弱虫イノセント

江藤 樹里

弱虫イノセント


「え、あんた、まだなの?」


 親友に大きな声で言われて、私は慌ててその口を覆う。ガタン、とテーブルにぶつかった。お昼ご飯に食べたうどんの汁がどんぶりから危うく零れかけて二年も着ている高校の制服にかかりそうになったけど、それどころじゃない。柔らかいぷるぷるの唇に私の掌が触れて、むぎゅぷ、と変な声を出して親友は黙る。私は気が気でなくて素早く周囲を見回した。


 だけど学校の食堂は昼食を摂るのに忙しい生徒でガヤガヤと騒がしくて、誰も私達の会話には注目していない。良かった。聞かれていないみたいだ。


 ホッと息を吐く。それから私は眉根を寄せて親友を恨みがましくジトっと見つめた。相談したのは私なのにこんな目で見るなんてと気づいた時には、親友が先に謝っていた。ごめんごめんと言いながら全く悪びれた様子を見せない彼女は、一応は私に配慮してくれたのか声を落とす。


「でももう付き合って結構経つでしょ?」


「ば、ばれんたいんに……」


「もう一年近く経つじゃん。それでまだ、キスのひとつもしてないわけ?」


「やややややめてよ……っ」


 私に言わせれば、まだ、それくらいの時間しか経ってないのに、き、き、キスだなんて、早計だ。


「あんた、まさか……」


 親友が呆れたような目で私を見た。くりっとした大きな目が今は呆れて私を映す。


「いや、何でもない。

 よく我慢できるわね、向こうが」


 言いかけた言葉を飲み込んで、親友は私の向こうに座る彼に目を向けた。


 線の細い、少女のような姿の彼が少し離れたテーブルで昼食を摂っていた。彼は目立つ友人達を持つ真面目な生徒会長だ。授業が始まる前に消すのが勿体ないくらいの黒板アートを全教室で至極簡単なことのように展開してみたり、調理実習で課題を早々に終わらせてから持ち込んだ知育菓子を真剣に作って同級生に振る舞ったり、かと思えば体育祭では全員が別チームになった試合でバチバチに火花を散らして大乱闘になったりする。


 いつも全部が全力で、楽しそうで、生徒からは人気がある。先生を困らせるから大人達からの評判は悪いけど、彼はそんなグループの一員だ。彼らはこぞって人を惹きつける魅力に溢れていて、私が惹かれたのも自然なことだった。


 先生は、生徒会長も務める真面目な彼が何故彼らと一緒にいるのかと首を傾げる。生徒会長として見過ごせない内容は止めることも私は知っている。物腰の柔らかいその生徒会長は、友達と話しながら周りの様子にも目を配っていた。


 一度に色んなことができない私は、彼を本当に尊敬している。


 バレンタインで想いを伝えられて、おつ、お付き合いをする間柄になれたけど、それだってまだ信じられないくらいだ。こうして遠目に見ているだけなのに顔は火を噴いたみたいに熱くなるし、心臓はバクバクうるさくて苦しいし、声だって上手く出せなくなる。


 正直な話、隣に立って歩くとか、手を繋ぐとかするだけで私は精一杯なのだけど、親友の反応に私は何だか気持ちがずーんと落ち込んだ。


「やっぱり、その、き、キスって、した方が良いのかな……」


 キスくらい、周りの子の話だとごく自然で当然のことのように聞こえた。特別な雰囲気は勿論あるみたいだけど、私のようにガチガチに緊張することはあまりないみたいだ。好きなら自分からキスしたくならない? なんて言われたこともある。


 そういうものかな、と思ったけど、でもどうしたって私はそんな風には思えなくて、緊張するし、恥ずかしいし、じんわり掌に汗をかいちゃうような気もするし、耳に移動してきたんじゃないかってくらい心臓はやっぱりうるさいし、何をどうして良いのか分からなくなってしまう。


 好きな人だから、尚更に。


「あんたが、したいかどうかでしょ」


 ドライな親友はテーブルに頬杖をついて私を横目に見やると、あっさり言い切った。


「その程度で駄目んなるなら、この先長くなんてないわよ」


 うぅ、と私は情けない声をあげた。


 そんなのやだ、ずっと一緒にいたい。


 でも、でも、キス、だなんて。


 それを想像しただけで真っ赤になる私のことを、面白いものを見つけたようにニヤニヤ笑いながら親友は自分のタンブラーからお茶を飲んだ。


 私はその視線とこの話題に耐え切れなくなってガバッと立ち上がる。図書館に行く、と次いで告げた。どんぶりの載ったトレイを持ち上げて、食堂から歩き去ろうとすると。


「図書館の本に、その方法は載ってないと思うよー」


 親友の声が追いかけてきて、私は慌てて振り返って顔だけで抗議の意を伝えようとした。彼女は笑って、ひらひらと手を振り返す。その確信犯な笑顔に私はむくれた。


 絶対、解っててやってるんだ。


 もう! と私は背を向けてトレイを下げるとその足でぱたぱたと図書館に向かった。


 図書館は飲食禁止だし、生徒は時間内に昼食を食べなければならないから、お昼休みが始まったばかりの今はみんな食いっぱぐれないように食堂に向かっている。その波に抗い、掻き分けるようにして、私は足早に廊下を歩く。図書館は三階建ての大きな別棟だ。食堂のある校舎とは二階の渡り廊下で移動できるからすぐに行けるのが嬉しい。


 昼食時間ということもあって広い図書館は人もまばらで、時間の流れがとても穏やかにゆったり流れているように感じられた。


 図書館は静かで好きだ。集中できる。


 彼と初めて話したのも、ここだった。


 バレンタインに想いを伝えたのも。


 背の高い本棚が立ち並んでいて、本棚が並んでいる場所は蛍光灯の灯りが遮られるせいか少し薄暗い。古い本が並べられた人気ひとけのない本棚の間で本を探す振りをしながら、私は棚に額を押し付けて体重を預けて目を閉じた。


 誰も手に取らないくらい古い本がこの本棚には眠っている。司書さんの話だとどれも年に数回は本棚から出してカビが生えないように風に当てるらしいのだけど、どうしたって手に取られる回数が少ない本は奥に追いやられるし、風に当たる機会も少ない。この本棚の前にいると、そんな古い本の匂いが辺りに充満して、私を包む。


 私はこのカビ臭い、古い本の匂いが好きだ。母がこういった古い本を大切に取っておく人だからかもしれない。大切に扱っても何十年も経った、母が子どもの頃に読んだ本はどうしてもカビ臭くはなってしまうけど、母がその本で楽しそうに読み聞かせをしてくれたから私は本が大好きだし、この匂いを嗅ぐとその頃のことを思い出す気がする。


 母が語って聞かせてくれた、本の中の御伽噺。最後はいつも、お姫様と王子様が結ばれるハッピーエンド。そんな物語に憧れて、私も恋をした。私は決してお姫様なんてナリではないけれど、彼は間違いなく王子様のようで。だからいつも舞い上がってしまうのかもしれない。


 目を閉じて静かなこの空間にいると、段々と落ち着いてきた。親友の声が耳の奥で甦っても、冷静に捉えられるようになる。


 私がしたいかどうか。


 ……したくないわけじゃない。


 だけど、そう思うのは、なんだか、ふしだらではしたないことのような気がした。


 周りの恋する少女達はロマンチックなキスのシチュエーションを語るけれど、私は他のことが気になってしまう。


 手を繋いでも、大丈夫だった。


 だけど、き、キスなんて、したら。


「──調べ物?」


 背後でたった今キスの相手として思い浮かべていた人の声がして私は文字通り飛び上がった。


 恐る恐る振り返ると、さらりと音がしそうなほど綺麗な黒髪が目に入る。くすくすと同じ色の目が笑って細められていた。こんなに薄暗い場所でもしっかりと光を捉えて控えめに輝く彼の目は、いつにも増して綺麗だ。


 男の子にしては少し髪の毛が長い、少女のような彼。黙っていても綺麗だけど笑うと私なんかよりもずっとずっと可愛い。本人は中性的に見られがちなことを気にしているようだから、初対面からしばらくの間、事情があって男装している女の子だと勘違いしていたことは秘密だ。


 白皙の肌に映える赤い唇はあらぬことを考えていたせいか何だか艶めかしくて、でも逸らそうとすればするほど私の視線はどうしてもそこに向かいがちになった。


 気づいては慌てて戻す。


「驚かせるつもりはなかったんだ。

 何か探してるの?」


 話しかけられて、動く唇からまた目を離せなくなる。でも脳が何とか言葉を認識してくれたし、訊かれているという状況も把握できたから、私は必死で言葉を探した。


「うん、ううん、あの、特に何かを探してるとかじゃなくて、えっと」


 慌てすぎて自分でも何を言ってるのかよく解らない。


 だけど彼は、穏やかな表情で待つように私を見つめた。優しい眼差しは彼が本のページを捲る時に注ぐものと同じで、私はこの図書館で見かけた彼のそんな眼差しに惹かれたのだ。


「か、考え事を……ここなら集中できるし」


 私の答えに、彼は目を細めた。私の答えに興味を持った顔だった。


「ふぅん。どんな?」


 追及に、私の顔がボンッと爆発したように赤くなった。


 い、いえない。私は咄嗟に口をつぐんでおろおろと視線を泳がせた。


 彼は単純に分からないことなら二人で考えた方が答えは出るかもしれないと思って訊いてくれているんだと思う。校内一優秀な生徒会長が考えてくれる問題や悩みなら、すぐに答えも出るのかも。だけど、だけど言えない。こんなふしだらなことを考える女の子だって思われたくない。


「……僕には言えないようなこと?」


 私がおろおろしている間に彼は自分で答えを出したのか、私に合否を求める。僅かに悲しそうな表情がその顔に浮かんだ気がして、私は思わず彼をじっと見つめた。


「もしかしてキミは、僕と付き合ってみて、幻滅したんじゃないのかな」


 え?


 私が瞠目する間に、彼はふっと私から目を逸らす。口元は穏やかに笑っているのに、目はとても寂しそうに見えた。


「そうなら、そう言ってくれて良いんだ。あのグループの中でセーブ役みたいなことをしているけど僕だってバカをやるのは好きだし、それで予想に反して誰かに迷惑をかけてしまうこともある。僕は見た目ほど、良い人間じゃない」


 予想もしていないことを言われて、私は混乱していた。


 どういうこと、どういうこと。


「いつも、僕がキミに近づこうとしたらキミは逃げる。繋いだ手も、震えてた。

 僕が、こわい? 自業自得なんだけど、キミの告白を受け容れたのも僕らの悪戯か何かだと思ってる?」


 彼に少し傷ついたような色が見えた。でも傷つけたのは、私だ。今、怯えにも見えるほどに何かを恐れているのは、彼だ。


 私はぷるぷるとかぶりを振る。そんな風には思っていないことが、彼に伝わるように。


「ちがう、ちがうの。

 あなたがこわいなんてこと」


「なら」


 どうして、と続く言葉を彼は飲み込んだようだった。私も気になってしまう。どうして、そんな風に言いたいことを、言おうとしかけたことを我慢してしまうの。


 それで私は気づいてしまった。彼のこと、何も知らない。知ろうとしてこなかった。彼は私を知ろうとして近づいて努力してくれたのに、私が拒んでいたんだ。ひとりで緊張して、目の前のことを受け容れてこなかった。


「わ、わた、わたし……ただ、ちょっと、緊張しちゃって」


 呼吸が上手くできない気がする。彼を前にすると緊張してしまう。でも今は彼も私と同じくらい緊張しているように見えた。私が何を言うか緊張しながらも待ってくれている。


「……緊張?」


 かすれた声だった。ただ私の言葉を繰り返すだけでも、彼は勇気を振り絞ったみたいな声を出す。いつも余裕たっぷりに見えた彼が、こんなにも余裕がない。だけど私だっていつも以上に余裕がない自覚がある。もう自分の声だって聞こえなくなりそうなくらい心臓はばくばく鳴っているし、目はどこを見て良いのか分からないからおろおろとしていて絶対に挙動不審だし、でも何とか言葉にしなくちゃと思う頭はフル回転でオーバーヒートしそうだし、というか、とっくにしていてもおかしくないし。


 それでも私と同じで文字を追って楽しむ彼には言葉にしなくちゃ伝わらないと知っているから、私は頑張って言葉にする。


「だ、誰かとお付き合いだなんて初めてだし、私まだ、自分が何をどうして良いのか判らないの──か、彼女として」


 言いながら顔がもうこれ以上はムリってくらいに赤くなってるのが自分でも判った。恥ずかしすぎて泣きそう。泣きたい。


 自分の気持ちを口にするのは本当に恥ずかしい。こく、告白だって今でもどうやったのか自分でも不思議なくらい。でも、ありがとう僕もだよ、と笑ってくれた彼に誤解されるのは、悲しい。


「それに、あなたがというわけじゃないけど、ちょっとこわく思ってることもあるの。

 き、聞いてくれる?」


 もう彼の顔を見られなくて私は視線を彼の胸元のネクタイに合わせながら、まるでそれが彼であるように返事を待たずに一気に言った。


「あなたと手を繋いだり、一緒にいるの、嬉しい。どきどきする。

 でもあなたに触れるだけで、私、あ、あか、赤ちゃんができちゃうんじゃないかって、心配なの」


 彼は何も言わなかった。その沈黙が何だかこわくて、私は必死で言葉を続ける。


「あなたの赤ちゃんが嫌なわけじゃないけど、まだ学校もあるし、そんなことになったら色々困ったことに……」


 彼のネクタイが微かに震えたような気がした。彼の右手が動いて、口許を隠すような素振りを見せる。


 それにつられるようにして私が目を向けると、彼は、声を殺して笑っていた。


「ごめん、笑いごとじゃないのは解ってるんだけど、ごめん、本気で……言ってるよね、ごめん」


 私はぽかんとして彼を見つめた。何に笑ってるんだろう。きょろきょろと周りを見てみたけれど、私たち以外には誰もいないし本以外には何もない。ということは、私に?


「だ、だって私が読む物語では二人が結ばれたら大抵、子どもがいるんだもの。その二人がしてるのって、キ、キス、だし……」


 私が言い募るほど彼は笑ってしまう。そうだね、と笑い声と笑い声の間に言ってくれるけど、私、全然わけが分からない。


 彼はしゃっくりのように制御できない、くすくす笑いの発作を起こしたみたいだった。笑うのをやめようとするほど笑ってしまうようだ。それでもこんな時になんだけど、そんな彼を見ていると、ずっと見ていられそうなくらい笑顔が優しくて可愛いなんて思ってしまう。


「あぁ、そうか、それなら納得した。

 ずっと心配だったんだね」


 無理矢理くすくす発作を抑え込みながら彼が言った。体が時折、発作に震えるけど、悲しい色はもうどこにも浮かんでいない。


 私がこくりと頷くと、彼は穏やかに微笑んだ。私の好きな微笑だった。


「赤ちゃんがどこから来るか、キミは知ってる?」


 私はぷるぷるとかぶりを振る。保健体育でやってない? と訊かれたけど、曖昧にしか覚えていなくて私は首を捻った。そんな私を見て、うんうん、と彼は頷く。


「それは追々教えてあげるよ。

 とにかく今覚えてほしいのは、手を繋いだりしたくらいじゃ、子どもはできないってこと」


 私は目を丸くした。


 ホント? と訊けば、ホント、と返される。彼が意味のない嘘をつくことはないと思うし、後で教えてくれると言うから信じよう。


 彼に大丈夫と請け負ってもらった私は不安が解消されて安堵の息をついた。


「良かった。あなたに触っても赤ちゃんできないんだ」


「あー、うん、まぁ、その、一部にさえ……」


 何かモゴモゴ口の中で言ったことが聞き取れなくて聞き返したけど、何でもないよとはぐらかされた。


「ねえ、キスをしても子どもはできないよ」


 彼が穏やかな微笑のまま同じ声で私に言う。


「もっとも、キミは僕との子どもは嫌じゃないみたいだけどね」


 思わず後退りしようとしたけど、背中が本棚に当たって阻まれた。彼の手が近づいて私の頬を撫でる。本のページを捲る、優しくて温かい手。けれど穏やかに笑っているはずの彼のその手は、微かに震えているような気がした。


 あなたも、緊張するのかな。


「嫌なら、ムリにはしないけど」


「う、ううん、だいじょうぶ……っ」


 私は覚悟を決めて彼を見た。穏やかに笑った彼を私が視界におさめると、彼は私に尋ねた。


「キミは、僕とキスしても良いって思ってくれる?」


 面と向かって尋ねられると恥ずかしい。その質問は、親友の答えと同じだった。


 ──あんたが、したいかどうかでしょ。


 こんなに今にもキスしますって雰囲気なのに、私が嫌だと言えば、彼は分かったよと言って引いてくれるんだろう。でも、私の不安は彼が解消してくれた。その心配がないなら、私は。


 私は勇気を出して、一度で伝わるように大きく頷いた。


「だ、だけど、はしたない子だって、思わないでくれる……?」


 頷いた後に生まれた私の不安を頑張って口にしてみれば、彼は驚いたのか目を丸くした。それからふわっと音がしそうなほど柔らかく笑う。大丈夫だよ、と静かに返された。彼はまた、私の不安を取り除いてくれる。


「可愛いなって思うよ」


 そのセリフがあまりに王子様すぎて耐えられなくなった私は彼を見られなくてぎゅっと目を閉じる。


 あれ、待って、キスする時の口ってどうしたら良いんだろう。このままで良いのかな、それとも漫画のタコみたいにちょっと突き出した方が良い? あれ? でも今更もう訊けるような雰囲気じゃないし。というかお昼に食べたうどんの味がしちゃうんじゃ──。


 目を閉じた後に浮かんだ疑問に頭の中であたふたしている間に、ふにゅ、と柔らかい感触が唇に触れた。


 凄く長かったような気もするし、一瞬だったような気もするし、正確にどれくらい触れていたのか全く分からないけど、離れた彼が小さくふふふと笑って私の眉間を親指でこすって私はようやく目を開けた。


 ぎゅっと目をつむりすぎて眉間にしわが寄っていたみたいだ。私は慌てて自分の眉間を隠すように両手で覆った。


 私がさっと覆った両手で狭まった視界の中で、彼がくるりと背を向ける。はーっと盛大な息を吐いて、風船から空気が抜けるようにその場にしゃがみこんだ。


 私が慌てふためいて彼の前に回り込み、膝をついて覗き込むように彼を見ると、彼は両手で鼻と口を覆うようにして息を整えていた。心なしか顔も赤い気がする。


「緊張した……」


 覆った手の向こうから、彼のくぐもった声がした。私はきょとんとして彼を見つめることしかできない。


「もー……見ないでよ」


 照れ臭そうに笑って彼は言う。でも優しい眼差しは相変わらずで、本当にやめてほしいわけではなさそうだ。


 どうして彼がそんな風になるのか分からなくて私は首を傾げた。分からないでいる私に、彼は口を覆っていた手をまるで自分を抱きしめるように膝に回すと、嬉しそうに笑んだ。


「やっと、近づけたね」


 その言葉が思いがけず私をきゅんとさせて、私は頷いた。私もそうだ。私も彼に近づいてみたかった。心配や不安がないと、こんなにも。


「ん? なぁに、もう一回って顔してるよ?」


 茶化すような声音で言って彼が小首を傾げる。私が慌てて首を振ると彼は笑った。


「し、してないっ」


「うそ、書いてるよ」


 え、と私が咄嗟に自分の顔を両手で隠すと彼はまた笑った。


「書いてなんか」


「書いてるよ」


「そんな、いつの間に」


「いつの間にって」


 くすくす笑って彼は手を伸ばすと、膝をついて一歩進み、私を抱きしめた。はぁ、と思わず息を吸った私は、そのまま吐くのを忘れてしまって固まった。こんなに近くに誰かを感じたのは初めてだ。親友とだってハグはしないし、両親に抱きしめてもらったのなんて小学生の時が最後だった気がするから、もうほとんど覚えていない。


 顔が熱い。両手で覆っている手が熱いのかもしれないけど、とにかく顔が熱い。心臓が胸を突き破って外に出て来てしまいそうだ。息が苦しい。限界まで吸っていて少ししか吐けていないから当たり前なのだけど。


「……僕ばかりキミを好きかと思っていた」


 思っていたより近くで彼の声が聞こえて、私の耳はどうにかなってしまいそうだった。だけど何だか深刻な言葉が聞こえてきたから何とかしてそっちに意識を集中させようとする。


「キミも、僕を好きでいてくれてるかな」


 この一年の私の態度では、彼を不安にさせてしまっていても不思議じゃない。いっつも凄く緊張して上手く話せなくて、手を繋いでも心配事から上の空で、彼のことを全然知ろうとなんてしなくて。


「僕はね、この図書館でキミを見かけてずっと気にしていたんだ。いつも楽しそうに本を読んでいて、友達といる時とは全然違って。キミの読む本がどんなものなのか気になってこっそり同じ本を手に取ってみたこともあったんだよ」


 ストーカーではないからね、と彼は言う。うん、と私は頷いた。同じことをしたと言い損ねた。


「キミを知ろうとすればするほど分からないことが増えていくんだ。何を考えてるんだろう、何を見て何を感じてるんだろうって」


 そんな風に自分を思ってもらえるのは、何だかくすぐったかった。私よりも私のことを気にかけてくれる人がいる。それはじんわりと胸の奥が暖かくなっていくような感覚だった。そしてきっと、独り占めではいけない感覚だ。


「ありがとう、嬉しい。あなたにも同じように思ってもらえたら嬉しいけど……どうしたら良いのか……」


 彼が笑ったのか振動が伝わった。もぞ、と動いて私の後頭部を温かい手が撫でてくれる。


「そう、そう思ってくれるなら今はそれで充分だよ。これからゆっくりやっていこう、二人で」


 二人で。


 くすぐったい思いで私は頷いた。どうか彼がくれるこの暖かくてくすぐったい気持ちを、彼に感じてもらえる日が来ますように。そしてそれがどうか、私の言葉でありますように。


 その時、予鈴が鳴って私達はハッと我に返った。午後の授業が始まってしまう。図書館から教室までは、ちょっと遠い。怒られるかもしれないけど、走って行かないと。


「わ、早く戻らないと」


 彼が私から離れて、ここからでは全然見えない出入り口がある方に顔を向けた。彼が離れたことに少し寂しさを覚えたけれど、それも目の前に差し出された手に全て振り払われた。


「行こう。遅刻する時は一緒だよ」


 悪戯っぽく笑って彼は言う。私はその手を少し躊躇ったけれど、しっかりと掴んだ。


 不安を取り除いてもらった私の手はもう、震えていないはずだ。この手から、彼に私の気持ちが流れ込んで伝われば良いのに。


 図書館の中で早足になりながら進む彼の手に引っ張られるように私も歩きながら、そんなことを思った。


 告白した時のように私も好きだと、言えたら良いけど。今は手を繋ぐだけでも精一杯で、どうか振り返らないでと願うばかりだ。今振り返られたら、茹でだこみたいに真っ赤な私の顔を見られてしまうから。


 でも今日は一緒に帰れたら良いな。こうして手を繋いで、帰れたら。そうしたら私もあなたを本当に好きだと、あの時みたいにまた言えるかもしれない。言葉にして、伝えたい。二人で言葉を交わしながら、私達の間にあるものを育てていけたなら。


 図書館を出てぱたぱたと小走りになった私達の髪を、風が掬っていく。彼の少女のように見える髪の毛の間から、少し赤くなった耳が見えた気がした。




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