第9話 最後のお願い

「今、見えてる太陽の光はね、遥か西の昼下がりの地域とか、そういういろいろな空を通過して来た光なの」


 夕陽の方角は西だ。西にどんどん進んでいけば、まだ昼下がりの地域になるのだろう。


「昨日は青と赤のスキーヤーの話をしたよね。青のモーグラーと赤の基礎スキーヤーの話」

「ああ、覚えてる」

「じゃあ、青のモーグラーはジャンプ台でどうする?」

「ジャンプする」

「そう、それが昼下がりの地域の空の色。じゃあ、赤の基礎スキーヤーは?」

「ジャンプしない」

「だから遠くまで滑ることができるの」


 そうか、そういうことなのか。

 昼下がりの地域で青はジャンプしてしまい、遠くまでやって来ない。代わりにやって来るのは赤のスキーヤーなのだ。


「それで夕焼けは赤いのか」

「そうよ。分かった?」


 空が青い地域があるから、その先に赤い地域もある。まさか両者が一体になっているとは思ってもいなかった。


「よく分かったよ。ところでそろそろ起き上がっていい?」


 膝枕のデータは取得できたのだろうか。

 しかしアオは、驚くべきリクエストを口にしたのだ。


「その前に……キスしてもいい?」


 ――キスしてもいい?

 そのリクエストに答えるならば、僕は茜とキスすることになる。いや、中身はアオなんだから僕がキスするのはアオ?


「膝枕のデータはとても興味深かったわ。ゆったりと心が満たされることがよくわかった。だったらお別れする前のキスのデータも取りたいの」

「お別れ?」


 確かにアオはそう言った。

 いつかは訪れること。が、こんなにも早いとは思わなかった。


「この世界には不幸にも色を失っている地域がある。そこに青や赤の輝きを与えることが私の使命。だからこれ以上、ここには留まれない」


 そこまで言われたら引き留めることは出来ないだろう。

 そもそも酸素分子なんだから、引き留めること自体が不可能だ。


 もっとアオと話をしてみたかったけど……。

 でも、それとキスとは別だ。

 なぜなら、僕にとってはファーストキスなのだから。


「ごめん……僕はアオとはキスできない」

「どうして? 少年は茜ちゃんのこと大切に思ってるじゃない?」

「でも、今の中身はアオだ」

「じゃあ、中身も茜ちゃんになってあげる。私は彼女の大脳皮質や海馬の情報を読み取ることができる。そこから少年に対する気持ちも記憶も復元することができる。それってもう、茜ちゃん自身でしょ?」

「…………」


 それは違うと思う。

 だけど、なぜ違うのかを言い返すことができない。

 気まずく感じた僕は、沈黙を守りながらアオから視線を外した。


「わかったわ。じゃあ、おでこにキスしてくれる? お別れの挨拶に」

「それだったら……」


 僕は体を起こし、草地に座ったままアオと対峙する。

 ――これからキスをする。

 たとえそれがおでこだとしても、僕にとっては初めての体験だ。

 ドキドキと胸の鼓動が高鳴る。震える手を彼女の両肩に置いて、ゆっくりと体を引き寄せた。

 アオは興味津々で僕を見上げている。


「め、目をつむって欲しい。恥ずかしいから」

「そうなの?」


 くすくすと笑うアオは、ゆっくりと目を閉じる。


「キスしたらお別れだからね。倒れないようにちゃんと抱きしめてあげるんだよ」

「わかった」


 僕はそっと彼女のおでこにキスをする。

 刹那、茜の体から力が失われた。

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