第二十二話 無謀で臆病な、愛おしき冒険者よ

 ◇


 気が付くと、景色は一変していた。


「──ここ、は……?」


 僕の目の前には、誰もいなかった。風巻も、愛稲も。

 いや、そもそもここは先ほどのボス部屋ではない。


 砂と岩で溢れた空間から、真っ白な世界に変貌している。世界の果ては見えない。空と地面も全部同じ色だから、地平線すらも存在しない。


 天国……なのだろうか。僕のような酷い人間を迎えてくれる様なところではないと思うけど、思わずそう感じてしまうぐらいに、この空間は暖かくて、空気が澄んでいて、居心地がよかった。


「どうして──いや、それより愛稲は……コルは……!?」


 呆気に取られていた僕は、すぐに我に返り仲間の姿を探して辺りを見回そうと──


「落ち着け、ユキト」


 ──したところで、横から聞こえてきた荘厳な声に止められた。


「え──」


 僕は声に反応して左隣を見る。


「ここは精神世界。外界とは違った時間の流れを持つ場所。故に、お前が焦ることはない。今は、我の話を聞いてくれないだろうか」


 そこに居たのは──竜だった。

 光沢をもつ赤紫色の鱗に覆われた、巨大なドラゴン。

 その顔には神秘的な光を宿す黒金の瞳が宿り、大きな口は少しだけ開かれている。


 躾けられた犬の様に僕の隣に鎮座し、僕を睥睨する──最強のモンスター。


「間一髪だったが、こうして心を繋げることができた。もう少し時間が欲しかったが……いまさら言っても後の祭り。後はお前に託すとしよう」


 どうしてだろうか。

 僕は最強の──最凶のモンスターを前にしても、悲鳴を上げるどころか、体がすくむこともなかった。

 むしろ、その姿には頼もしさと安心感と──懐かしさを、覚えていた。


 姿かたちは全く違う。似通っているのは、鱗の色だけ。

 目の前の竜とあの魔物を重なるはずなんてないのに。

 なのに、僕の中には確信があった。


「──コル、なの……?」

「──ああそうだ、ユキト」


 僕の問いかけに、コルは静かに目を細めた。

 普段のコルが絶対に見せないような、大人びた表情だった。


「え、え……あの、色々なことが起きすぎて呑み込めないんだけど……」

「それはもうお前の方でなんとか理解するしかない。我が言えるのは、それだけだ」


 この投げっぱなしな感じ、ますますコルっぽいな……。

 いや、今はそれどころじゃない。


「そ、それよりコル! そんな姿になれるなら、今すぐ愛稲を助けてよ!」

「それは無理だ、ユキト」

「な、なんで……? そりゃ、僕だって情けないことを言っているのはわかってるけど、そんなこと気にしてる場合じゃ──」


「やらないのではなく、できないのだ。我がこの姿になれるのは、精神世界のなかでのみ。現実世界では、未だに卑小で脆弱な竜モドキのままだ」

「精神、世界……?」


 さきほどもコルはそんなことを言っていた気がする。


「そうだ。我とお前の心は今つながっている。故にこの世界には他の誰もおらず、聞かれることもない」


 言われてみると、あんなに傷だらけだった僕の体は、いつの間にか綺麗なものになっていた。精神体みたいなものだからだろうか。


「──って、それならなおさら悠長に話してる場合じゃないよ! 愛稲を」

「時間は有限だが、お前が思っているほど短くもない。だから、今は落ち着くんだ」


 助けなくちゃ、と言おうとする僕をコルが静かに遮る。


「………………うん」


 不思議とそれだけで、あんなにも焦燥に支配されていた僕の心は落ち着きを取り戻していた。

 コルの声は厳かだけど、それに反してするすると僕の耳に入っていき、体に溶けていく。


「ユキト。お前は今から、あの冒険者に打ち勝たなければならない」

「っ……うん」


 体が一瞬緊張で強張ったが、僕は表情を引き締めて頷いた。


「いい眼だ」


 コルの表情が、一瞬、笑ったような気がした。


「しかし、覚悟だけでどうにかなるほど戦いは甘くない。ステータスを限界まで高めたお前でも、レベルの差は覆せない。レベルは、ダンジョンという世界において絶対の階級制度。今のお前は、その中の最下層に位置している」

「……それは、僕が一番わかってる」


 戦う内に痛感した。僕が風巻に勝てる要素は一つもないということも。

 幻想的な世界の中には、力という絶対的なルールが存在していることも。

 それを覆すような奇跡が起きないということも──わかっている。


 理不尽な現実に僕の頭が自然と下がる。自分の弱さは、こんなところまで──こんなところだからこそ、悪さをする。


「──故に、お前にはレベルを上げてもらう」

「────え?」


 呆気にとられる僕のことは無視して、コルは話を続ける。


「その前に、謝罪しておこう。お前がこの一週間で手に入れるはずだったリソースは──全て我が吸収してしまっていた。すまない」

「え、え?」

「だが、そのおかげで我は精神体だけなら本来の姿を取り戻し、我の存在意義を思い出すことができた。貯蔵し、返還すること──我が本能をな」


「ちょっと、コル……何言ってるの……?」

「今から、お前には我が得たリソース──お前たちが経験値と呼ぶものを返還する。生憎今我が出来るのは、『ただ返す』だけだが……それに加えて、我の力を君に相応しい形で授けよう」

「コル、お願いだから、ちょっと待ってよ……」

「──そうなれば、我の体は消滅し、この世界から除外される……故にユキト、お前とはここでお別れだ」

「っ──だから、ちょっと、待ってってばっ!」


 たまらず僕は叫んだ。さえぎる物の何もない空間で、僕の声はまっすぐにコルに届く。


「ちょっと待ってよ! 僕が得るはずの経験値を奪っていたとか、それを今返すとか、そうしたらコルが消えちゃうとか……! いきなりすぎてわかんないよ! そんなの、はいそうですかって言えるわけないだろ!?」

「ユキト……」


 僕が子供の様に首を振ると、頭上からコルの悲しげな声が聞こえてくる。


「大体、コルって何者なの……!? こんなこと、普通の魔物じゃ絶対にできない……! そうでしょ⁉」

「……ああ、その通りだ」


 喚く僕の肩に、何かが乗っけられた。

 見ると、それはコルの頭だった。コルは眠るように瞳を閉じている。

 もしかしたら、コルは僕に抱き着いてきているのだろうか──


「すまない、焦るなと言っておきながら、我が一番焦っていた。名残惜しくなる前に、お前にこれ以上愛着を持ってしまう前に──全てを語って、お前とは別れたかったんだ」

「そんなっ……悲しいこと、言わないでよ……」

「ああ──すまない」


 コルの頭を抱きかかえて、コルもまた僕の頬に頭を寄せる。

 体を覆う鱗は以前までとは比べ物にならないほどに硬くて、けれどその奥からよく知っているコルの体温が感じられる。


 そうして何分か身を寄せ合った後──滔々とコルは語りだした。


「我は──いわゆる異常生命。イレギュラーに分類される生物だ。ユキトの世界には時折、冒険者に友好的な魔物が現れるだろう? 我はあれの極まった存在のようなものだ」


「我は生まれながらに、人に従属することを本能としていた。人の力になることを生まれた時から望んでいた。人を抹殺することを本能とする大多数の魔物の真逆だ。我の固有能力は、『貯蔵と返還』。ユキトの世界の銀行のようなものだ。契約した冒険者に経験値を預けてもらい、それで我の力を高めることができる。そして、必要になれば預かっていた経験値を冒険者に利子をつけて返す──そういう力だ」


「そうして我はどこかの巨大なダンジョンの隅に生まれ──しかし、とある男にすぐに捕まった。それが、風巻の所属する組織の親玉だ。風巻は、我の世話を命じられていた者の一人だった」


「しかし、我の世話係は我の能力には気付かず、挙句の果てには我を連れて行くとレベルが上がりにくくなると怒り出した。当時──あの小さな姿の我はまともに言葉を発することもできず、彼らの怒りを受け入れるしかなかった。本能が、彼らに反抗することを許さなかった。無数の針を刺され、脚を折られ、歯を抜かれた。反抗しないことと時間が経てば傷が再生することが判明してからは、それは更に苛烈になった」


「重く苦しい日々が続き──やがて、我の本能は崩壊した。自分の能力も忘れ、自分が搾取される側だと信じ込み、力になりたいと思っていた人間達を、恐怖するようになっていった」


「ここにいてはいずれ死んでしまう──幼い我はそう思い、機を見計らって奴らの元から逃げ出した。走って、走って、走って──そうしてあの日、ユキトと出会った」


 コルはそこで言葉を切った。

 僕は顔を上げられなかった。いつの間にか溢れていた涙が、足元に小さな水溜まりを作っていた。


「……痛いぞ、ユキト」


 コルが困ったように、僕の心を落ち着けるように、言う。

 いつからか、コルの頭を抱く僕の腕には、強く力が込められていた。


「ごめ、ごめん……でも、そんな、そんな酷いことを……!」

「……お前は本当に、優しいな」


 コルはそう囁いて、僕の肩から頭を離した。


「だが、お前が悲しむことも、嘆くことも、怒ることもない。何故なら──我はお前と出会うことができた」


 コルが両翼を広げた。その姿は、喜びを表しているようにも、僕を安心させるために体を大きく見せているようにも見えた。


「──ユキト。お前には迷惑をかけた。自我の崩壊とともに我の精神は著しく幼くなり、能力の制御もできなくなっていた。そのことを自覚しないまま、お前の経験値を根こそぎ奪ってしまい、自分のものにしていた。お前の苦悩は全て──我のせいだ」

「違う、違う、そんなの違う……! 僕は、僕はたくさんコルに助けられた! コルがいたから、僕は戦えてこれたんだ!」


 コルが手を貸してくれたから、エクススライムを倒しきることができた。

 コルが助けてくれたから、ゴブリンリーダーに殺されずに済んだ。

 愛稲との探索の途中、コルは何度も僕達が見落としていたものに気付いて教えてくれた。

 風巻との戦いでも、勇気を振り絞って一緒に戦ってくれた。

 それに──コルは弱気な僕を、逃げそうになる僕を、いつだって励ましてくれた。


 コルに迷惑をかけていたのは──コルに助けられていたのは、僕だって同じだった。


 けれど、コルはそう主張する僕を優しく見守るだけだった。頷きも、否定もしない。


「……ユキト。我はお前と出会えて、本当に良かった。お前が与えてくれた食べ物は、どれも美味で、活力になった。お前と一緒に眠るのは、我の時間の中で一番安らぎを感じる時だった。お前とダンジョンに潜るのは、恐ろしくも楽しく、ずっとこの時間が続いてほしいと思えるような──幸せな時間だった」

「やめて……やめてよ……そんな、最後みたいなこと言わないでよ……!」


 僕が涙をあふれさせて訴えても、コルは優しいまなざしのままだった。


「経験値は、全部返さなくてもいいから、半分だけでも十分だから……! お願いだよ、コル……どこにもいかないで……!」

「ユキト──それは、不可能なんだ」


 コルの声は、驚くほど澄んでいて、静かだった。


「貯蔵ではなく吸収──全ての経験値を自身の糧にしてしまった以上、一部だけを返すということはできない。そして、全てを返したら、風巻に多大なダメージを与えられた我の肉体は崩壊し、光へと変わるだろう」


 それは、ダンジョンで何度も見てきた光景だった。僕が何度も起こしてきた結末だった。だから、容易にそれを想像できた。


「そんな……こんなことって、ないよ……!」


 戦って、傷ついて、それでも諦めたくないと願って──行き着いた場所が、相棒との別れだなんて。

 震える僕の、今度は胸に、コルが自らの額を押し当てる。


「──大丈夫だ、ユキト。我が居なくても、お前ならやれる。あの絶望の状況でも諦めず、臆病な心を押し殺して、無謀にも強敵に立ち向かおうと足掻いていた君なら──」


「──我が選んだ最高の冒険者の君なら、この先どんな困難にも立ち向かえる」


 コルの熱が、額を通して僕の体の中へ流れ込んでいくのを感じた。

 熱だけじゃない。コルの思いが、心音が、僕の中に入っていく。

 大切なものを預けるように。決して一つも零さないように。ゆっくりと、ゆっくりと、満たされていく。

「──だから、勝て。ユキト。お前が守りたいものを、お前が失いたくないものを守り抜け」


 コルが言葉を発する度に、どくんどくんとお互いの心臓の音が溶け合っていく。

 力が沸き上がるのを感じた。全能感に近い、高揚する感覚。


「コル……!」

「お前は自分で思っているよりも、遥かに強く勇敢な人間だ。お前の勇気に当てられ、我はあの土壇場で我の存在意義を思い出せた。どうか、この力を役立ててくれ」

「待ってよ、コル……! まだ話したいことが、聞きたいことが、たくさん……!」


 力が漲っていく。精神体だけじゃなく、どこか遠くにある肉体までもが、息を吹き返すかのようだった。

 それに比例して、コルの気配が、命の重さが、どんどんと軽くなって、薄くなって、小さくなっていくのを感じた。


「時間は有限だ──だがユキト。悲嘆することは何もない。人が誰かと愛を育むように、多くの魔物が人を襲うように、この世界がいくつもの悲劇を内包しながら、尚も美しいように──これは自然の摂理。我に定められた宿命。それに殉ずるまでのことだ」

「でも、でも……‼」

「ああ、わかってる。我だって同じ気持ちだ。もっとお前と居たかった。もっとお前と色々な景色を見たかった。美味いものを食べ、戦いに赴いて、一緒に眠って……お前が突き進む覇道を、誰よりも近くで見届けたかった」


 コルの瞳から、涙があふれだした。僕とコルの涙がまじりあって、一つの海へと変わっていく。


「だからな、ユキト。一つだけ、我の願いを聞いてくれないか?」

「願い……?」

「これはしばしの──長い別れに過ぎない。決して、永遠などでは、無いのだ。お前の生き方次第ではあるがな」

「どういう、こと……?」

「我の残滓が、お前の中に宿る。その残滓はお前と共に成長するだろう。そして、いつかお前が冒険者として自身の器を完成させたとき──我とお前は再び会えるだろう」

「っ──」


 それは、可能性と呼ぶにはあまりにも不確かで、約束と呼ぶには一人に寄りかかりすぎていて、希望と呼ぶにはあまりにも遠すぎる──一筋の光だった。

 どくん、と心臓が脈打った。


「こんなことを願える身ではないとわかっているが……ユキト、たの──」

「──約束する。僕は絶対に強くなって、またもう一度、君に会いに行く」


 僕の大切な友人に、戦友に、家族に向けて──誓いを立てる。

 コルの表情は見えないけれど、微かに彼の体が震えた気がした。


「……ありがとう、我が友よ」


 ついで──ドグンッ、と再び、一際大きく心臓が跳ねた。

 コルから流れる力がさらに熱くなり、コルの周囲には光の粒子が舞い始める。

 別れの時が、もう間近に迫っている──。


「……じゃあ、行ってくるね、コル」

「ああ──行ってこい。お前の未来を掴み取るために」


 コルが目を細めながら大きな口を開いて、笑ったように見えた。

 そして竜の姿が溢れる光の彼方へと消え去って──僕は現実世界に引き戻された。


 ──先ほどまで真っ白だった世界に、急速に色が戻っていく。

 地面の色、岩の色、血の色。重たい瞼を上げた先に広がる光景は、間違いなく意識を失う前まで僕が居たボス部屋だった。


 戦いの傷跡と、少女を組み伏せる男。そこから離れて、項垂れる僕。

 事態は悪化も好転もしていない。未だに絶望の淵に立った状態のまま。


 ふと、視線を左に向ける。

 そこには、もう何も、誰もいない。

 さっきまでそこに居たはずの、食いしん坊でお調子者な魔物は、跡形もなく消え去っていた。


「っ……ぐ、ぅ……!」


 泣きそうになるのを必死にこらえる。今はそんなことをしている場合じゃない。


「かっ……は……!」

「はは、いいねえその顔。そそるぜ……!」


 視界の奥では、風巻が未だに愛稲の首を絞めていて、愛稲はもう意識を失う寸前だ。


 助けなきゃ。そのために、戦わなきゃ。


 血を流しきり、体は傷だらけで、息も絶え絶え。


 それでも──全身が炎になったかのように、熱い。心臓だけでなく、五臓六腑、四肢に至るまでが脈打っている。


 脳みそが、戦えと叫んでいる。体が、立ち向かえと怒っている。魂が、負けてたまるかと喚いている。


 ふらつきながら、立ち上がる。あんな体が重く感じていたのに、今は少し疲れたと感じる程度だ。


 瞼を開き切ると、視界が妙にクリアになっていた。風の流れも、漂う匂いも、空気の湿り気まで、肌で感じられる。


 レベルが、上がったのだ。魂の内で、理解した。


 コルの狙い通り、僕は今までの経験値を手に入れ、今ようやく、この戦いの場に臨む資格を得た。

 足元に落ちていた二振りの短剣を拾い、固く握りしめる。共に戦ってきた武器は、いつも以上にしっかりと僕の手に馴染み、まるで一つになってるかのようだった。


「……勝つよ、コル」


 自分以外誰にも聞こえないほどに小さな呟きに、心臓がドクンと答えた。

 胸の内から伝わる確かな優しさと温もりを受け取りながら──僕は両目をあらん限りに見開いた。


「──あぁあああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ‼」


 雄叫びと共に、僕は覚醒した。

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