恋敵のこと、好きになれるわけないじゃん」


 凪が思い出すのはピンクブラウンの女だった。凪とは真反対のショートカットに、快活な笑い声。低い背。大きい瞳。忙しなく動く表情。───最初から、好きで好きでたまらない人がここにいるんですって顔。

 だから正人が気に食わなかった。こんなに愛してくれる人が近くにいるのに、それを無視して、自分なんかに尻尾を振っている。愛がいなければ、凪は正人に告白された時点でロマンスに来なくなったというのに、それすら気付いていないんだろう。ああ憎たらしい。


「一目惚れだったの、私も」


 声をかけられた時は本当に嬉しかった。話があると言われた時は、失恋は分かりきっていたのに、それでも期待した。あの時の凪は、愛がすること全てに一喜一憂して、バカみたいだった。

 名前を呼ばれてみたかった。


「流石に落ち込むなあ」


 凪はすっかり意気消沈して、カウンターに行儀悪く突っ伏した。ファンデーションが取れるとか、ラメが机につくとか、もうどうでも良かった。

 体を少し捩って横向きになると、鮮やかな赤が目に入る。グラスに水滴が伝っていくのをぼーっと見ながら、凪はマスターに「私っていい女?」と聞いた。


「いい女よ。アタシが見てきた中で1番」

「優しいね。惚れちゃいそう」

「惚れればいいのよ」

「……」

「アタシも女よ」


 凪は反射的に体を起こした。マスターはカウンターから身を乗り出し、鼻と鼻が触れ合いそうな距離で囁く。凪の顔はマスターの長い髪に隠れて、見えなくなった。


「……そうだね、マスターも女の子だ」

「っ?」


 凪は眉ひとつ動かさず、逆にするりとマスターの指に自分の指を絡めた。マスターは目を見張って体を後ろに引こうとするが、凪がそれを許さない。桜色の唇が開く。マスターは何を言われるか、と身構えた。


「でもねマスター、私、バイなの」


 しかし飛び出てきたのは断り文句でも、失望の言葉でも、罵倒でもなく、くつくつと笑い声の混じった言葉だった。


「女の子だからって理由で、好きになったわけじゃないよ」


 マスターの脳が言葉の意味を処理するのに、たっぷり3秒はかかっただろうか。

 凪の言葉の意味を理解した瞬間、思考回路には熱が伝わっていき、やがてそれは表面にも現れた。


「ヤダア!!」


 マスターは顔を赤くして叫んだ。


「それじゃ、アタシ今の、すごいダサいじゃない!」

「可愛かったよ、一生懸命で。キュンときた」

「イヤーッ!!」


 マスターはイヤイヤと頭を振ってしゃがみ込んでしまった。やがてシクシクと顔を覆って泣き始め、「アタシもう今日ダメよ」と泣き言を漏らす。凪は腹を抱えて笑いながらカウンターに入り、マスターの背を撫でてやった。


「そんなに落ち込まないでよ、ね? 私気にしてないから」

「アタシが気にするのよ! そんな、一世一代の大チャンスだったのに」

「まだチャンスあるよ」

「ないわよ!」

「あるよ。デートしよ」


 凪の言葉に、マスターは震えていた肩をピタリと停止させる。そしてソロソロと指の間から目を覗かせ、「……ほんと?」と幼い声で聞いた。


「本当。慰めてよ」

「……」

「私の失恋パーティー、してくれないの?」

「……する!」

「おお」


 マスターはガタリと立ち上がり、凪もそれに合わせて立ち上がる。2人の身長差は15センチもあった。さらにマスターが13センチのピンヒールを履いているので、凪は28センチ上にある顔を見上げねばならなかった。


「焼肉行くわよ、焼肉!」

「ええ、色気がないなあ」

「バカね、失恋には肉って決まってんのよ」


 「今日はもう閉店よ!」とマスターは店のドアに「Closed」のプレートをかける。2人は腕を組んで、スキップしながら夜の街に繰り出した。

 BAR・ロマンスでは、今宵も新たな恋物語が始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

BAR・ロマンスにて ポン吉 @Ponkichy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ